◆現在の名称:山城国分寺跡
◆所在地 :京都府相楽郡加茂町例幣
◆宗派 :
◆交通 :JR関西本線かも駅
平城京のあった奈良市の「なら」駅から関西本線に乗り、京都方面に向かい、次の「ならやま」を過ぎると京都府に入る。最初の駅が「きづ」で、次の「かも」駅で降りる。奈良から3つめの駅である。ほぼ北に2Km、木津川を渡り国道163号線に入る少し手前の田圃の中にちょっと盛り上がったところが有り、そこに「山城国分寺跡」の石碑が建っていた。
盛り上がったところは「塔跡」で、コンクリートで作った礎石(下追補参照)が跡を示すものであった(下記補注参照)。それ以外には何もない。車の運転手さんに「ここは発掘されていないのですか?」ときいたところ、「農閑期には毎年発掘してるんです。今年も12月に入ったらするのじゃないでしょうか。」と言う返事。田植の時期には埋め治すとのことである。
ところで、実は話はここで終わりにならない。なんとここには「山城国分寺跡」の石碑の隣に「恭仁(くに)宮大極殿跡」という石碑が建っているのだ。この「恭仁京」は聖武天皇が740年に「平城京」から都を移し、742年の正月に平城京から解体し運んだ「大極殿」が完成したもの。しかも、741年は「国分寺建設の号令」がかかった年である。
それぞれ大きな建物だけに並んで建っていたということは無いだろうし、また、国分寺を建立するときの指示に「街中をさけよ」というのがあるから、そうなると「恭仁宮」の跡が「国分寺」になったのであろうか。「恭仁京」が完成した年の8月には聖武天皇は近江国の「紫香楽(しがらき)」に宮を作るよう命令した。さらに僅かの間に都を「難波」に移し、また「平城」に戻している。
この様な聖武天皇の度重なる遷都について松本清張氏は「清張通史」で、「聖武天皇は大麻中毒の後遺症でノイローゼであったのではなかろうか」と推理している。
1989/11
左 山城国分寺跡、右 恭仁宮大極殿跡石碑
補追:
本文中に「コンクリートで作った礎石が、、、」とあります。この点につき鈴木さんの「金光明四天王護国之寺」中「山城国分寺」では「発掘した礎石」となっており、私のレポートが古いだけに間違いではないかと気になっておりました。
先日(2001/3)上記リンク先主催の木津川さんから、「礎石は発掘したもの」という確認のご見解と「それを示す文献を新規にページに収容した」というご連絡をいただきました。
瓶 原 國 分 寺 址
http://www1.mahoroba.ne.jp/~kidugawa/kunikyo/kokubunji.htm
これですっきりと「発掘した塔礎石」と訂正させていただくとが出来ました。木津川さんにはお礼申し上げます。
自分の早飲み込みをインターネットができたことにより訂正できるとはなんと良い時代が来たものかと喜んでおります。
その後の山城国分寺
初回訪れてから11年半ぶりの「山城国分寺」である。
以前畑の中塔跡に「山城国分寺跡」と「恭仁京大極殿跡」という2本の石碑が建っていたところがさらに発掘整備されている。
「塔跡」には「山城国分寺跡」の石碑のみ。塔跡は以前同様であるが塔礎石が復元されている。礎石は当時のもの、しかも他の国分寺跡と違うところは塔の柱にぴたりと合うように加工されたものである。
さらに「金堂跡」が発掘整備されていた。石垣で築かれた広場がありそこに「山城国分寺金堂跡」と「恭仁京大極殿跡」の石碑がおかれてある。
石垣は前回無かったはず。非常に古いもので作られており前回の訪問時に存在が気付かなかったのが不思議なくらいである。いつどのようにして作ったものであろうか?
金堂跡から塔跡にかけての寺域が整備され史跡公園風である。
2001/07
塔跡
金堂跡
金堂跡
山城国分寺のその後
山城国分寺のその後の姿を知る資料を並べてみる。
その一 山城名勝志
「東宝記に云う。羅城門の左に元山城国分寺あり。今竹田村に小堂あり国分寺と号す。」
本文中に羅城門の左「東寺」を「左大寺」、右「西寺」を「右大寺」とう。羅城門の左に元山城国分寺があった。その跡に大伽藍を建てて「左大寺」とした。と書いてある。
これは、現在の「東寺」のあった場所に以前「山城国分寺」があったということである。
「東寺」が建立されたのは平安京の成立とほぼ同時であるので794年頃である。それ以前に「山城国分寺」があったということはどういうことなのであろうか?50年弱の寿命である。
山城国分寺は加茂町の恭仁京に一時借り住まいをしその後京都八条に移り、さらに竹田に移動したのか?又はその逆なのであろうか?更に他のことなのであろうか?
雍州府志
拾遺都名所図会
新撰京都名所圖會
山城名勝志
その二 雍州府志など三点
京都府竹田の竹田小学校の南に「山城国分寺」があった。これが明治7年に廃寺になり、現在安楽寿院に合併されているという。
安楽寿院に問い合わせたところ「国分寺の額」のみが伝わってきているとのことであった。
中世の「国分寺」は竹田に移り存続し、明治7年に廃寺となり扁額だけが安楽寿院に移り現存しているのである。
なお、資料は「がらくた置場」三永さんからご提供いただいたものであります。心からお礼申し上げます。
竹田の里
羅城門付近
「羅城門跡」、「西寺跡」は子供の遊び場に「跡」を示す石碑が残るだけである。「朱雀大路」は羅城門付近でかってをしのぶことが出来ない、狭い道である。ただ、「東寺」だけが昔どおりに残っている。朱雀大路、羅城門、東寺、西寺は平安京の基本構造として794年の平安遷都時までに造られたものである。それ以前に東寺の場所に「山城国分寺」が建っていたと山城名勝志が伝えている。746年が「恭仁京大極殿を山城国分寺に施入(続紀)」の年であるから、東寺の場所の山城国分寺廃止と僅か50年弱の年数しかない。
2003/09