近代哲学つまみぐい
意味と意義について ゴットロープ・フレーゲ
相等性(1)は、それに結びついたそう簡単には答えられない問いによって、熟考を招き寄せる。それは何らかの関係なのか? 対象間の関係なのか、それとも対象の名称ないしは記号の間の? 私の概念記法においては、このうちの最後だと私は考えた。それを支持するように見える根拠というのは次の通りだ。a = a と a = b は明らかに相異なる認識価値〔Erkenntniswert〕をもつ文だ。a = a はアプリオリに成り立ち、カントによれば分析的と呼ばれ得る一方、a = b という形式の文は、しばしば我々の認識の非常に有益な拡張を伴い、アプリオリにいつでも根拠づけられ得る訳ではないのだから。毎朝ひとつづつ新しい太陽が昇るのではなく、いつも同じだということは、天文学における最も豊饒な発見のひとつだったのであり、今日においても、小惑星や彗星の再認はいつでも自明のことという訳ではない。ところが、相等性を名称「a 」および「b 」が指す〔bedeuten〕ものの間の関係と看做そうとすれば、a = b が a = a と異なることなど、a = b が真である場合にはだが、あり得ないように見えるだろう。それによって表現されているのは、ひとつのものとそれ自体との関係、しかも、どんなものについてもそのものとそれ自体との間には存立するがその他のものとの間には一切存立しないような、そんな関係だろう。ひとが a = b によって云っているつもりなのは、記号ないしは名称「a 」と「b 」が同じものを指すということであるように見えるが、とすれば、話題となっているのはまさにこれらの記号だろうし、主張されているのはそれらの間の関係だろう。だが、この関係が当の名称ないしは記号の間に存立するのは、もっぱらそれらが何かを名指すないしは表示する限りにおいてだろう。当の関係は各記号とそれらによって表示される同一のものの結びつきに媒介されたものだろう。この結びつきは、だが、恣意的だ。任意に生じさせ得る何らかのプロセスや対象を誰かが何かの記号に採用するのを禁止することなど叶わない。となれば、a = b という文は、もはや事物そのものにではなく、かろうじて我々の表示方法に係わるだけだろう。それによって何かほんものの認識が表現されることなどないだろう。しかし、多くの場合、我々はまさにそうしているつもりなのだ。記号「a 」が、記号としてではなく、ということはそれが何かを表示するその仕方によってではなくということを意味するはずだが、そうして単に対象として(ここではその形態によって)記号「b 」と区別されるのであれば、a = a の認識価値は、a = b が真である場合、a = b の認識価値に本質的に等しいだろう。相違は、記号の違いが表示される当のものの呈されてある様〔der Art des Gegebenseins〕の違いに対応することによってのみ、現出し得る。a、b、c をひとつの三角形のそれぞれの角とその対辺の中点を結ぶ直線だとしよう。すると、a と b の交点は b と c の交点と同一だ。したがって、我々は同一の点のための相異なるふたつの符号〔Bezeichnungen〕を手にしており、また、これらの名称(「a と b の交点」、「b と c の交点」)は当の点の呈されてある様を同時に暗示している訳で、例の文には本当の認識が含まれている。
そこで、ひとつの記号(名称、語の組み合わせ、文字から成る記号)に、その意義〔Bedeutung〕と呼ばれてよい、当の記号によって表示されるものの他に、更にそれに聯結された、その記号の意味〔Sinn〕と私が名付けたい、表示される当のものの呈されてある様がそこに含まれているようなものを考えるというのはもっともなことだ。それによれば、上の例においては、「a と b の交点」および「b と c の交点」という表現の意義は同一ではあるものの、意味は同一ではないということになるだろう。「宵の明星」と「明けの明星」の意義は同一だが、意味は同一ではないということになるだろう。
私がここで「記号〔Zeichen〕」および「名称〔Namen〕」によって、固有名の代理をつとめるような、故にその意義は確定した対象(この語を最も広く取った上での)であって概念でも関係でもないような、そんな符号を考えて来たことはコンテクストから明らかだ。なお、概念と関係には別の論文で立ち入ることにする。個々の対象の符号はいくつかの言葉ないしは他の記号から成ることもあり得るが、話を簡単にするために、そうした符号を悉く固有名と呼ぶことにしよう。
固有名の意味は、それが属す言語ないしは符号全体に通じている何人にも把握されるが(2)、そのとき、当の意義は、それが現に在る〔vorhanden〕場合にはだが、きまって一面的にしか照らし出されてはいない。ひとつの意義の全面的な認識には、与えられたどんな意味についても、それがその意義に帰属するか否かをただちに判定し得ることが必要だろうが、我々がそこまで到ることは決してない。記号とその意味とその意義の間の規則的な結びつきというのは、ひとつの記号には確定した意味が、そしてその意味にはまた確定した意義が対応しはするものの、その一方、どんな意義(対象)にもそれぞれにただひとつの記号だけが属す訳ではない、といった態のものだ。ひとつの意味は、様々な言語において、それどころか同一の言語においてさえ、様々な表現をもっている。もちろん、この規則的な振舞には例外が見られる。確かに或る種の記号のまるごと全体においてはそれぞれの表現に確定した意味が対応すべきだろうが、しかし、市井のことば〔die Volkssprachen〕はこの要求を充たさないことが多く、同一の言葉が同一のコンテクストにおいて恒に同一の意味をもちさえすれば、ひとはそれで満足せざるを得ない。あるいはひとは、固有名の役割を果たす文法的に正しく形成された表現は恒に何らかの意味をもつ、と付け加えるかも知れない。だが、それと当の意味にさらに何らかの意義が対応しているかどうかは別の話だ。「地球から最も離れた天体」という言葉は意味をもつが、しかし、それが意義までもつかどうかは非常に疑わしい。「最も緩慢に収束する数列」という表現は意味をもつが、しかし、ひとはどんな収束列についてもそれより緩慢にではあれとにかく収束する列を見つけることができる訳で、それはこの表現が意義をもたないことを示している。意味を把握するだけでは、ひとは意義を確実に手にすることにはならないのだ。
ひとが通常の仕方で言葉を用いているとき、彼が話しているつもりなのは、その言葉の意義についてだ。しかし、言葉そのものもしくはその意味を話題にしているつもりであることもあり得る。この第一のケースは、例えば、ひとが直接話法〔gerader Rede〕で他者の言葉を引用する場合に生じる。そのとき、自らの言葉はまず他者の言葉を指し、さらにその他者の言葉が通常の意義をもつ。我々はそのとき記号の記号を手にしている。書きものにおいては、そういう場合、ひとは当の言葉の写し〔die Wortbilder〕を引用符で括る。したがって、引用符の中に在る言葉の写しを通常の意義で受け取ることは許されない。
「A」という表現の意味について話したい場合には、ひとは単純に「表現「A」の意味」という云いまわしに依ることができる。ひとは、例えば、他者の話の意味について、間接話法〔der ungeraden Rede〕によって語る。そこから、この話法においても言葉は通常の意義をもたず、通常はその意味であるものを指すのは明らかだ。簡潔な表現を得るために、間接話法においては語は間接的に〔ungerade 〕用いられているないしは間接的な意義をもつ、と云うことにしよう。それによって、言葉の通常の〔gewöhnliche 〕意義とその間接的意義を、そして通常の意味とその間接的意味を区別しよう。言葉の間接的意義は、だから、その通常の意味だ。記号と意味と意義の結びつき方を個々のケースで適切に把握したければ、ひとはそうした例外を恒に視野に留めておく必要がある。
記号の意義および意味と、その記号に結びつけられた表象は区別されねばならない。記号の意義が感官的に知覚可能な対象である場合、それについての私の表象は、私がもったことのある感官的印象および私が為して来た内的ならびに外的な活動の記憶から生じる内的な像だ(3)。そうした像には諸々の感情が浸みわたっていることが多く、その各部分の明瞭さはまちまちで不安定だ。同一の人物においてさえ、同一の表象に恒に同一の意味が聯結されている訳ではない。表象は主観的だ。誰かのもつ表象が別の誰かのものであることなどないのだ。そのため、同一の意味に結びつけられた諸表象の多様な違いが自ずと生じている。画家と騎手と動物学者は「ブケファロス」という名称におそらくは非常に相異なった表象を聯結することだろう。その点で、大勢の共有財産であり得、故に個々の心の一部分や様態などではない記号の意味とは、表象は本質的に異なっている。ひとは人類が世代から世代へと伝えられる思考のコレクションを共有していることをきっと否定し得ないだろうから(4)。
