根岸の里  ねぎしのさと
     所在地:  台東区根岸二・三丁目
            荒川区東日暮里四・五丁目
        
お行の松        円光寺(藤寺)
       
根岸四丁目         根岸三丁目
落語:茶の湯

 店は若い者に任せて、根岸の里にて余生を送ろうという隠居が何か風流なことをやってみたいと、思いついたのが茶の湯。ところが、茶の湯の心得は全く無い。 小僧の定吉に相談して買いに行かせたのが「青黄粉(あおぎなこ)」。これにお湯をそそいでかき回しても、泡が立たない。そこで、次に買いに行かせたのが「むくの皮」。泡は立ったが、とても飲めたものではない。我慢して飲んだところ、たちまち腹下し。
 この主従はこの茶を近所の人を招いて飲ませることにした。何度も招かれて困惑している客は上等なお菓子だけを目当てにやってくる。やがて、隠居は菓子屋への払いがバカにならないのに気づいた。そこで、自家製の菓子を作ることにする。芋を原料とし饅頭のようなものを作り、名も「利休饅頭」と洒落るが、これがまたひどい味で食べられる代物でない。
 ある日、初めての客を招いて、「青黄粉」に「むくの皮」の「お茶」を飲ませてた。客は飲もうとしたが、まずくて喉を通らない。あわてて「利休饅頭」を口直しに頬張ったが、これまた、ひどい味で飲みこめない。便所へ行く振りをして中座し、その菓子を縁側から垣根の向こうの畠に向かって放り投げた。その菓子は働いていたお百姓の顔にペタッとぶつかった。
 百姓は頬についた汚れをとりながら、『また、茶の湯、やってんなァ』
                       
圓窓五百噺ダイジェスト 19 [茶の湯(ちゃのゆ)]
根岸の里の寮  江戸名所図会
根岸の里
根岸の里
根岸の里は「江戸名所図会」には「呉竹の根岸の里は上野の山陰にして幽趣あるが故にや。都下の遊人多くはここに隠棲す」とあり、画人として有名な酒井抱一は文化6年(1809)から下根岸の雨華庵に住んだ。「山茶花や根岸は同じ垣つづき」の句があり、根岸紅と称する山茶花があった。天保6年(1835)には文人だけでも30名を超えたという。だが、天保12年(1841)1月5日の火事で縦四町、横七町が焼亡した。その後天保改革で武士・町人の百姓地居住が禁止され、一時は原野のように寂れたという。
 日本歴史地名大系
  東京都の地名


根岸の隠居所は根岸の寮ともいわれる。それはどのようなものであろうか?現代であれば左の写真のようになるのだろう。このようなところにご隠居さんと小僧さんが住む。

寮と別荘
明暦の大火の経験から諸大名や知行取りの旗本は2つ以上の屋敷を持つことになり、上屋敷、中屋敷、下屋敷がつくられ、みずから百正地を買って抱え屋敷を持つものも少なくなかった。上屋敷以外は全て別荘であるが、町人地で密集した暮らしを余儀なくされていた商家もこれに習った。享保2年(1717)には既に別荘がかなり普及していた。林泉を設けて遊所の隠れ家とし、隠居所、妾宅ともされた。おもに禅宗で僧の住居を寮といい茶室も寮と称していたので、富裕町人は茶室を名目に別荘を営んだことから寮と呼ばれた。遊女の保養や芸を仕込む遊女の別宅も寮であった。当初寮は通りの裏で町の中央にあった会所地と呼ばれる空き地に建てられた。路地の奥に見られた粋な住まいである。やがて別荘は閑静な郊外へと移った。それは町人の側からする専用住宅、郊外住宅の先駆といってよく、火災の多い冬に子女を避難させるなど、災害への保証となっていたこともみのがせない。
江戸以来建て続けられてきた別荘は南関東一円にひろがる東京のベッドタウンを先導するものだったとも言える。
  
江戸東京学事典
     三省堂


現代の寮
寮に備えられている茶室
落語茶の湯ではこのような縁側から垣根越しに「利休饅頭」を投げ捨てる。
垣根の外で働いているお百姓さんは茶の湯のたびに饅頭が飛んでくることはじゅうぶん承知している。普通なら怒るところ。しかし苦笑いで済ます心の大きさ、広さ。この落語を聞く人はこれで笑いがこみ上げてくる。ほのぼのとした笑。
茶の湯
初期の江戸の茶の湯は、石州流や遠州流などの大名茶が武家社会を中心に広まったが、元禄期(1688-1704)を過ぎると町人のなかにも茶の湯をたしなむ者が登場し、ことに田沼時代には冬木家のような有数の道具もちもあらわれた。表千家の高弟川上不白が寛延3年(1750)に江戸へ下向し、千家流の茶を広めた。この流れが後に江戸千家として自立し、今日にいたるまで東日本の一大流派をなしている。不白らの活躍した時代は、茶の湯の遊芸化に伴って茶道人口も増加し、茶の湯の集団学習ともいうべき七事式が彼らによって考案されるなど、新しい傾向が現われたことも見逃せない。
  
