北町奉行所跡  きたまちぶぎょうしょあと
         都指定旧跡
           住所:千代田区丸の内1丁目 東京駅東海道新幹線ホーム
南町奉行所跡  みなみまちぶぎょうしょあと
         都指定旧跡
           住所:千代田区有楽町2丁目8および9
南北町奉行所と八丁堀組屋敷
分間江戸大絵図 (西が上)
南町奉行所
大名小路絵図
北町奉行所
大名小路絵図
南北町奉行所の門
町奉行所

江戸の市政を管轄した役所。慶長9年(1604)八代洲(やよす)河岸内と呉服橋御門内に初めて設けられ、両所の位置関係により八代洲河岸内の役所を北町奉行所、呉服橋御門内の役所を南町奉行所と呼称するようになった。元禄15年(1702)に奉行が1名増員され中町奉行所が出来た。宝永4年(1707)北町奉行所が数寄屋橋御門内に移転、南町奉行所となり、他の2奉行所もそれぞれの位置により名称を変えた。享保2年(1717)には北町奉行所が常盤橋御門内に移転。同4年には中町奉行所を廃止し奉行二人体勢となる。文化3年(1806)北町奉行所が呉服橋御門内に移転し、以降北・南両町奉行所の位置は固定し幕末に至った。
日本歴史地名大系
東京都の地名
町奉行
初めて町奉行という職名がおこったのは、慶長9年(1604)で、幕法の上で町方を専当する役方として制度化されたのは寛永8年(1631)である。町奉行は家禄1000石から3000石程度の旗本が補任され、町奉行を最終コースとして終わるものが多かった。町奉行は激職であったので役料を与えられた。寛文6年(1666)役料1000俵、天和2年(1682)役料を廃止して家禄に加えることとし、享保8年(1733)足高の制が施行され役高3000石に決定。以降幕末まで従5位下朝散大夫(ちょうさんだいぶ)芙蓉の間に班し勘定奉行上座、役高3000石という町奉行の役高が確定するが、慶応3年にいたり役高を廃止し、役金2500両となる。
その職掌は江戸市中の武家地と寺社地を除いた町地を支配し、配下の与力、同心、囚獄(牢屋奉行)を指揮しながら、町地および町人に関する立法・行政・司法・警察・消防などを司り市政を総理した。また寺社奉行、勘定奉行と共に三奉行と称され、幕府の最高裁判所ともいうべき評定所の構成員であった。
したがって、司法特に裁判は町奉行の職掌の一部に過ぎなかったが、江戸市中の町地の町人、延享2年(1745)以降は寺社領の町、寺社門前ならびに境内借地の町人や陪臣などの武家、さらに評定所の委嘱があった場合には旗本や、拝謁以上の神官や僧侶をも裁判できた。現在の民事の訴訟を公事といったわけであるが、民事はすべて月番(南・北1ヶ月交代)がこれを主裁し、なるべく内済になるよう裁判を進めた。刑事の犯罪は、月番非番に関係なく、犯人逮捕の役人の所属する奉行がこれを処断した。
町奉行のもとで職務に従事したのが町方役人で与力と同心だった。享保4年以降は南北御番所(奉行所)に、それぞれ与力25騎、同心が100名ずつ配属されていた。同心の業務に協力したのが岡引とか手先と呼ばれた目明しである。幕末期の調査によれば江戸市中の岡引は約400人で、彼らの子分である下引をあわせると1000人に達したという。
町奉行の職は旗本のうち最も才幹のあるものを任じたが、特に大岡忠相(ただすけ)、遠山景元(かげもと)は著名である。
与力町 同心町
裁判の初審は必ず奉行が行なったが、それ以後本格的な心理は吟味方与力が行い、重要な場合には吟味場の背後に屏風を立て、奉行が陰に隠れて与力の吟味を聞く場合もあった。この吟味場が白洲である。
刑の判決は罪により奉行が宣告するのと与力がする場合があった。遠島以下、追放、敲(たたき)、叱りの刑は白洲において奉行自らが宣告し、打首以上の死刑は検使与力を牢屋敷に派遣し、即日死刑を執行させた。
江戸東京学事典 三省堂
与力と同心
八丁堀の呼称
八丁堀とは京橋から隅田川に通じる掘割を云うのであるが、町名としえはその東岸をさした。現在の東京都中央区兜町西側の西八丁堀、萱場町西側の八丁堀一帯である。吉田東伍『大日本地名辞書』には「寛永図を見ると南岸から萱場町まで武家屋敷や寺であったが、万治の頃に寺は移転させられて、町奉行所の与力同心の組屋敷となった」とあり、町奉行所組屋敷となってから八丁堀風という特別の風俗を生じた。
江戸の司法警察事典
与力
与力とは古くは合戦などの折に力を与(とも)にして加勢する人を意味し、戦国時代には侍大将などに附属した騎馬の武士をさした。江戸時代では京都所司代、大番頭以下の書職、諸奉行に属し、また配下の同心を指揮した。人数や役禄などは組によって差異がある。江戸幕府の与力制度の中でよく知られているのは町奉行配下の与力である。その格式は御目見(おめみえ)以下、200石より150石程度である。一代限りの抱席(かかえせき)であったが、実際には譜代同様に世襲であった。与力には支配、支配並、本勤、本勤並、見習、無足見習の六の役格があった。
与力の分掌は享保期(1716-36)では歳番(財政、人事など)、本所見廻、牢屋見廻、養生所見廻、出火之節人足改、火事場建具改、風烈廻、町廻(はじめは防火、後風俗取締)など、その後分掌は次第に増加し寛政5年(1793)では13、天保13年(1842)では20、慶応元年(1865)では22ある。
江戸東京学事典
町奉行所与力の拝領屋敷は200坪から300坪くらいで、道路に面して冠木門を建て、そこから玄関までは小砂利を敷き、玄関は式台付である。普通200石、200俵級は方番所付の長屋門であるが、町奉行所与力に限って冠木門としたのは、武士仲間でも軽視される役職なので遠慮したのである。
江戸の司法警察事典
与力の平常の出勤行列
200俵与力の門構え(冠木門)
同心
同心とは下級武士のことで、古くは加勢を意味していたが、戦国時代になると下級武士をさすようになった。江戸幕府の職制では京都所司代、大番頭以下、諸職、諸奉行などに隷属し、与力の指揮を受けた。その人数は幕末でおよそ6700余人、俸給は30俵2人扶持が標準であった。江戸の町奉行に属した同心が最もよく知られている。その人数は時により増減したが、南北町奉行所で各100人から120人、合計200人から240人の時期が長い。
同心の役格は年寄役、増年寄役、年寄並、書物役、物書役格、添物書役、添物書役格、本勤、本勤並、見習、無足見習の11に分かれていた。同心は抱席であったが事実上は世襲であり、幼少の頃より見習として奉行所に勤め、通常は他の番方に転じることはなかった。与力との関係は職務上はっきりと上下の関係にあり、同心から与力に昇格することは極めて稀である。
八丁堀組屋敷での居宅地は同心一人当たり約100坪余であるが、殆ど町人に貸して生活費を補い、同心たちはその屋に居住していたという。
江戸東京学事典

