吉原 「見返り柳」
吉原と浅草寺
大門交差点と見返り柳
吉原の区画が現在でも想像できる
「見返り柳」のマークの左が吉原
左「土手通り」が右では川の側を走る道である

吉原

江戸幕府は元和3年に、それまで市中数箇所に散在していた遊女屋を集めて、葺屋町の東隣2町四方の地に遊郭を作ることを許可した。ヨシの生い茂る湿地を埋め立てて遊郭を建設したので、はじめ葭原(よしわら)と称したが、後縁起の良い吉原に改めたという。やがて江戸の町の発展に伴い、吉原が市街地の中心部になったので、明暦2年移転を命じ、明暦3年8月、浅草千束村への移転を完了した。以降この地を「新吉原」とよび、移転前の地を「元吉原」とよぶようになった。
浅草日本堤から衣紋坂(えもんさか)のある五十間道を下がったところが新吉原の大門口で、郭は大ドブとか、オハグロドブと称される堀に囲まれ、南北の長さは266メートル、東西は351メートルであった。
明治5年娼妓解放令が出されたが、公娼制度は明治期以降も存続、終戦後の昭和21年公娼廃止がGHQにより指令され、遊郭は特飲街と名を改めた。昭和33年売春防止法の施行によって吉原は消滅した。
                          
日本地名大辞典 角川書店

見返り柳
遊び帰りの客が後ろ髪を惹かれる思いをしつつ、この柳のあたりで遊郭を振り返ったということから「見返り柳」の名がある。かっては山谷堀脇の土手にあったが、道路や区画の整理に伴い現在地に移され、数代にわたり植え継がれている。