プロローグ
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■はじまりはたびそらから
 はじまりはそう、ふと見つけた『たびそら』というホームページであった―
 
 2000年12月、忙しすぎて嫌気がさした仕事を辞めた時は何もかもやる気が失せていた。三年弱という短い就職期間では退職金もでなかったが、ボーナスをもらったことやゲーム以外これといった遊びもしない自分には200万円以上の貯金があった。
 失業保険が三ヶ月だもらえるというので(ただしその前三ヶ月間の猶予期間がある)とりあえずは半年間は働かずに過ごすことにした。
 もらえるお金は働いていた時の基本給の60〜80%。ボクの場合約15万円×三ヶ月で45万円ほどいただけることになった。
 1月〜3月は当時ドリームキャストで発売されたネットワークゲームPSOにはまっていた。完全な朝型ひきこもり生活である。4月〜6月まではMLBNBAそしてPCでのツーショットチャットにはまることになった。
 恥ずかしながらこの歳(当時25歳)まで女性とお付き合いしたことがなかったボクはこの新たなツールで女の子を探そうとした。それこそ全国や海外にいる子ともおしゃべりしたり、ときにはネカマに遊ばれたり、2chにさらされたりさんざんなこともあったが、その中から近郊に住む何人かの子と会ってお食事でも、という機会が少しずつ増えていった。
 チャットでは相手が見えないこともあり、歯の浮くようなコトやHなコトまで何でも言えたりするのだが、実際お会いするとカルドセプトのような共通の趣味があるわけでもなく、話題に乏しくなかなか場が盛り上がらずバイバイ(;_;)/~~~ということが多かった。もちろんボクの容姿が…ということもあるのだけれど。
 PCでチャットをする。当時まだ常時接続も黎明の頃に相手をしてくれる女の子というのはどんな子だろうか? 理系企業に就職したどちらかというと冴えない子が、現実では見つからない交際相手をネットで探すという感じがするのではないだろうか。もしくは暇つぶしの遊びだ。ところが実際会ってみると意外なことに真面目な美人が多かったりするのに驚いた。
 
■はじめての恋人、そして別れ
 自宅でネットにつないだ男の子諸君ならわかると思うが、エロページが見たくなるものだ。日本のモノはたいてい無料だがモザイクがかかっていてつまらない。外国のモノはやたらウィンドウが開いて広告が多く、どこをクリックしたらいいのかがわからない。そうこうするうちに毎日更新されるお気に入りのページを見つけ、夜な昼なに自慰行為を繰り返すようになった。それで飽き足らないボクはH目的で女の子を探そうともしていた。
 もちろんラブホなどの経験もないボクは、自分の部屋(当時相模原)に呼ぶことになった。ドラッグストアで緊張しながらコンドームを買ったはいいが、いざとなると立たずに入れるコトもできず初体験は失敗に終わった。
 その後、親しい女の子ができて(一般にはH友達というのだろうか)慣れるにつれなんとかセックスらしいものができるようになった。ただしボクは早漏であるらしいし、ゴムをつけている間にしぼんでしまったりと苦労が絶えなかった。しかしその子と付き合うという関係にはならなかった。お互い恋人ができたというのが理由かな。
 そしてついに26歳の誕生日を前にして人生初の恋人ができた(これもチャットからだけど)。1度会ったその日にお互い惚れてしまいました。最初の1ヶ月はラヴラヴだったのですが、ちょうどドリキャス版のネットワーク対応カルドセプトの発売や宇宙一リーグの終盤戦でゲームの方に情熱を燃やしていたボクは、ある時彼女に聞かれた問いに、
 