同上事典
現在の根岸の里
現在の根岸の里

現在の根岸の里は別荘地や寮を思わせるものは何も無い。商店街の電柱に「根岸の里へようこそ」と書いた看板がかかっているだけである。ささやかであるが、それでもいい。
町並みは古い。ずっと昔からあると思われる「ちょうちん屋」さんがあり、入って話を聞いた。やはり、江戸の名残のようなものは何もないという。
落語「茶の湯」には「建仁寺」という寺の隣に「隠居所」を設けたとある。しかし江戸切絵図や現在の地図に見当たらない。そこでこれも聞いてみた。「ちょうちんやだから近くの寺は殆ど知っているが建仁寺は聞いたことが無い」ということであった。これは架空の寺なんだろう。ちなみに建仁寺で有名なのは京都の古寺、大きな禅寺である。
現在の根岸の里
  丸印が「根岸の里へようこそ」と書いてある看板
歓迎の看板
江戸切絵図
根岸の里というのは「この一帯を根岸という」と書いてある場所と「百姓町屋」と書いてある場所だったのだろう。日本歴史地名大系でいっている「天保の改革」で禁止された「武士・町人の百姓地居住」というのはこの「百姓町屋」に居住することを云うと思われる。
江戸名所図会には「お行の松」と「円光寺」が紹介されている。「松」は根岸の東に接して、「円光寺」は根岸の南限ということになるのであろう。
分間江戸大絵図
現在の根岸の里の位置
江戸時代の根岸の里は荒川区東日暮里と台東区根岸にまたがっている。
お行(ぎょう)の松
江戸名所図会
切絵図では「五行松・不動堂」と書いてあるところの風景である
江戸名松の一つ、根岸「お行の松」三代目が昭和51年8月に誕生した。
お行の松は、江戸名所図会や広重の錦絵にもかかれ樋口一葉の作品「琴の音」や正岡子規の俳句の題材にもなり、岡本綺堂作の「相馬の金さん」の舞台にもなったところだ。
お行の松の歴史は古く、初代は今から350年以上前のものだといわれる。この辺りを時雨岡(しぐれのおか)といっていたので、松の別名を「時雨の松」ともいっていた。
樹齢350年を経た古松もついに昭和3年の夏に枯れてしまった。同5年に地上から約4mを残して切り取られ、屋根をかぶせてあったが、現在では根株だけが3代目と並べられている。
下谷・浅草史跡を訪ねて
台東区

現在は周囲の川と鳥居は無いが、昔のところに昔を残している。さらに初代の松の根方、「お行の松」石碑、子規の句碑など思い入れが加わっている。「松と不動堂」は区が単純に歴史を残しているというのではなく大勢の人たちに支えられているという気がする。
3代目「お行の松」(中央)と初代松の根株
「不動堂」、「御行松」の門柱と奥の不動堂
円光寺
円光寺(藤寺)  江戸名所図会
2003/09
根岸詳細案内
山門と境内の藤棚
本堂・観音像・藤棚
「寮」イメージ写真は府中郷土の森博物館の茶室
円光寺

根岸の里にあり。当寺の庭中に紫藤あり、花の頃は一奇観たり、故に藤寺と称せり。また、堂前に鏡の松と唱ふる名樹あり。鎮守の弁財天は弘法大師の作なりといえリ。
江戸名所図会

臨済宗妙心寺派。本尊釈迦牟尼仏。寺宝弁財天。
江戸札差丹羽坊左衛門の開基。東峰禅琢の開山。藤がおおい茂っていたため「藤寺」の呼称があった。江戸開城の際、山岡鉄舟と勝海舟が当寺に立ち寄り会談したゆかりの寺。
全国寺院名鑑


円光寺は残念ながら入るものを拒んでいる。庭に今でも藤が植えられているのが判るだけである。
江戸切絵図から根岸の里を推定するとおおよそ緑丸の付近である。現在は根岸という地名のところで「根岸の里」と称しているようだ。
円光寺へは車が入らない。西蔵院前のパーキングに車を止めて歩き。