同心はたいてい与力に附属し、その取締は歳番与力である。与力に属している同心は与力の分掌の中で業務を勤めるが、与力を長としない奉行直結の同心の掛りがあった。
用部屋手付、隠密廻り、定町廻り、臨時廻り、下馬廻り、門前廻り、御出座御帳掛り、定触役、引纏役、定中役、両御組姓名掛である。そこで、警察に直接関係するいわゆる「三廻り」について説明する。

隠密廻同心
「江戸町奉行事蹟問答」に次のようにある。「隠密探索は同心へ奉行より申し付けるなり。予審中主任与力より申し含めることもあり、その方法は同心職務につき奉行も与力も指図することなし、専任するなり。何事に不依聴込たることは善悪共に奉行に告げ、奉行の耳目となって働くなり。捕縛すべき罪悪と認めるものは奉行へ告げるまでもなく時期を移さず町廻りとはかり捕縛し、忠孝美事に至るまで奉行へ告げるなり。」

定町廻同心
法令の施行を視察し、非違を監査し、犯罪の捜査、逮捕をする役で、現在のパトロール警官である。これが映画、小説でおなじみの定町廻同心であるが、その定員は一町奉行所にわずかに6名である。南、北町奉行所で12名。臨時廻同心も同数であるから合わせて24名、これで江戸府内を巡回して治安に勤めたのであるから驚異的である。この12名がそれぞれの受持区域をもって常時廻っているが、つい手が足りないから岡ッ引・下ッ引が動員されるようになるのである。

臨時廻同心
定町廻同心の予備隊のような存在であるが、その職務は全く同じであり、定員は一組6人、両町奉行所で12人である。これは定町廻同心を永年勤めたものがなり、定町廻同心の指導、相談に応じる先輩格であった。
江戸の司法警察事典
同心の出勤の服装
八丁堀同心の木戸門
同心と小者
南北町奉行所跡
南町奉行所跡の説明板
(奥がJR有楽町駅)
丸印のところに説明板が設置されている
2004/01
イラストは「江戸の司法警察事典」笠間良彦
柏書房よりの抜粋である
「八丁堀」は文化人が住んだ町
同心の宅地は100坪内外で、そこへ貸家を作り、民間の学者、医者、音楽家(諸芸の検校など)、書家、画家などを住ませ、自分は30坪くらいの家屋に住むのが普通であった。これによって収入を得るのは町方同心の給与として公認されていた。というより幕府の「体制外の知識人」を一箇所に集める工夫であった。
東京の地名がわかる事典
当該地に、かって南町奉行書画存在したことにまつわる痕跡は、現存していません。
有楽町2丁目8「レストラン レバンテ」前に、東京都教育委員会による説明板が立てられています。
千代田区の文化財探訪
千代田区教育委員会


有楽町駅中央口を東側に出て右側に渡ると「レストラン レバンテ」があり、電話ボックスの手前に説明板が設置されている。ここは結構人通りが多いが説明板を見ている田舎物は居ない。私一人である。そして写真を撮ると歩いている人が不思議そうに見ていた。現実にはここにこのような説明板があるなど知らない人たちが殆どであろう。歴史の名残を探して歩くほんの少しの人のためにこの説明板はある。
南町奉行所跡
北町奉行所跡
広域図
なお、現在の北町奉行所跡は東京駅八重洲北口前が2004年1月現在工事中のため跡碑を撮影することが出来ませんでした。後日撮影し掲載いたします。
八丁堀町御組屋敷 切絵図
「江戸東京博物館」 山本博文 小学館