◆現在の名称:美濃国分寺

◆所在地  :岐阜県大垣市青野
◆宗派    :高野山真言宗
◆交通    :JR東海道本線 垂井駅 車


旧中山道の宿場町「関ヶ原」から東に向かうと、宿場「垂井」、宿場「赤坂」と続く。この道は現在の国道21号線と垂井で別れ、その少し北の方を通る道である。そして、現「美濃国分寺」は「垂井」と「赤坂」のほぼ中間「青野」という町の少し北の山裾にある。

古代国分寺跡は「史跡美濃国分寺跡」として現国分寺の南に寺域の全てが整備されており、さらに金堂、塔跡などが土盛りされ、発掘された礎石がその上に復元されている。その北隣には資料館も建てられており、最高の整備状態にある。この整備状態は長野県上田市にある「信濃国分寺跡」と同程度である。近隣は田畑であり条件として整備可能であったこともあろうが、やはり関係者の努力には頭が下がる。

ところでこの近辺で不思議なことは南側の国道21号線と並行して走る「東海道本線」とは別に「国分寺」の北の裏山をもう一つの「東海道本線」が走っているのである。もっとも離れたところの距離はおよそ3qもあるようだ。どの様な運行がされているのであろうか? クイズものである。

1991/8


再訪記
美濃国分寺は濃尾平野の最西端にあり、美濃国内でも機内へ通ずる近江の国に近い青野ヶ原に建立された。ここは、伊吹山系の小突出丘の南平地となる肥沃な地で、遺跡南を東西に通る東山道沿いには古代三関の一つ不和関や美濃国府、推定国分尼寺が並ぶ政治・文化の要の地であり、利便の地である。
国分寺遺跡周辺は条里地割が認められ、現在真言宗国分寺の南に広がる寺域は東西231m、南北203.7mで、方2町と推定される。昭和43年から8次に渡る発掘調査が行なわれ、南門・中門・塔・金堂・鐘楼・僧房・築地など伽藍全貌を確認した。
大垣市歴史民俗資料館


上の資料、及び左の写真2枚は大垣市歴史民俗資料館が昭和58年(1983)10月に行なった「各地の国分寺展示解説ー史跡の整備とその現況」という特別展の資料の一部であり、その資料は前回の訪問時(1991)に資料館からいただいたものである。
これによればこの時点で既に整備完了した美濃を初めとする信濃、遠江などの国分寺跡が収録され説明されていた。
従ってここには再訪による特に新しい発見は無いが、寺域全体が整備された姿を見るのは何度でもいいものである。
現在ここの少し南を国道21号線中仙道が走っているが、古代はこの史跡の前の道が「東山道」だったそうである。海道を行く人たちは美濃国分寺の勇壮な姿を見ながら通ったのだろう。
南大門跡
南大門跡から金堂方向
塔跡にある復元された礎石
美濃国分寺跡の位置
2003/08