 「今は君よりもゲームの方が大事」

 
 と本音を言い切ってしまい、わずか三ヶ月で恋愛の終幕を迎えたのでした。嘘をつくことができないのがボクの不器用な生き方です。
 
■アルバイト、そして外へ
 失業保険の期間が終わり収入がなくなったのでバイトを探すことにした。貯金はまだ余裕があったのであまり働く時間の長くないものをと考えた。目に止まったのは駅の張り紙。小田急電鉄の電車の吊り広告張替え週三日時給950円。たいしたお金にはならないが社会復帰のリハビリに体を使う仕事もいいだろうと始めることにした。
 あっけなく面接のその場で採用され、入ってみると約10歳も年下の高校生もいて、ボクは年下に頭を下げて仕事を教えてもらうことになったりした(べつにいやじゃない)。夏はサウナ、冬は冷蔵庫の中での作業はかなりこたえたけど、1度も体調を崩さず1年間続けることができた(1度サッカー部の試合でひどい捻挫をしたことがあったけど)。
 ちなみに中吊り広告は広告料にいくらかかるかというと、全車両の同じ位置に2日間広告を出すだけで100万円!吊る位置は裏表合わせて32ヶ所あるので…と考えるとものすごい収入だ。
 途中単発のバイトもかけもったりしたが、さすがに収入が少なく当初あった貯金もかなり食いつぶしていた。
 その頃、時期にして2002年3月、たびそらに出会った。
 ハッスラーの後輩、中村は一年間休学し中国へ留学。帰国する頃には通訳できるほど中国語が堪能になった。英語が得意でないボクはどこかへ留学してみようか、そんなことを考えながらネット上をサーフしていた時にたびそらに会ったのだ。
 聞けば作者の三井さんも仕事を辞め初めての海外旅行で十ヶ月かけてユーラシアを一周したそうだ。そんなことが可能なんだ、という驚き!そしてそれ以上に、沢木耕太郎猿岩石のような特別な人でなくただの素人でもこんなことができるんだという事実。魅力的な写真の数々とほぼ毎週更新され徐々に洗練され読ませる力がある巧みな文章(この当時はタイ編までを収録)。
 『旅に出よう』 ―そう思った。
 
■オフ会と行き先
 お金、アパートの引払い、カルドセプト…。海外に出る前に問題が山積みだった。
 三井さんが新宿でオフ会を開いてくれ、本人にお会いする機会があった。
 語り上手でもある彼から得る情報は生々しく実りあるものだった。十ヶ月で100万円ほど使用したと聞き目安とした。時を同じく中村が大手を蹴って一年目から海外研修に行かせてくれるという会社に就職した。てっきり中国語を生かすかと思いきやインドネシア[Indonesia]支部へ行くことになった。
 彼からベトナム[Vietnam]のフエ[Hue]・ホイアン[Hoi An]がいいよと聞かされベトナム[Vietnam]行きが決定。キールさんが北京に赴任しているとのことで中国[China]行き決定。ケムさんに中国[China]の大理[Dali]を薦められ決定。前の会社のバスケ部の新人の女の子たちがアンコールワット[Angkor Wat]を見てみたいなぁとかいうのでカンボジア[Cambodia]行き決定。としだいにルートが定まってきた。
 重い荷物を持って歩くほどの体力はないので、バックパッカーはやめてリュックだけ(中国[China]で購入)で着替えとタオルとガイドブックとパスポートくらい。ノートPCやPS2は仲の良かった友子さんに半分プレゼントのつもりで預け、原付は会社の先輩植松さんに預け、余ったゲーム等はマスターさんに引き取ってもらい、家電は国際交流協会に全て置き、いよいよ出発することになった。
 
