論理哲学論考 1-7

緒言

 この本が解るのは、おそらくは、ここに表明されている考え――というか似たような考え――を嘗て自ら考えたことがある者だけだろう。――これは、だから、教科書ではない。――その狙いは、誰か理解をもって読む者に歓びを齎したとき、遂げられることだろう。
 この本は哲学的問題全般を扱っており、それらの問題設定が我々の言語の論理に対する誤解に基くことを明らかにしている――そう私は信じる。ひとはこの本の大意を例えばこんな言葉で捉えることができるだろう: そもそも述べられ得ることがらは明確に述べられ得るし、また、話すことができないことがらについては、ひとは黙らなければならない。
 この本は、そこで、考えることにひとつの境界を劃そうとする。より正確には――考えることにではなく、考えの表現にだ。考えることに何らかの境界を劃すには、我々はその境界の両側を考えることができなければならない(故に考えられ得ないことがらを考えることができなければならない)だろうから。
 その境界は、だから、言語の中でだけ劃され得るだろうし、その向う側に位置するものは単なるナンセンスだろう。
 私は自らの努力がどれだけ他の哲学者たちのものと重なり合うのかを判定するつもりはない。もちろん、ここに書いたことがらはそのディテールにおいて新しさを主張するものではさらさらないが、しかし、私には自分が考えたことを他の誰かが先に考えていたかどうかなどどうでもいいことなので、出典も一切挙げない。
 ただ、私が自らの考えに対する刺戟の或る大きな部分をフレーゲのすばらしい著作と我が友バートランド・ラッセル氏の仕事に負っていることには触れておきたい。
 この仕事が何らかの価値をもつとすれば、それはふたつの点に在る。第一に、ここには考えが表明されているという点に。それがうまく表明されていればいるほど、この価値は大きくなるだろう。核心が突かれていればいるほど。――その可能性には程遠いままに留まっていることをいま私は自覚している。単に、その務めを果たすには力が足りなすぎるのだ。――もっとうまくやる者たちが現われるのを希う。
 一方、ここに報告されている考えの真理性は非のうちどころがなく決定的だと思われる。私は、だから、件の諸問題を本質的にはすっかり解いてしまったと考えている。そして、それについて私に思い違いがなければ、この仕事の価値は、第二に、それらの問題が解かれたことによって果たされたことがいかに少ないかを示している点に在る。

1918年 ヴィーンにて
L. W.


論理哲学論考 1-7