そういう訳で、意味そのものについて語ることには何の懸念もない一方、厳密に取られた表象の場合には、ひとはそれがいつ誰に帰属するのかを補足する必要がある。あるいはひとは云うかも知れない。別々の者が、同一の言葉に別々の表象を聯結するばかりか、それに別々の意味を結びつけることもあり得る、と。だが、その場合、違いはもっぱらその結びつき方に存するのだ。それは二人が同一の意味を把握するのを妨げるものではないが、しかし、彼等が同一の表象をもつことはあり得ない。Si duo idem faciunt, non est idem〔二人が同じことをしているにしても、同じものは存在しない〕. 同じものを思い浮かべてはいても、二人はそれぞれに独自の表象をもっているのだ。確かに、幾人かがもつ表象の違いを、それどころか感覚の違いをすら突き止めるのが可能なことは間々ある。だが、厳密な比較は可能ではない。我々はそれらの表象を同一の意識において一緒にもつことなどできないのだから。
固有名の意義は我々がそれによって表示する対象そのものであり、我々がその際にもつ表象はまったく主観的だ。意味はその中間に位置する。確かに意味は表象のように主観的ではないが、しかし、対象そのものでもない。これらの聯関を明確にするには次のような喩えが適当かも知れない。誰かが望遠鏡で月を観察する。私は月そのものを意義に擬えよう。それは観察の対象であり、当の観察は望遠鏡内の対物レンズによって描かれる実像および観察者の網膜像に媒介される。私は実像を意味に、網膜像を表象ないしは直観に擬えよう。望遠鏡内の像は、確かに一面的でしかなく、観察地点に依存してはいるが、しかし、複数の観察者に供され得るという点では、やはり客観的だ。場合によっては数人が同時にそれを利用するように設えられることもあり得るだろう。一方、網膜像はといえば、各人が独自のものをもっていることだろう。幾何学的合同さえ、眼のつくりがまちまちなせいで、実現されることはほぼあり得ないだろうし、真の一致などそれこそ不可能だろう。ひとは A の網膜像が B に見えるようにされ得ることないしは A 自身が鏡で自らの網膜像を見ることもできることを認めるだろうから、その点で、この喩えはあるいはさらに進められ得るかも知れない。それとともに、表象は確かにそれ自体対象とされ得るものの、しかし、そのような観察者にとっての表象の在り様は、表象している当人にとっての直接の在り様とは別である所以があるいは示され得るかも知れないが、それを辿るのは寄り道のし過ぎというものだろう。
我々はここで語と表現と完全な文に関する相違に三つのレヴェルを識別することができる。そうした違いはせいぜい表象に係わるだけか、意義にではないものの意味には係わるか、意義にまで係わるかの何れかだ。第一のレヴェルに関しては、表象と言葉の不確かな聯合のせいで他の者の気づかない相違が或る者には存立することがあり得るという点に注意せねばならない。原典と翻訳の違いは本来この第一のレヴェルを超えるものではない。ここにおいてさらに可能な違いに、文芸や雄弁が意味に対して付与しようとつとめる色合いと明るさが在る。そうした色合いと明るさは客観的ではなく、聴き手や読者が各自に作者なり話者なりの仄めかしに応じてつくりださねばならないものだ。人間的表象作用の類似性を欠いては芸術はもちろん可能ではないだろうが、しかし、書き手の意図がどれほど酬われるかなど決して厳密に突き止められるものではない。
以下では表象と直観が話題になることはもうない。それらは、ただ、言葉が聞き手に呼び起こす表象が当の言葉の意味ないしは意義と混同されることがないよう、引き合いに出されたに過ぎない。
簡潔で厳密な表現を可能にするために、次のような云いまわしを採用することにしよう。
固有名(言葉、記号、記号の組み合わせ、表現)は、その意味を表現し、その意義を指すないしは表示する〔Ein Eigenname (Wort, Zeichen, Zeichenverbindung, Ausdruck) drückt aus seinen Sinn, bedeutet oder bezeichnet seine Bedeutung〕。我々は記号によってその意味を表現し、その意義を表示する。
観念論者や懐疑論者の側ではおそらくもう既にこんな異議が唱えられて来たことだろう。「お前はここで無雑作に月を対象と云っているが、「月」という名称がそもそも意義をもつことはどこから判る? そもそも何かが意義をもつことはどこから判る?」 私は答えよう。月の表象について語ることは我々の意図ではない、と。加えて、「月」と云うとき、我々はしかもその意味では足りず、何らかの意義を前提としているのだ、と。ひとが、もし、「月は地球より小さい」という文では月の表象が話題になっているものとするつもりだとすれば、それは当の意味をすっかり捉え損なうことを意味するだろう。話し手がそのつもりならば、彼は「月についての私の表象」という云いまわしを用いるだろう。もちろん、我々が件の前提を誤ることはあり得るし、そうした錯誤は実際に生じても来た。だが、ひょっとしたら我々は恒にそれを誤っているのでは、という問いにここで答える必要はない。記号の意義について語ることを正当化するには、さしあたり、そのようなものが現に在ればという留保と共にではあるが、話すなり考えるなりする際の我々の意図を指摘すれば足りる。
ここまでは、我々が固有名と呼ぶことにしたような表現や語や記号の意味および意義がもっぱら考察されて来た。我々は今度は完全な主張文〔eines ganzen Behauptungssatzes〕の意味と意義を問おう。そうした文は何れも何らかの思考(5)を含んでいる。では、その思考を当の文の意味もしくは意義と看做すことはできるのか? 当の文は意義をもつものとしよう。その中の言葉をそれと同じ意義はもつものの別の意味をもつ別の言葉に置き換えても、当の文の意義には何の影響もあり得ない。ところが、そのような場合、思考は変化することが判る。例えば、「明けの明星は太陽に照らされた物体である」という文の思考は「宵の明星は太陽に照らされた物体である」という文の思考とは異なるのだ。誰かが、宵の明星は明けの明星であることを知らずに、一方の思考を真、他方を偽であると考えることもあるかも知れない。思考は、だから、文の意義ではあり得ず、むしろその意味と解されねばならないだろう。すると、だが、意義はどうなるのか? 我々はそもそもそれを求めてよいものなのか? ひょっとすると、まるごとの文は意味だけはもつものの意義はもたないのでは? 少なくともひとは、意味はもつものの意義はもたないような文成分〔Satzteile〕が存在するにつれ、そうした文が生じると予期してもよいだろう。そして、意義を欠く固有名を含む文はその類のものだろう。「オデュッセウスは深く眠ったままイタケーに揚げられるのであった」という文は明らかに意味をもつ。しかし、そこに現われる「オデュッセウス」という名称が意義をもつかどうかは疑わしい訳で、そのため、当の文全体が意義をもつかどうかもまた疑わしい。だが、この文をまじめに真であるないしは偽であると受け取る者が「オデュッセウス」という名称に意味ばかりでなく意義をも認めることは確実だ。当の述語が是認ないしは否認されるのはこの名称の意義に対してなのだから。意義を認めない者がそれに対して何らかの述語を是認することなどあり得ないし、否認することもあり得ない。ところが、その一方、名称の意義にまで突き進むのは余計であって、思考のもとに留まるつもりならば、ひとはその意味で満足し得ることだろう。文の意味、思考だけが問題なのであれば、文成分の意義にかかづらうことは無用だろう。文の意味に関しては、その成分の意義ではなく意味だけが考慮の対象となり得るのだ。「オデュッセウス」という名称が意義をもとうがもつまいが、当の思考は同一のままだ。文成分の意義を得ようとことさらにつとめるというのは、我々が一般に文そのものにも意義を承認し要求している印だ。我々がその成分のひとつにでも意義が欠けているのを認識したとたん、当の思考は我々にとって価値の無いものとなる。我々は、だから、文の意味で満足することなく、その意義をも求めて当然なのだ。だが、いったい何故我々はあらゆる固有名が意味ばかりでなく意義をももつことを望むのか? 何故思考では足りないのか? それは、我々には思考の真理値が重要だからであり、その限りにおいてだ。ことは恒にそうである訳ではない。例えば、叙事詩に耳をかたむけるとき、ことばの快い響きの他に我々を惹きつけるのは、文の意味およびそれによって呼び起こされる表象と感情だけだ。真理性への問いと共に我々は芸術的愉悦を去り学問的考察へとおもむくことになるだろう。だから、我々には例えば「オデュッセウス」という名称が意義をもつかどうかは、かの叙事詩を芸術作品として取り上げる限りどうでもよいのであって(6)、到る処で意味から意義へと突き進むよう我々を駆っているのは、真理性への志向なのだ。その要素〔der Bestandteile〕の意義が重要である際には恒に当の文に意義を求め得ることを我々は見て来た。真理値を問う際には恒に、そしてその際に限って、ことはその通りだ。
