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6.5 |
言い表わし得ない答えについては、ひとは当の問いも言い表わし得ない。
当の謎は存在しない。
そもそも或る問いが立てられ得るならば、それはまた答えられ得る。
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6.51 |
懐疑論は、それが問われ得ないことがらを疑おうとするのならば、論駁不能なのではなく、明らかにナンセンス〔unsinnig〕だ。
というのは、懐疑は何らかの問いが存立する場合にもっぱら存立し得て、問いというものは何らかの答えが存立する場合に、そしてその答えは何ごとかが述べられ得る場合に、もっぱら存立し得るからだ。
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6.52 |
我々は、たとえ総ての可能な科学的な問いが解答されても、我々の生の問題〔Lebensprobleme〕は全く触れられないままだと感じる。もちろん、そのときにはもう何の問いも残ってはいないのであり、そして、このことこそが答えだ。 〔6.521-6.522〕
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6.53 |
哲学の正しい方法は本来こうだろう: 述べられ得ること以外は、したがって、自然科学の諸文以外は――したがって、哲学に何の関わりもないこと以外は――何も述べないこと、そして、他人が何か形而上学的なことを言おうとしたら、彼がそうした文における或る種の記号に何の意義〔Bedeutung〕も与えてはいなかったことを明らかにしてみせること。この方法はその者には満足がいかないことだろう――彼は我々が彼に哲学を教えているという感じをもたないことだろう――が、しかし、これが唯一厳正な方法だろう。
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6.54 |
私の諸文は、私を理解する者が、それらを通じて――それらによって――それらの上へと昇ったあげく、それらがナンセンスだと認識すること、そのことを通じて解明する。(彼は、謂わば梯子を登ってしまってから、それを抛棄しなければならない。)
彼はこれらの文をのりこえなければならならず、そうすれば、彼は世界を正しく見て取る。
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