◆現在の名称:薩摩国分寺跡史跡公園
◆所在地 :鹿児島県川内市国分寺町
◆宗派 :
◆交通 :JR 鹿児島本線川内駅 車
私が人生において「したいこと」が「旅」であり、旅の最大のテーマが「国分寺跡を訪ねて」ということ。それに加え、最近「安国寺・利生塔」。さらにもう一つ「世界遺産」が加わった。もちろん以前からの「温泉」、「美味しいもの」は継続テーマである。
今回はこれらをひっくるめての「旅」であった。
前日は熊本に泊り、レンタカーで朝から天草地方を南下、昼は天草料理という海鮮生簀料理を賞味し、牛深からフェリーで鹿児島県に入った。
薩摩国府は川内市にある。
川内市は現在の県庁所在地鹿児島市からは随分離れているが、歴史は古い。神話の時代まで遡る。天照大神に命じられ高千穂に降りた「ににぎのみこと」が奥さんの「木花開耶姫(このはなさくやひめ)」および子供達と共に晩年川内市に移り、ここで死んだ。ににぎのみことと家族の墓がここにあるという。ににぎのみことの墓は「可愛山陵(えのさんりょう)」という宮内庁管轄の御陵である。奥さんの墓は「端陵(はしりょう)」といわれ、「御前様の陵」とも呼ばれている。超古代から発展していた川内に薩摩国府が設置された。
国指定史跡薩摩国分寺跡
薩摩国の国分寺が創建されたのはいつの頃であったのか明らかでない。一般には、奈良朝の末期頃と推定され、尼寺が実在したことは文献で知られているが、その位置については諸説があって未だに不明である。薩摩国分寺の位置は、昭和43年以来の発掘調査によって、薩摩国府に隣接する当方にあり、方2町で限られる界域を寺域と推定するに至った。
塔跡の心礎は、明治15年(1882)ごろ、大小路の了忍寺に運ばれていたが、昭和19年(1945)旧位置に戻され、同年塔跡が国の史跡に指定された。この国分寺の北東1000mに、国分寺の瓦を焼いた鶴峯窯跡があり、国分寺跡と共に昭和51年(1976)に国の史跡に指定された。「薩摩国分寺史跡公園」は主要伽藍の基壇・中門・回廊・築地・通路・水路などを、発掘調査結果に基づいて復元しているが、その配置は2回目建て直しのそれを基準にしたものである。なお、発掘調査の結果当寺は平安時代に1回、鎌倉時代に1回再建されたことが確認されている。
鎌倉時代以降次第に国府の勢力が減退するにつれて、国分寺も衰え、南北朝の時に衰減したと伝えられている。
川内市文化財要覧
川内市歴史資料館編
史跡公園としては実に立派である。昭和57年から59年にかけて整備し総費用667百万円だそうである。
左は薩摩国分寺層塔といわれ市指定文化財であり、3基あるが、これが国分寺に建立されたのは平安時代末期だそうである。
全国の国分寺でこのようなものが設置されたということは聞いたことが無い。薩摩だけのことなのであろうか。
その後の国分寺を三国名勝図会で見ることが出来る。江戸時代である。天満宮は「国府天満宮」現在の「菅原神社」で平安時代村上天皇応和3年(963)に勅願所として建てられ国分寺の鎮守社で京都北野、大宰府とならび日本三大天神といわれたものだそうである。秀吉の薩摩侵攻により両寺社共に焼かれたが、島津光久の命により当時の泰平寺住職実秀法印が再建したという。これが図会として記録されたものであろう。それにしてもささやかな再建である。
三国名勝図会
薩摩国府
薩摩国府は発掘調査の結果JR上川内駅裏側一帯の屋形原地区字大園と石走島にまたがる方2町の区域が政庁のあったところと確定した。しかし現在それを示すものは無い。
そこで、国分寺跡の近くに「万葉の散歩道」と称する川沿いの「道」をつくり「歌碑」、「大伴家持像」などを配置し、万葉の歌を読みながら国府をしのんでもらおうとしている。これも一つのアイデアであろう。
川内市歴史資料館
薩摩国分寺跡史跡公園に隣接し資料館がある。資料館には国分寺模型、国府政庁模型が展示してあった。展示物はそう多くはないが、手作り感がある。
ここの学芸員さんと話す時間があり多くをうかがうと共に、資料「三国名勝図会」を見せていただいた。上記図会はそのコピーである。
また、同資料館発行の「川内市文化財要覧」は上記にも引用したが、川内市の文化財を広く捉えた力作で価値の高いものと思う。
2003/09
回廊部分
中門から金堂方向
塔跡
塔礎石
国分寺層塔
万葉の散歩道(歌碑の道)
大伴家持像
国分寺模型
国府政庁模型
政庁で働く人々模型
川内市地図
南九州の国分寺跡
後は開通間近の九州新幹線。
当時の国府を説明
薩摩一ノ宮(新田神社)
薩摩一ノ宮は現在通常は開聞岳北麓にある枚聞神社(ひらききじんじゃ)をいう。しかし、資料によっては薩摩一ノ宮を2箇所とし、もう一つ川内市の新田神社を掲載しているものもある。この点に関し新田神社文書(国重文)には次のようなものがある。
<島津忠宗施行状案
「異国(元)降伏祈祷のため、剣一腰、神馬一頭を一ノ宮に献ずるが、一ノ宮については開聞神と新田宮が相論中なるも、先例により新田宮に進献するものである。正応6年(1293)」という内容。川内市文化財要覧>
つまり、鎌倉末期くらいまでは新田神社が一ノ宮と認識されており、その後枚聞神社に移ったものと考えられるのである。