そこで、我々は文の真理値〔den Wahrheitswert 〕をその意義として承認するよう迫られる。私は、文の真理値とは、それが真であるという事態もしくは偽であるという事態〔den Umstand, daß er wahr oder daß er falsch ist〕のことだと考える。その他に真理値は存在しない。話を簡単にするために、一方を真〔das Wahre〕、他方を偽〔das Falsche〕と呼ぼう。したがって、そこにおいて語の意義が重要であるような主張文は何れも固有名と解され得、しかも、その意義は、それが現に在ればだが、真か偽のどちらかだ。このふたつの対象のことは、そもそも判断をくだす者、何かを真であると考える者ならば誰であれ、従って懐疑論者さえ承認する。ただし、暗黙のうちにではあるが。真理値を対象と称すことは、今はまだ、そこから何か深刻な結論を引き出すことなど許されない勝手な思いつきに、そしてひょっとすると単なる言葉の玩弄に見えるかも知れない。私が対象と呼ぶものは、ただ概念および関係とのつながりにおいてのみ、詳細に論じられ得る。それは別の論文に残しておきたいが、ともあれ、どんな判断(7)においても――そしてそれが如何に自明であろうと――既に思考のレヴェルから意義(客観的なもの)のレヴェルへの歩みが生じていることだけは、ここでもう明らかなのではなかろうか。
思考と真との聯関を、意味と意義とのではなく、主語と述語との聯関と看做そうという誘惑に、ひとは駆られているかも知れない。確かにひとは「5 は素数であるという思考は真である」とあからさまに云うことができる。しかし、詳しく見てみれば、それによって実際に云われているのは「5 は素数である」という単文〔einfachen Satz〕で云われていることがらに過ぎないことに気づく。真理性の主張はどちらのケースでも主張文の形式に存しており、それらが、例えば舞台上の役者の口におけるように、通常の効力をもたない場合、「5 は素数であるという思考は真である」という文もまたただひとつの思考しか、それも「5 は素数である」という単文と同じ思考しか含みはしないのだ。そこから、思考と真との聯関を主語と述語との聯関に比してはならないことが察知される。主語と述語は(論理的な意味で解せば)思考の成分〔Gedankenteile〕なのであり、認識にとってはそれらは同じレヴェルに立っている。ひとは主語と述語を組み合わせることによって恒に何らかの思考に到るばかりであり、意味からその意義へと、思考からその真理値へと到ることなど決してない。ひとは同じレヴェルの上を動くのであって、ひとつのレヴェルから次のレヴェルへと進むのではない。真理値が思考の成分であり得ないのは例えば太陽がそうではあり得ないのと同断だ。それは意味ではなく、対象なのだから。
文の意義はその真理値であるという我々の推測が正しければ、ひとつの文成分がそれと同じ意義はもつものの別の意味をもつ表現に置き換えられても、当の文の真理値は不変であるはずだ。そして実際その通りだ。ライプニッツは明言している。「Eadem sunt, quae sibi mutuo substitui possunt, salva veritate〔真実を損なわずに互いに置き換えられ得るものどもは、同じである〕」と。真理値を措いて、そのもとでとりわけ文の要素の意義が考慮の対象となるような、あらゆる文に遍く帰属し、上に述べた類の置換のもとで不変なものなど、何か他に見出され得るだろうか。
ところで、真理値が文の意義ならば、総ての真である文は同じ意義をもつ一方、総ての偽である文もまたそうだ。そこから、文の意義においてはあらゆるディテールが拭い去られてしまっているのが判る。我々にとって、だから、文の意義はそれだけでは決して重要ではあり得ないが、しかし、思考もまた、その意義つまり真理値と相俟ってでなければ、何の認識も齎しはしない。判断するということは思考からその意義へと進むことと解され得る。もちろん、これは定義などではない。判断するということは全く独特で比類の無いことなのだ。ひとはさらに云い得るだろう。判断するということは当の真理値の中で諸部分を区別することだ、と。この区別は思考への後退によって生じる。ひとつの真理値に帰属する意味はそれぞれに固有の分解の仕方に対応するだろう。ただし、「部分〔Teil〕」という語を私はここで特殊な仕方で用いている。或る言葉が或る文の一部分であるとき、その意義を当の文の意義の部分と呼ぶことによって、文の全体と部分の聯関を意義の上に転写しているのだ。確かに問題のある語り口ではある。意義の場合、全体とその一部分によってもう一方の部分が規定されてしまうことはないのだし、また、物体の場合、ひとは部分という語を既に別の意味で用いているのだから。それに代わる何か固有の表現が創られるとよいのだが。
文の意義はその真理値であるという推測はここでさらに験されるべきだ。文の真理値は、当の文におけるひとつの表現をそれと同じものを指す別の表現に置き換えても、不動であることを我々は見たが、しかし、置き換えられる表現そのものが文であるケースをまだ考察していなかった。ともあれ、我々の見解が正しければ、その一部分に何か別の文を含んでいる文の真理値は、その部分文〔den Teilsatz〕に代えて同じ真理値をもつ別の文を置いても不変であるはずだ。だが、当の文ないしは部分文が直接話法ないしは間接話法である場合には、例外が予期される。先に見たように、その場合、そうした言葉の意義は通常のものではないのだから。文は直接話法においてはまた文を指し、間接話法においては思考を指す。そこで、我々は副節〔der Nebensätze、いわゆる副文〕の考察へと導かれる。副節は複文の一部分として現われる訳だが、論理的観点からは〔動詞の現われる位置によって主節と副節が形式的に区別されるドイツ語においても〕文と、それも主節〔Hauptsatz〕と変わらないように見える。しかし、ここで、そもそも副節についてもその意義は真理値であるということが同じく成り立つのか、という問いが我々の前に立ちはだかる。しかも、間接話法についてはそれが成り立たないことを我々は既に知っているのだ。文法家は副節を文成分に代わるものと看做し、その上で名詞節、形容詞節、副詞節に分類する。そこから、ひとは、副節の意義は真理値ではなく、名詞か形容詞か副詞つまり思考ではなく何か思考の一部分だけを意味としてもつような文成分の意義と同種のものであるという推測を抱くかも知れない。さらに詳しい研究だけがことを明らかにし得るが、我々は、その際、文法の手引を厳格に守るのではなく、論理的に同種のものを取りまとめることになるだろう。まずは、副節の意味が、上の推測の通りに、独立した思考ではないようなケースを尋ねよう。
間接話法は〔ドイツ語の場合〕「daß」ではじまる抽象的名詞節〔abstrakten Nennsätzen〕の部類に入る訳だが、この話法においては、語は通常はその意味であるものに一致する間接的意義をもつことを我々は見た。このケースでは、だから、副節は、意義としては真理値ではなく思考をもち、意味としては思考ではなく当の複文全体の思考の一部分に過ぎない「der Gedanke, daß . . .(「・ ・ ・ という思考」)」という言葉の意味をもつ。こうした事情は「sagen(云う)」や「hören(聞く)」、「meinen(思う)」、「überzeugt sein(確信している)」、「schließen(結論する)」および類似の語のあとに現われる(8)。「erkennen(認識する)」や「wissen(知っている)」、「wähnen(思い込む)」のような語のあとにおいてはことは別で、しかもかなり厄介だが、やがて考察されることになるだろう。
