伝馬町牢屋敷跡  でんまちょうろうやしきあと
         都指定旧跡
           住所:中央区日本橋小伝馬町三  
         最寄り駅:営団地下鉄日比谷線小伝馬町駅
牢屋敷跡
大伝馬塩町の東にあり、北は竜閑川(神田掘)、南と東は小伝馬町1丁目と小伝馬上町に接する。いわゆる伝馬町牢屋敷である。徳川氏関東入部当初の天正年中(1573-92)には常盤橋御門外、町年寄り奈良屋市右衛門と金座後藤庄三郎の屋敷に置かれていたが、慶長年中(1596-1615)北東方のこの場所へ移転した(御府内備考)。寛永江戸図には「ろうや」、享保年中江戸絵図には「牢屋」の南西に石出帯刀(いしでたてわき)の役宅が示され、安政6年(1859)再板の尾張屋版切絵図には「囚獄石出帯刀」とある。石出帯刀は江戸期を通じて典獄の職を務め、牢屋敷内に役宅があった。牢屋敷の広さは敷地2618坪(うち帯刀居宅480坪)で、周囲に濠を巡らし、表門を南に向けていた。表門から入って宣告場、張番所があり、獄舎は御目見え以上の罪人を入れる揚屋敷(二間半×三間)、士分・僧侶を入れる揚屋(三間四方)、百姓町人以下の大牢(五間×三間)、同婦人の女牢(部屋ともいい、四間×三間)の四ヶ所に分かれており、他に拷問場・処刑場・検死場、病囚のための薬煎所、役人長屋があった。役人は同心78名、獄丁46名(牢獄秘録)。
天保12年(1841)頃成立の「朝日逆島記」によれば、役人は「牢獄秘録」の記事よりも減って石出帯刀の下に20俵2人扶持の牢屋同心56名、牢屋下男36名。逆に獄舎は拡張されている。また、牢屋敷には日々南北の町奉行所から見回衆が一名ずつ、御下役衆として三名ずつが巡回、南北両町奉行本人も非番の折に月に一度ずつ見回り、御目付衆も年に四、五回は見回りにきたという。
日本歴史地名大系
東京都の地名
牢屋は取調べ中の者を入れる未決拘留の場所であったが、また永牢、過怠牢という禁錮刑を執行する場所でもあった。また、敲(たたき)、入墨刑、斬首も執行し、拷問も行なった。江戸東京学事典

囚獄とは牢獄をあずかる奉行の所管をいうのであって、牢獄を牢屋敷、囚獄を俗に牢屋奉行といった。武鑑によると町奉行に所属していたのであるが、南北どの町奉行に所属していたというわけではない。収容すべき囚人は、寺社奉行の手からも加役本役の火付盗賊改の手からも、また、地方から転送された囚人も収監した。囚獄は代々石出帯刀と名乗る武士が、姓名と職を世襲して勤めた。役高は与力より少し良い300俵10人扶持で、配下に牢屋同心、牢屋下男が附属した。
牢屋同心は牢内の取締、事務、監督を行なった。よく牢屋見廻同心と混同されるが、牢屋同心は、牢屋敷に属し、牢屋見廻り同心は町奉行に属し牢屋同心を監督する役である。この牢屋同心には鍵約2名、数役1名、打役4名、世話役4名その他書役、賄役などがあった。40俵4人扶持から25俵3人扶持。
牢屋下男(ろうやしもおとこ)は牢屋同心の下で雑用を勤め、囚人の取り扱い、刑執行の手伝いをする役で給金は1年に1両2分、1人扶持である。
江戸の司法警察事典



牢内には幕府の認めた12人の牢役人がいて、病人や食事の世話などを行なっていた。名主、添役、角役、二番役、三番役、四番役、五番役、本番、本助番、五器口番、詰之番、詰之助番であるが、その他穴の隠居、隅の隠居などの役人がいた。食事を始め衣類や紙などの支給品を始め、私物の差し入れ品は名主(牢名主)が一存で再配分するなど不正不法がはなはだしかった。また、非衛生的で死亡者が多く、庶民は吟味与力から「牢にたたきこむぞ」と一喝されただけでも震え上がるほど恐れられていた。