■全国大会と捨てるモノと準備
 2002年、カルドセプトの発売&全国大会という大きな目標があった。全国大会は12月。旅はそれが終わってからにしよう。この頃はまだ、旅<<カルドセプトという比重だった。それは今でも同じ。
 資金は半年くらいの余裕をみて、1ヶ月10万円×6ヶ月の60万円。トラベラーズチェック(以下T/C)は両替がめんどいので持たない。全て現金でUS$と円を半分ずつ所持。盗まれたり紛失した時、T/Cだと再発行が効くから安全とはいうものの、殺されたら結局おしまいなのだし途上国ではT/Cが使えない銀行も多いという。手数料が余計取られるというのもあり結局現金オンリーで。
 アパートは約2000冊の漫画と200本近くのゲーム、家電その他。捨てなければならないものが多すぎた。引払って実家新潟に帰るという手もなくはないが、大学以来遅い反抗期で両親とは不仲。最後に会ったのは3年以上前、2000年秋のの結婚式の時。それ以来全く連絡は取っていないし退職も引越もこの旅行すら内密。どのツラ下げて帰ることができようか。
 実家には最初から頼るつもりもなく、全て処分することにした。もちろん帰国後の宿のことなど全く考えていない。
 漫画はGEOブックオフなどの中古本屋で買い取ってもらい、どうしても売るにしのびない絶版本だけはネットで欲しい人を探してプレゼントすることにした。(オークションを選択しないのには理由がある、それはまたあとで)
 
渡辺浩弐著「ゲームキッズ」シリーズ ⇒ 古沢かおるさんへ
藤子F不二雄著「SF全短編」 ⇒ 神谷直己さんへ
◎月刊&季刊アフタヌーン数十冊 ⇒ 大森和久さんへ
 
 どの方もそれぞれの本に相当思い入れを持っているようなので大切に扱ってくれるだろう。
 ゲーム関係はオークションで処分。売れないものは中古屋さんに売った(今考えると全部マスターさんにプレゼントすべきだと思った)。
 家電は家電リサイクル法が2001年4月から施行され処分するのにもお金が必要だとか。それは困るので必要としている人にプレゼントしようと思った。ネットで検索していたら、たまたま国際交流協会というものが見つかった。
 これは一軒家に外国人を含めて数人で住んでいる、徐々に知名度もアップしてきたシェアハウスというものらしい。管理人のせーじさんは当時若干30歳くらいの若き青年。関東各地にすでに数軒シェアハウスを作っており、新しい寮を五反野に建設中だという。手狭な割に安くはないが、外人さんとも交流できるというので英語練習も兼ねられ、不要な家電は全て引き取ってもらえることで一石二鳥。敷金がわりのデポジット3万円と最初1ヶ月分の家賃さえあれば保証人も不要。早速連絡を取り引っ越すことになった。ワゴン型のレンタカーでも借りようかと考えていたら、せーじさんがトラックを借り荷物を運んでくれたので、半日で引越終了。
 恋の可能性や生涯の友、そして英語の鍛錬という淡い気体は水泡に帰し、とりあえず1200円のバイトだけ決まり生活を始めることになった。←この辺りの経緯は、シェアハウス生活第1弾「シェーな日々」参照。
 カルドセプトの全国大会が終わるのが12月。出発は2003年の1月と考えていたがバイトの残り仕事が長引き、出発は2月となった。最後に日本でセプターと過ごしていた期間は本当に楽しかった。
 特に11月から毎週土日の各地予選巡り、毎週負けては同じ顔と会いあーでもないこーでもないと議論したり。知り合いが通過するたびに一喜一憂し運だけで勝ったボクも素直に嬉しかった。ネットでくり広げられる2chカーンさんの舌戦までが夢のような日々であった。
 そして全国大会本選当日、毎年恒例12月クリスマスまっただなか。1年前はケットシーのつもりで赤いサンタ。今年はリトルグレイにしようとハンズで全身白タイツを購入。銀色の方が宇宙人ぽくて良かったかな?旅のことも考え頭を思いきり丸めすがすがしい気分で望んだが、あえなく一回戦負け。サプレすべきはコラプではなくワードXだったと後悔している。それでも勝つ可能性はごくわずかしかなかっただろう。対戦相手、翔水さんのレポ参照。
 明けて新年。パン助さんちやさともさんちなど遊びまわって充実した日々を過した。そしてカルドセプトにも冬の時代が訪れた。
 その訪れとともにボクは家を出た。たびそらに出会ってから約一年弱、2003年2月3日深夜、上海への船が出る大阪めざしてバスに乗りこんだ。
 
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