上のケースにおいて副節の意義が実際に思考であることは、当の副節が真であるか偽であるかは全体の真理値には無縁であることからも判る。例えば、「Kopernikus glaubte, daß die Bahnen der Planeten Kreise seien(コペルニクスは惑星の軌道は円だと思っていた)」および「Kopernikus glaubte, daß der Schein der Sonnenbewegung durch die wirkliche Bewegung der Erde hervorgebracht werde(コペルニクスは太陽の見かけの動きは地球の実際の動きによって生み出されると思っていた)」というふたつの文を較べてみるとよい。ひとはここで真理性を損なうことなく一方の副節を他方のものに代えて置くことができる。当の主節は副節と相俟ってただひとつの思考を意味としてもち、全体の真理性は副節の真理性を孕んでもいなければ非真理性を孕んでもいない。このケースでは、副節におけるひとつの表現をそれと同じ通常の意義をもつ別の表現に置き換えることは許されておらず、ただ同じ間接的意義つまり同じ通常の意味をもつような表現に置き換えることだけが許されている。誰かが、「もし文の意義がその真理値であるとすれば、ひとは到るところでひとつの文をそれと同じ真理値をもつ何か別の文に置き換えてよいことになってしまうから」、文の意義はその真理値ではないと結論するつもりだとしたら、それは行き過ぎというものだろう。ひとはまた、到るところで「明けの明星」に代えて「金星」と云ってよい訳ではないのだから、「明けの明星」という言葉の意義は金星ではないとも主張するかも知れない。だが、ひとが正当に推論し得るのは、ただ、文の意義はいつでも真理値である訳ではないということ、それに、「明けの明星」という言葉はいつでも金星という惑星を指す訳ではないということだけだ。それが間接的意義をもつときには、「明けの明星」は金星を指しはしないのだ。すぐ上で考察した、その意義が思考である副節には、そうした例外のひとつが見られる。
「es scheint, daß . . .(・ ・ ・ らしい)」と云うとき、ひとは「es scheint mir, daß . . .(私には ・ ・ ・ に見える)」ないしは「ich meine, daß . . .(私は ・ ・ ・ と思う)」と思っている。したがって、我々はふたたび問題のケースを手にしている。「sich freuen(喜ぶ)」や「bedauern(悔やむ)」、「billigen(賛成する)」、「tadeln(咎める)」、「hoffen(望む)」、「fürchten(恐れる)」のような表現のもとにおいてもことは同様だ。ウェリントンがワーテルローの戦いの終わり近くに、プロイセン軍が来ると喜んだとき〔Wenn Wellington sich gegen Ende der Schlacht bei Belle-Alliance freute, das die Preußen kämen〕、その喜びの根拠はひとつの確信だった。彼が思い違いをしていたとしても、その思い込みが続いているうちは同じように喜んでいたであろう一方、プロイセン軍が実際既に出動していても、それが来るという確信に到らなければ、彼がそのことを喜ぶことなどあり得なかった。
確信ないしは信念は、感情の根拠であるばかりでなく、推論の際のように何らかの確信の根拠でもあり得る。「Kolumbus schloß aus der Rundung der Erde, daß er nach Westen reisend Indien erreichen könne(コロンブスは、地球が丸いことから、西へと旅することでインドに辿り着けると推論した)」という文において、我々はその部分の意義としてふたつの思考を手にしている。地球は丸いという思考およびコロンブスは西へと旅することでインドに辿り着き得るという思考だ。ここでもまた重要なのは、コロンブスが両方を確信していたということおよび一方の確信が他方の確信の根拠だったということだけだ。地球が本当に丸くてコロンブスが西へと旅することで本当に彼が考えた通りインドに辿り着くことができたかどうかは、当の文の真理性には無縁だが、しかし、「die Erde(地球)」に代えて「der Planet, welcher von einem Monde begleitet ist, dessen Durchmesser größer als der vierte Teil seines eigenen ist(その直径の四分の一よりも大きな直径をもつ衛星を随えた惑星)」を置くかどうかは無縁ではない。ここでもまた我々は言葉の間接的意義を手にしている。
「damit」の附いた目的の副詞節もここに含まれることになる。目的というものは明らかに思考であり、故に接続法による当の言葉の間接的意義だからだ。
「befehlen(命じる)」や「bitten(頼む)」、「verbieten(禁じる)」のあとの「daß」の附いた副節は、直接話法では命令として現われるだろう。そうした副節は意義はもたず、意味だけをもつ。命令や依頼は、確かに思考ではないものの、思考と同じレヴェルに立っている。したがって、「befehlen」や「bitten」等に従属する副節においては言葉は間接的意義をもつ。そうした文の意義は、だから、真理値ではなく、命令や依頼等々だ。
「zweifeln, ob(かどうか疑う)」や「nicht wissen, was(何が ・ ・ ・ なのか判らない)」のような云いまわしによる従属疑問の場合も同様だ。ここでもまた、その中の語が間接的意義を取るはずであることは容易に判る。「wer(誰)」や「was(何)」、「wo(何処)」、「wann(いつ)」、「wie(どのように)」、「wodurch(何によって)」等の附いた従属疑問節は、見かけでは副詞節に非常に近くなることが間々あり、そこでは言葉が通常の意義をもつが、こうしたケースは〔ドイツ語では〕動詞の法によって言語的に区別される。接続法の場合、我々は従属疑問と当の言葉の間接的意義を手にしているのであり、ひとつの固有名をそれと同じ対象を指す別の固有名に置き換えることは一般には叶わない。
ここまで考察してきたケースでは、副節における言葉は間接的意義をもっており、そこから、副節の意義自体もまた間接的なもの、つまり、真理値ではなく思考や命令、依頼、疑問であると理解され得ることとなった。副節は名詞として解され得るのだった。それどころか、ひとは云い得るだろう。思考や命令等々の固有名として、副節はそうしたものとして複文のコンテクストに入り込んだのだ、と。
今度は別の類の副節に向かおう。そこでは、言葉は確かに通常の意義をもつにもかかわらず、思考がその意味として現われることもなければ真理値がその意義として現われることもない。どうしてそれが可能なのかをはっきりさせるには実例に依るのが一番だろう。ここで、もし、副節が意味として思考をもつとしたら、それを何らかの主節で表現することも可能なはずだろう。だが、そうはいかない。文法的主語「der」は後続節「starb im Elend(困窮のうちに死んだ)」との関係を媒介しており、独立した意味はもたないのだから。したがって、当の副節の意味もまた完全な思考ではないし、それに、その意義は真理値ではなくケプラーだ。ひとは反論するかも知れない。それでも当の文全体の意味は、惑星軌道が楕円形であることに初めて気づいた者がいたという思考を部分として孕んでいるのだ、と。その全体を真であると考える者がこの部分を否定することはあり得ないのだから、と。確かにあり得ないが、しかし、それは、その部分が否定されれば副節「der die elliptische Gestalt der Planetenbahnen entdeckte(惑星軌道が楕円形であることを発見した男)」が意義を失ってしまうからに過ぎない。ひとが何かを主張するときには、そこで用いられている単純もしくは複合的な固有名が意義をもつという独立した前提が恒に存在する。したがって、ひとが「Kepler starb im Elend(ケプラーは困窮のうちに死んだ)」と主張するときには、それ同時に「Kepler」という名称が何かを表示することが前提とされているのではあるが、しかし、だからといって、文「Kepler starb im Elend」の意味に名称「Kepler」は何かを表示するという思考が含まれていることにはならない。もし含まれているとしたら、件の文の否定は