江戸東京学事典
囚獄
牢屋同心
伝馬町牢屋敷
伝馬町牢屋敷
切絵図 1859
(ため)
囚人が病気になると溜へ下げられる。囚人の療養所であるが、入牢したての者や主殺、親殺、政府に対する陰謀などの大逆罪はどんな重病でも溜りへは下げなかった。また、15歳未満の幼年者が遠島刑に処せられると15歳まで溜に預けられた。
溜は貞享4年(1678)に車善七と松右衛門が町奉行から囚人を預かったことから始まり、そして行路病者や無宿者の病人も預かるようになり元禄2年(1689)に車善七が幕府から新吉原裏の千束村に900坪の土地を拝領して自費で一の溜・二の溜・女溜の52坪の棟を作った。また同13年には品川の北方、池上道の畑中に523坪の土地を拝領して自費で溜を作った。病囚はここに収容されるまでにはかなりの重病になるまで頬って置かれたので、治るものは少なかった。
江戸の司法警察事典
浅草溜
伝馬町牢屋敷跡
処刑場跡碑
大安楽寺
大安楽寺
江戸の伝馬町牢屋敷は慶長年間(1596-1615)まで常盤橋際(日本橋本石町2丁目)に設置され、のち日本橋小伝馬町に移った。明治8年(1875)市谷囚獄署が出来て移転するまで、約270年間伝馬町牢屋敷が存在した。現在大安楽寺境内の処刑場跡といわれる場所に延命地蔵孫があって、山岡鉄舟筆の台座銘に「為囚死群霊離苦得脱(いしゅうしぐんれいりくとくだつ)と記されている。安政の大獄では、吉田松陰、橋元佐内、頼三樹三郎ら、五十余人が伝馬町牢送りとなり、そのほとんどが当地で処刑された。
中央区の文化財
中央区教育委員会
「吉田松陰終焉の地」碑
十恩公園
十思公園  中央左側に石町(こくちょう)時の鐘が保存されている
延命地蔵
吉田松陰は天保元年(1830)長門国、萩にうまれる。代々山鹿(やまが)流兵学指南の吉田家を継ぐ。安政元年(1854)ペリー艦隊に便乗しようとして失敗、伝馬町送りの後萩に帰り松下村塾で門弟を教育した。門弟には伊藤博文、山形有朋、木戸孝允等、明治維新の大業に功績のあった著名な士がたくさん出た。安政の大獄に連座し安政6年(1859)10月27日獄舎の敷地内にあった刑場で処刑された。
中央区の文化財
中央区教育委員会
死罪の大半は牢内で執行した。同時に刀の試し切りも行なわれ、さらに死者の内臓を「薬」として採取し、それぞれ有名な専門業者が処理した。死罪の延べ人数は10万を越えたという。そのため、跡地の利用が出来ず、明治中期にやっと誘致した寺が今も残る。大安楽寺・日蓮宗身延別院(大黒天)・瑞法光寺(鬼子母神)などだ。残る大部分が十思公園(じっしこうえん)で、園内に「石町時の鐘」の鐘楼があり、十思小学校もあった。また、吉田松陰の辞世句「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」の碑がある。
東京の地名がわかる事典
2004/02
現在の牢屋敷跡
司法警察関連施設跡
イラストは「江戸の司法警察事典」笠間良彦
柏書房よりの抜粋である
牢役人
牢役人の組織は公許のものではないが、牢内に自然と発生した不文律で、町奉行所の「牢内掟の事」の中にも認められているところもあるから、組織は承認されていたのだろう。
江戸の司法警察事典