「Der die elliptische Gestalt der Planetenbahnen entdeckte, starb im Elend(惑星軌道が楕円形であることを発見した男は困窮のうちに死んだ).」 ではなくて
「Kepler starb nicht im Elend(ケプラーは困窮のうちに死んだのではない)」 とされねばならないだろう。「Kepler」という名称が何かを表示することは
「Kepler starb nicht im Elend, oder der Name‘Kepler’ist bedeutungslos(ケプラーは困窮のうちに死んだのではないか、あるいは名称「ケプラー」は無意義である)」 という主張の前提であるばかりか、それと反対の主張の前提でもある。ところが、言語というものは、そこにおいて、いかにもその文法的形式に遵って何らかの対象を表示するかに見えて、或る種の特殊ケースでは、それが何らかの文の真理性に依存するため、当の用を果たさないような表現が可能であるという欠陥をもっている。例えば、
「Kepler starb im Elend(ケプラーは困窮のうちに死んだ)」 という副節が本当に何らかの対象を表示しているのか、あるいはそのような見かけを与えるだけで実は無意義なのかは
「der die elliptische Gestalt der Planetenbahnen entdeckte(惑星軌道が楕円形であることを発見した男)」 という文の真理性に依存する。それで、当の副節が、その意味の部分として、惑星軌道が楕円形であることを発見した者がいたという思考を含んでいるかのように見えることもあり得る訳だ。もしそれが正しいとしたら、件の文の否定は
「es gab einen, der die elliptische Gestalt der Planeten bahnen entdeckte(惑星軌道が楕円形であることを発見した者がいた)」 とされねばならないだろう。これは言語の不完全性のせいなのだ。ちなみに、解析学の記号言語もそれをすっかり免れている訳ではない。そこでもまた何かを指しているような見かけを与えるものの、少なくともその時点では無意義な記号の組み合わせが生じることがあり得る。例えば、発散する無限数列。ひとはこれを、例えば、発散する無限数列は数 0 を指すものとするというような特別な取り決めによって避けることができる。論理的に完全な言語(概念記法)には、既に導入済みの記号から文法的に正しい仕方で固有名として形成された表現は何れも何らかの対象を実際に表示すること、および、どんな記号も意義を確保されることなく新たに固有名として導入されたりはしないことが求められねばならない。ひとは論理学において表現の多義性を論理的過誤の源のひとつとして警告するが、私は意義をもたない見かけの固有名への警告をそれに劣らずふさわしいものと思う。数学の歴史はそこから生じた錯誤の数々を物語ることを心得ている。固有名のデマゴギックな濫用は、語の多義性の場合と同様、ひょっとするとそれ以上に容易に想い浮かぶ。「国民の意志〔Der Wille des Volkes〕」はその実例として使える。少なくともこの表現が遍く受け容れられるような意義などもたないことは容易に確かめられ得るだろうからだ。だから、そうした錯誤の源を少なくとも学問のためにきっぱりと断つことは決して瑣末ではない。それを断てば、上に見たような異議は不可能になる。その場合、固有名が意義をもつかどうかが思考の真理性に依存することなど全くあり得ないからだ
「der die elliptische Gestalt der Planetenbahnen zuerst erkannte, starb nicht im Elend, oder es gab keinen, der die elliptische Gestalt der Planetenbahnen entdeckte(惑星軌道が楕円形であることに初めて気づいた男は困窮のうちに死んだのではないか、あるいは惑星軌道が楕円形であることを発見したような者はいなかった)」
我々は、こうした名詞節の考察に、それと論理的に近い間柄にある或る種の形容詞節と副詞節を付け加えることができる。
形容詞節もまた、名詞節のように単独でそれに足る訳ではないものの、複合的固有名を形成するのに利用される。そうした形容詞節は形容詞と同等に遇され得る。「die Quadratwurzel aus 4, die kleiner ist als 0(0 より小さい 4 の平方根)」に代えて、ひとは「die negative Quadratwurzel aus 4(4 の負の平方根)」と云うこともできる。我々はここでひとつの概念表現〔einem Begriffsausdrucke〕から単数形の定冠詞の援けによって複合的固有名が形成されるケースを手にしている。ひとつの、しかもただひとつの対象だけが当の概念のもとに収まる場合には、とにかくそれが許されているのだ(9)。ところで、上の例において「die kleiner ist als 0(0 より小さいもの)」という節によってひとつのメルクマールが特定されているように、形容詞節によって何らかのメルクマールが特定され、そうしてひとつの概念表現が形成されることがあり得る。そのような形容詞節が、先の名詞節と同様、意味として思考をもつこともあり得なければ意義として真理値をもつこともあり得ず、多くの場合、単独の形容詞によっても表現され得る思考の一部分だけを意味としてもつというのはもっともなことだ。また、件の名詞節の場合と同様、ここにも独立した主語が欠けており、そのため、副節の意味が独立した主節によって表わされる可能性も無い。
場所や時点や期間は論理的に見れば対象であり、したがって、特定の場所なり瞬間なり期間なりの言語的符号は固有名と解され得る。ところで、場所および時の副詞節は、名詞節および形容詞節に関して上で見たのと同じような仕方で、何らかの場所や時の固有名の形成に用いられ得る。また、そのもとに場所等々を収め得るような概念の表現も同様に形成され得る。ここでも、そうした副節の意味は、或る本質的な要素つまり場所ないしは時の規定がただ関係代名詞なり接続詞なりによって暗示されているばかりで欠けているため、どんな主節によっても表わされ得ないことに留意せねばならない(10)。
条件節にもまた、名詞節および形容詞節、副詞節の場合に見たのと同じような、漠然と暗示する要素が大抵は認められて、後続節において同様の要素がそれに対応している。ふたつの要素が互いに指し示しあい、ふたつの節をひとつに聯結し、その全体は普通ただひとつの思考を表現する。という文では、条件節における「eine Zahl(或る数)」と後続節における「ihr(その)」がそうした要素だ。まさにこの不定性によって、当の意味はひとが法則というものに期待する一般性を獲得している。しかしまた、まさにそれによって、条件節は単独では完全な思考を意味としてもたず、後続節と相俟って、そのどんな部分ももはや思考ではないような思考をひとつ、しかもただひとつだけ表現するということも惹き起こされる。仮定的判断ではふたつの判断が相関関係に置かれるというのは一般に正しくない。そうした類のことを云うとき、ひとは「判断」という語を私が「思考」という語に聯結して来たのと同じ意味で用いているのだ。だから私だったらそれに代えてこう云うだろう。「仮定的思考においてはふたつの思考が相関関係に置かれる。」 これは何の漠然と暗示する要素も無い場合(11)、その場合に限って真であり得るだろうが、そのときには、しかし、一般性も現に無いことだろう。
「wenn eine Zahl kleiner als 1 und größer als 0 ist, so ist auch ihr Quadrat kleiner als 1 und größer als 0(或る数が 1 より小さく 0 より大きければ、その平方もまた 1 より小さく 0 より大きい)」
条件節と後続節において或る時点が漠然と暗示される必要がある場合、ただ動詞の現在時制〔das Tempus praesens 〕によってそれが為されるのは特に珍しいことではないが、そのとき、現在時制は当の現在を現に表示するものではない。この文法的形式は、その場合、主節と副節における漠然と時を暗示する要素だ。「Wenn sich die Sonne im Wendekreise des Krebses befindet, haben wir auf der nördlichen Erdhälfte den längsten Tag(太陽が北回帰線に差掛かるとき、我々は北半球上で最も長い一日を迎えている)」はその一例だ。ここでもまた、副節の意味を何らかの主節によって表現することは不可能だ。当の意味は完全な思考ではないのだ。「die Sonne befindet sich im Wendekreise des Krebses(太陽が北回帰線に差掛かる)」と云うとき、我々はそれを当の現在に関係づけ、故にその意味を変更することになるだろうからだ。同様に、当の主節の意味も思考ではない。かろうじて何らかの思考を含むのは、主節と副節から成る全体だ。ちなみに、条件節と後続節における複数の共通要素が漠然と暗示されることもあり得る。
「wer」や「was」〔という関係代名詞〕の附いた名詞節および「wo」や「wann」〔という関係副詞〕、「wo immer(どこであれ)」、「wann immer(いつであれ)」の附いた副詞節が、しばしばその意を汲んで条件節と解される必要があるというのはもっともなことだ。例えば、「Wer Pech angreift, besudelt sich.」〔直訳すれば「ピッチに手を出す者は自らを汚す」とでもなるだろうが、意を汲んで日本語らしくパラフレーズすれば、「朱に交われば赤くなる。」〕
形容詞節が条件節の代理をつとめることもあり得る。例えば、我々は「das Quadrat einer Zahl, die kleiner als 1 und größer als 0 ist, ist kleiner als 1 und größer als 0(1 より小さく 0 より大きい数の平方は 1 より小さく 0 より大きい)」という形式によっても、先に挙げた文の意味を表現することができる。
主節と副節の共通要素が固有名によって表示される場合には、ことは全く違って来る。という文では、次のふたつの思考が表現されている。
「Napoleon, der die Gefahr für seine rechte Flanke erkannte, führte selbst seine Garden gegen die feindliche Stellung(右側面に危機を覚ったナポレオンは、敵陣に向って自ら親衛隊を率いた)」
いつどこでそれが起こったのかは、ただコンテクストからのみ知られ得るのではあるが、それによって特定されているものと看做され得る。当の文全体を主張として口に出すとき、我々はそれと共にふたつの部分文を同時に主張している。それらの部分文のひとつが偽であれば、それと共に全体も偽だ。ここで我々は、副節そのものが(時と場所の添加成分が補われれば)単独で意味として完全な思考をもつケースを手にしている。当の副節の意義は、だから、真理値だ。したがって、その副節は当の文全体の真理性を損なうことなく、同じ真理値をもつ別の文に置き換えられ得るものと期待される。実際その通りだが、ただ、その主語は純粋に文法的な理由から「Napoleon」でなければならないことに注意する必要がある。そうでなければ、その文が「Napoleon」に帰属する形容詞節の形式に齎されることはあり得ないからだ。だが、それをこの形式で見る要請を無視し、さらに「und(そして)」による接続を認めれば、この制約は消えて無くなる。
1. ナポレオンは右側面に危機を覚った〔Napoleon erkannte die Gefahr für seine rechte Flanke〕。 2. ナポレオンは敵陣に向って自ら親衛隊を率いた〔Napoleon führte selbst seine Garden gegen die feindliche Stellung〕。
完全な思考は「obgleich」〔という認容の接続詞〕の附いた副節によっても表現される。この接続詞は、そもそも意味をもたず、文の意味を変えることもないが、独特の仕方でそれに照明を当てる(12)。我々は確かに全体の真理性を損なうことなく認容節を同じ真理値をもつ別の文に置き換えることはできるものの、しかし、その場合、当の照明は何やら不相応に見えることだろう。哀しい内容の歌を陽気な仕方でうたおうとでもしているかのように。
この最後のケースでは、全体の真理性が部分文の真理性を孕んでいるのだった。条件節が、ただ暗示するだけの要素ではなく、固有名ないしはそれと同等に遇され得る要素を含んでいて、完全な思考を表現している場合は別だ。という文では、時は現在であり、したがって確定している。また、場所も確定しているものと考えられる。ここで、ひとは、或る関係が条件節と帰結節の真理値の間に設定されていると云うことができる。条件節が真を指し後続節が偽を指すようなケースは生じないという関係が、だ。それに遵えば、当の文は、空が雲で厚く覆われていようがいまいが今はまだ太陽が昇っていないときにも、太陽が既に昇っていて空が雲で厚く覆われているときにも真だ。この場合、もっぱら真理値だけが問題であるため、ひとは何れの部分文をも、それと同じ真理値をもつ何か別の文に、全体の真理値を変えることなく、置き換えることができる。もちろん、ここでもまた例の照明は大抵は不相応になることだろう。つまり、当の思考は何やら馬鹿げて見えるだろうが、しかし、それは真理値とは何の係わりもない。ひとはその際、そもそも表現されてなどおらず、故に当の部分文の意味に数え入れられることがあってはならないような、したがってその真理値が問題となることはあり得ないような、そんな副思考〔Nebengedanken〕が共鳴して来るのに恒に注意する必要がある(13)。
「wenn jetzt die Sonne schon aufgegangen ist, ist der Himmel stark bewölkt(太陽がもう既に昇っているのならば、空が雲で厚く覆われているのだ)」
これで単純なケースはあらかた論じられたものとして、判ったことがらを振り返ってみよう。
副節は、大抵、意味として思考ではなくただ何か思考の一部分だけをもち、故に意義として真理値をもつことはない。これはその根拠を、そうした副節においては語が間接的意義をもつため、何らかの思考であるのは当の副節の意味ではなく意義であるということか、もしくは、当の副節が、そこにおいてただ漠然と暗示するだけの要素のせいで不完全で、主節と相俟ってかろうじて何らかの思考を表現するということかのどちらかにもっている。一方、副節の意味が完全な思考であるようなケースもやはり生じるのであり、その場合には、文法的障碍が無い限り、当の副節は全体の真理性を損なうことなく同じ真理値をもつ別の文に置き換えられ得る。
これに基づいて、手当たり次第に副節を見てみれば、この分類にきちんとは収まりそうにないものにすぐにぶつかることだろう。その理由は、私の見る限り、そうした副節がそう単純な意味をもってはいない点に存するようだ。ほとんどいつでも、我々は自らが述べる主思考〔einem Hauptgedanken〕に、聞き手が、そのようなものは表現されないにもかかわらず、心理法則に遵って我々の言葉にさらに結びつける副思考を聯結しているように見える。そして、それは主思考そのものとほとんど同様に我々の言葉に自ずと結びついて見えるため、我々はそうした副思考をも共に表現しているつもりでいるのだ。それによって当の文の意味は豊かになるが、そのかたわら、節より多数の単思考〔einfache Gedanken〕を我々が手にするということが生じ得るのだ。文がそのように理解されねばならないケースは多いが、副思考が当の文の意味の一部なのかそれともただ随伴しているだけなのか判然としないこともあり得る(14)。ひとは、例えば、という文では、先に挙げたふたつの思考ばかりでなく、彼が敵陣に向って親衛隊を率いた根拠は危機の認識だった〔die Erkenntnis der Gefahr der Grund war, weshalb er die Garden gegen die feindliche Stellung führte〕という思考も表現されているのをあるいは見出すかも知れない。実際には、この思考がただ軽く励起されるだけなのかそれとも本当に表現されるのか判然としないことがあり得る。ナポレオンの決断が危機の感知に先立って為されていたとしたら件の文は偽であるのかどうかと自問してみるとよい。それでもそれが真であり得るとすれば、件の副思考を当の文の意味の一部分と解すことはできないだろう。たぶんひとはこちらを採るだろうが、そうでない場合、ことはかなり厄介になるだろう。我々は、そのとき、節より多数の単思考を手にすることになるだろうからだ。実際、
「Napoleon, der die Gefahr für seine rechte Flanke erkannte, führte selbst seine Garden gegen die feindliche Stellung(右側面に危機を覚ったナポレオンは、敵陣に向って自ら親衛隊を率いた)」 という文を、同じ真理値をもつ別の文に、例えば、
「Napoleon erkannte die Gefahr für seine rechte Flanke(ナポレオンは右側面に危機を覚った)」 に置き換えれば、それによって先の第一の思考ばかりでなく第三の思考も変更されるだろうし、また、それによってその真理値も一方から他方に変わるだろう――彼の齢が敵軍に向って親衛隊を率いるという決断の根拠でなかったときには、だ。ここから、何故そうしたケースでは同じ真理値をもつふたつの文がいつでも互いに支持しあい得る〔füreinander eintreten können〕訳ではないのかを見てとることができる。その場合、ひとつの文は、まさにそれと何か別の文との聯合の故に、単独でよりも多くを表現するのだ。
「Napoleon war schon über 45 Jahre alt(ナポレオンは既に 45 歳を越えていた)」
そこで、そうしたことが規則的に生じるケースを考察しよう。という文では、次のふたつの思考が表現されているが、一方が主節に帰属し、他方が副節に帰属する訳ではない。
「Bebel wähnt, daß durch die Rückgabe Elsaß-Lothringens Frankreichs Rachegelüste beschwichtigt werden können(ベーベルは、エルザスロートリンゲンの返還によってフランスの復讐心は宥められ得ると思い込んでいる)」
第一の思考の表現では副節の言葉は間接的意義をもっている一方、第二の思考の表現では同じ言葉が通常の意義をもっている。ここから、元の複文における副節は実は別々の意義と共に二重に捉えられねばならないことが判る。一方は思考、他方は真理値である意義と共に、だ。ところが、真理値の方は当の副節の完全な意義ではないため、その副節を同じ真理値をもつ別の文に単純に置き換えることは叶わない。「wissen(知っている)」や「erkennen(認識する)」、「es ist bekannt(知られている)」の場合も同様だ。
1. ベーベルは、エルザスロートリンゲンの返還によってフランスの復讐心は宥められ得ると思っている〔Bebel glaubt, daß durch die Rückgabe Elsaß-Lothringens Frankreichs Rachegelüste beschwichtigt werden können〕。 2. エルザスロートリンゲンの返還によってはフランスの復讐心は宥められ得ない〔durch die Rückgabe Elsaß-Lothringens können Frankreichs Rachegelüste nicht beschwichtigt werden〕。
理由の副節とそれに附属する主節によって、我々はそれらに個別には対応していない複数の思考を表現する。という文では、我々は次の三つを手にしている。
「weil das Eis spezifisch leichter als Wasser ist, schwimmt es auf dem Wasser(氷は水より比重が小さいので水に浮く)」 この第三の思考をはっきりと挙げる必要はなかったかも知れない。はじめのふたつにそれは含まれているのだから。一方、第一と第三が相俟っても、第二と第三が相俟っても当の文の意味を構成することはないだろう。ところが、
1. 氷は水より比重が小さい〔das Eis ist spezifisch leichter als Wasser〕。 2. 或るものが水より比重が小さければ、それは水に浮く〔wenn etwas spezifisch leichter als Wasser ist, so schwimmt es auf dem Wasser〕。 3. 氷は水に浮く〔das Eis schwimmt auf dem Wasser〕。 という副節では第一の思考ばかりでなく第二の思考の一部分も表現されているのが判る。そこから、この副節を同じ真理値をもつ別の文に単純に置き換えることは叶わないということが帰結する。それによって第二の思考も変更されるだろうし、そのためにその真理値が易々と動かされることもあり得るだろうからだ。
「weil das Eis spezifisch leichter als Wasser ist(氷は水より比重が小さいので)」 という文においてもことは同様だ。我々は、鉄は水より比重が小さくはない〔Eisen nicht spezifisch leichter ist als Wasser〕という思考およびそれが水より比重が小さければ或るものは水に浮く〔etwas auf dem Wasser schwimmt, wenn es spezifisch leichter als Wasser ist〕という思考を手にしており、ここでもまた、当の副節は一方の思考および他方の思考の一部分を表現している。
「wenn Eisen spezifisch leichter als Wasser wäre, so würde es auf dem Wasser schwimmen(鉄が水より比重が小さかったならば、それは水に浮いたことだろう)」
前に考察したという文を、そこでは嘗てシュレースヴィヒホルシュタインがデンマークから分離された〔es sei einmal Schleswig-Holstein von Dänemark losgerissen worden〕という思考が表現されているというように解せば、我々は第一にこの思考を、第二に当の副節によって或る程度特定された時代にプロイセンとオーストリアが仲違いした〔zu einer Zeit, die durch den Nebensatz näher bestimmt ist, Preußen und Österreich sich entzweiten〕という思考を得る。この場合においてもまた、副節はひとつの思考ばかりでなく、それとは別の思考の一部分をも表現している。そのため、それを同じ真理値をもつ別の文に置き換えることは一般には許されない。
「nachdem Schleswig-Holstein von Dänemark losgerissen war, entzweiten sich Preußen und Österreich(シュレースヴィヒホルシュタインがデンマークから分離されてから、プロイセンとオーストリアは仲違いした)」
言語における所与の可能性の総てを論じつくすのは困難だが、それでも、副節が当の複文全体の真理性を損なうことなく同じ真理値をもつ別の文にいつでも取って代わられ得る訳ではない理由を本質的には見つけ出しおおせたのではないかと私は思っている。それはこうだ。第一のケースは次の場合に生じる。
1. 当の副節が何らかの思考の一部分しか表現しておらず、真理値を指さないこと。 2. 当の副節は確かに真理値を指すのだが、それだけではおさまらず、その意味が何らかの思考の他にさらに別の思考の一部分をも包含していること。
第二のケースでは、副節が二重に捉えられねばならないことがあり得る。ひとつには通常の意義で、もうひとつには間接的意義で。あるいは、当の副節の一部分の意味が同時に、その副節で直に表現されている思考と相俟って当の主節と副節の完全な意味を構成するような、そんな別の思考の要素であることもあり得る。ここから、副節が同じ真理値をもつ別の文に置き換えられ得ないケースは、その意味が思考であるような文の意義は真理値であるという我々の見解を些かも反証するものではないということが、十分な確からしさを伴って明らかとなる訳だ。そこで出発点に戻ろう。
a) 当の言葉の間接的意義のもとで。 b) 当の文の一部分が固有名ではなく、ただ漠然と暗示するだけのものであるとき。
「a = a 」と「a = b 」の認識価値は一般に異なることが見出されたとき、それは、認識価値に関しては文の意味つまりその文で表現されている思考も当の文の意義である真理値と並んで考察の対象となるということで説明された。そこで、a = b だとすれば、確かに「b 」の意義は「a 」の意義と同じであり、したがって「a = b 」の真理値も「a = a 」の真理値と同じだが、それでも、「b 」の意味が「a 」の意味と異なることはあり得、故に「a = b 」で表現されている思考が「a = a 」で表現されているものと異なることもまたあり得る。その場合、このふたつの文は同一の認識価値をもってはいない訳だ。先のように「判断」とは思考からその真理値への前進のことだと考えるとして、我々は加えて云おう。判断はまちまちである、と。* * * * * * *
原註
- 私はこの語〔「Gleichheit」〕を同一性の意味で用い、「a = b 」を「a は b と同一である〔a ist dasselbe wie b 〕」ないしは「a と b は一致する〔a und b fallen zusammen〕」の意味で捉える。
- 「アリストテレス」のような本来の固有名の場合、もちろん意味についての見解は分かれ得る。ひとは、例えば、プラトンの弟子でアレクサンドロス大王の師ということをその意味と考えるかも知れない。そうする者は、スタゲイロス生まれでアレクサンドロス大王の師ということをその名称の意味と考える者とは異なる意味を「アリストテレスはスタゲイロスに生まれた」という文に聯結するだろう。もっぱら意義が同じままである限り、こうした意味の揺らぎは許容され得るものの、しかし、それは論証的学問の体系においては避けられねばならないし、完全な言語には生じてはならないだろう。
- 我々は、心に痕跡を残した感官的印象と活動自体がそのもとで当の痕跡のポジションを襲う直観〔Anschauungen〕というものを、表象と共に等しくひと括りにすることができる。それらの違いは我々の目的からすれば取るに足りない。ほぼいつでも感覚と活動に並んでそうしたものの記憶が直観像〔Anschauungsbild〕の完成を援けるのだから、なおさらだ。一方、ひとは、対象が感官的に知覚可能ないしは空間的である限りにおいて、直観とは対象のことであると解すこともできる。
- だから、「表象」という語でそのように根本的に相異なるものどもを表示するのは不適切だ。
- 私は、思考〔Gedanken〕とは、主観的な思惟行為ではなく、大勢の共有財となり得るような、思惟の客観的内容のことだと考える。
- 意味しかもつことのない記号に対しては何か特別な表現が在ったほうがよいだろう。そうしたものを例えば像〔Bilder〕と呼ぶならば、舞台上の役者の言葉は像だろうし、そもそも役者自体が像だろう。
- 私にとって、判断は思考の単なる把握ではなく、その真理性の承認だ。
- 「A log, daß er den B gesehen habe(A は彼が B と会ったことがあると嘘をついた)」では、副節の意義はひとつの思考であり、それについて、まずそれが真であると A が主張したことが、そして次にその虚偽性を A が確信していたことが述べられる。
- 上で述べたことに遵えば、本来そうした表現には特別な取り決めによって恒に何らかの意義が確保される必要があるだろう。例えば、どんな対象も当の概念のもとには収まらないか、もしくはひとつより多くの対象がそこに収まる場合には、その意義は数 0 と看做されねばならない、というような取り決めによって。
- ちなみに、そうした文の場合、いくぶん相異なる複数の解釈が可能だ。我々は「nachdem Schleswig-Holstein von Dänemark losgerissen war, entzweiten sich Preußen und Österreich(シュレースヴィヒホルシュタインがデンマークから分離されてから、プロイセンとオーストリアは仲違いした)」という文の意味を「nach Losreißung Schleswig-Holsteins von Dänemark entzweiten sich Preußen und Österreich(シュレースヴィヒホルシュタインのデンマークからの分離のあとで、プロイセンとオーストリアは仲違いした)」という形式で表わすこともできる。この解釈のもとでは、シュレースヴィヒホルシュタインは或る時デンマークから分離されてある〔Schleswig-Holstein einmal von Dänemark losgerissen ist〕という思考を当の意味の部分とは解し得ないこと、しかも、この思考が「nach der Losreißung Schleswig-Holsteins von Dänemark(シュレースヴィヒホルシュタインのデンマークからの分離のあと)」という表現がそもそも何らかの意義をもつための必要条件であることはほとんど明白だ。もちろん、件の文を、そこには嘗てシュレースヴィヒホルシュタインがデンマークから分離された〔es sei einmal Schleswig-Holstein von Dänemark losgerissen worden〕ということが一緒に述べられているのだというように解すこともできるが、これはまた別のケースであり、やがて考察されることになるだろう。その違いをもっとはっきりと見分けるために、ヨーロッパ史の知識に乏しくて、シュレースヴィヒホルシュタインは或る時デンマークから分離されてあるということを偽であると思っている支那人の心に成り代わってみよう。彼は第一の仕方で解した当の文を真であるとも偽であるとも考えず、それに対して何の意義をも認めないだろう。当の副節に意義が欠けているだろうからだ。それはただ見かけのうえで時を規定するだけだろう。一方、彼が件の文を第二の仕方で解すならば、そこには、彼にとっては無意義な部分の傍らに、彼には偽であると思われるひとつの思考が表現されているのを見出すだろう。
- はっきりとした言語的暗示が欠けていて、コンテクスト全体から推測されねばならないことも間々ある。
- 「aber」や「doch」〔という逆接の接続詞〕の場合も同様だ。
- ひとは件の文の思考をこう表現することもできるだろう。「entweder ist jetzt die Sonne noch nicht aufgegangen, oder der Himmel ist stark bewölkt(太陽がまだ昇っていないか、もしくは空が雲で厚く覆われているかである).」 ここから、この類の文の組み合わせ〔der Satzverbindung〕をどう解せばよいかが見て取れる。
- 或る主張が嘘なのかどうかとか或る誓いが偽りなのかどうかという問題にはこれが重要となることがあり得る。
* * * * * * *
訳者より
今日「フレーゲのパズル」と呼ばれている言語哲学の問題は Gottlob Frege の論文 Über Sinn und Bedeutung (Zeitschrift für Philosophie und philosophische Kritik, NF 100, 1892, S. 25-50) に端を発している。ここに訳出したのがそれだ。
一言しておく必要があるのは、「Sinn」と「Bedeutung」、それから「Gedanke」の訳語についてだろう。日本語でフレーゲを論じる際には、「Sinn」には「意義」を、「Bedeutung」には「意味」を、「Gedanke」には「思想」を当てるのが今では慣例となっているようだが、しかし、そうすると、それらの語をいかにも浮世離れした仕方で用いることになってしまうため、ここでは、敢えて、「Sinn」には「意味」を、「Bedeutung」には「意義」を、「Gedanke」には「思考」を当てた。(先にヴィトゲンシュタインの論理哲学論考を翻訳した際にもそうしたのだった。)それによって生じた不都合はといえば「bedeuten」という動詞に「指す」を当てるはめになったことぐらいであり、それはたいした問題ではないと私は思う。
翻訳に際しては www.gavagai.de に在る PDF 版を底本とした。また、Oxford Readings in Philosophy の一冊 Meaning and Reference に載録されている Max Black による英訳 On Sense and Reference をおおいに参考にしたことを付け加えておく。2007年秋 大熊康彦
近代哲学つまみぐい