蔵前通り くらまえどおり
現在の名称: 江戸通り(国道6号線)
落語:蔵前駕籠(くらまえかご)
(江戸幕末、官軍が幕府軍を追って江戸に進入し、彰義隊(しょうぎたい)との戦闘がはじまった2月頃、幕府方の浪士たちによる押し込み強盗などが発生していた。治安は悪化する一方であったが、それでも江戸庶民は夜を楽しんでいた。駕籠を飛ばして吉原に繰り込むのである。と、今度は吉原行きの駕籠を狙って蔵前通りへ追いはぎが出るようになった。その時分、日本橋・神田あたりから吉原に行くにはどうしても通らなければならない、咽喉っ首の、蔵前通り、ここへ追いはぎが出没するのだが、一人や二人ではない。十何人もずらっと並んで、白刃を突きつける。「我々は由緒(ゆえ)あって徳川家へお味方する浪士の一隊だ。軍資金に事欠いておる。身ぐるみ脱いで。。。。」とやる。さすがに蔵前通りは日が暮れると人っ子一人通らなくなり、しーんとして火の消えたようになった。)
蔵前には「江戸勘」と言う名うての駕籠屋があった。こういう駕籠屋の駕籠に乗っていく客は吉原でも上等の客とされていた。
「江戸勘」の主人は煙管を加えて表通りを見ながら、
「どおもしょうがねぇなぁ、これじゃぁ、駕籠へ乗って遊びに行く者はなし、若えやつぁ将棋ばかり指してやぁがってしょうがねえ、どうも。。。」
そこへ年頃二十五、六、唐桟の着物に羽織、茶献上の帯を締め、白足袋で、ばら緒の雪駄を履いた客が、
「おう、吉原(なか)へ、駕籠ぉやってくんねえ」
「ぇぇまことに相すみませんが、暮れ六つを打ちますと、もう駕籠は出さないことになっておりますんで・・・」
「どうしてだい、親方ぁ」
「お聞き及びでもございましょうが、蔵前通りが物騒でございまして、吉原行きの駕籠はみんなあそこでもって、食い止められてしまいます。乗ってるお客さまぁ丸裸にされて・・・・。」
(客はこのような時だからこそ吉原に行き女を喜ばしたいという。親方が重ね重ね断るところを駕籠賃は倍払う、駕籠かきには一人一分(いちぶ)の酒代を払う、追いはぎが出たら駕籠かきは逃げていい、ということで駕籠を出してもらうことにした。それから客が支度を始める。着ているものをそっくり脱いで、自分ではしから丁寧にたたみ、紙入れ、煙草入れは手ぬぐいに挟んで、たたんだ着物の間に突っ込んで、駕籠の座布団を撥ねて、一番下へ敷きこんでその上に座布団をかけて、あぐらをかいた。褌(ふんどし)一つの姿で駕籠に乗ったのである。)
「へいっ、行って参ります」
ぽんっと肩が入った。
一分という酒手がついているから威勢がいい・・・・・
「えいっ、ほいっ、駕籠。えいっ、ほいっ、駕籠。えいっ、ほいっ、駕籠・・・・・・」
浅草見附を出ると、蔵前通りをまっすぐに、榧寺(かやでら)の前まで来ると、
「まていっ」
「ほらっ、でぇたぁ・・・・・っ」
若い衆は駕籠をおっぽり出して、一目散に逃げ散っていった。
「待てぇ・・・・待て待て待てまてぇ・・・」
ぱらぱらぱらぱら、あとを追ってきた十二、三人の同勢。みんな覆面をした黒ずくめの出で立ち、どきどきする長い刀を引っさげて、駕籠の周りをぐるりと囲った。
「我々は由緒あって、徳川家へお味方する浪士の一隊だ。軍用金に事欠いておる。身ぐるみ脱いで置いて参れ。命までは取ろうと申さんぞ。これ、中にいるのは、武家か町人か?なまじ生半(なまなか)腕だてをいたすと為にならん。これへ出いっ、これへ出いっ。・・・・近藤、あかりをこちらぃ向けろ。・・・・命までは取ろうと申さん、身包み脱いで・・・・置いてまいれっ」
と、刀の切っ先で、駕籠の垂(たれ)をぐぅいと上げると、明かりに照らされて、褌一貫(ふんどしいっかん)のやつが腕組みをしている。
「うむぅ・・・・もう済んだか」
落語特選下 麻生芳伸編 ちくま文庫
落語の楽しみ方
落語は、噺家が落語を聞く客に噺の情景を想像させ、客は噺家により励起された情景を心の中で楽しむ芸術ではないかと思う。従って噺家と客の感受性のぶつかり(一致とか、同一化ではない)が良い組み合わせの場合に最も楽しくなるのであろう。落語の特徴の最大のものは噺の最後に出てくる「落ち」である。私の好きな「落ち」は想像も予測もしていないことが「ぽんっ」と出てくる「落ち」である。この瞬間のために落語を聞くといってもいい。
落語「ぞろぞろ」では「親方は腕によりをかけて、客の顔をツーッと剃ると、あとから新しい髭がゾロゾロッ」というのが落ちである。落ちに来るまで高まってきた気持ちが「ぽんっ」とかわされる。寄席の帰りの電車の中でも思い出して笑えるのがこの落ちである。
(圓窓五百噺ダイジェスト「ぞろぞろ」 http://www.dab.hi-ho.ne.jp/ensou/furrok/dijest.html#dig3 )
また、「後生鰻」では「金を払って赤ん坊を引き取り『これ、赤ん坊や。こういう家に再び生まれてくるんじゃないぞ、わかったな。南無阿弥陀仏、なむあみだぶつ』てんで、前の川へドボーン!」もしかり。
(圓窓五百噺ダイジェスト「後生鰻」 http://www.dab.hi-ho.ne.jp/ensou/furrok/dijest2.html#dig37 )
これらは現代の知識だけでも「落ち」を感得することが可能であるが、「蔵前駕籠」の落ち「うむぅ・・・・もう済んだか」はどうであろうか?駕籠の中にいる褌一つの客を見たときの浪士の驚きと戸惑い、浪士はこんなことは予想もしていなかった。これを瞬間的にどう理解するか?そして気持ちが「うむぅ・・・・もう済んだか」に凝縮される。出来れば噺家と握手して、気持ちのつながりを伝えたいくらいの「落ち」であるが、やはり江戸時代の駕籠は中にいる客が外から見えないということを知っていたり、蔵前通りは今とぜんぜん違うのだということなどを知っていれば落ちに対する感動もずっと大きくなるものではなかろうか。
私のホームページは「江戸のなごりをページに残す」というのがテーマであるが、落語という材料をもとに江戸の名残を残すことは、江戸落語をもっと楽しむことに通じることと思っている。
駕籠と乗り物
駕籠は乗り物の一種で人が乗るところを箱型に造りその屋根に柄をつけたもの。乗用部分の前後に人が立ち、柄をかついでいくようになっている。担ぎ(かつぎ)手は通常2人だが、高貴なものの場合には4人で担ぐ場合もある。
主として江戸の庶民に用いられ「町駕籠」、「辻駕籠」といわれたものは、「山駕籠」の形態を基本とするが、前後左右に茣蓙(ござ)などの覆いをかけ、雨露をしのげるようになっている。(左の町駕籠の図は左右の茣蓙の覆いを屋根に跳ね上げている。人が乗ったときにはこれを降ろすと外から見えなくなる。)
より居住性、装飾性が高められ、側面に戸がつけられた身分の高いものが乗るものは「乗物」といわれる。
駕籠を担ぐことを業とするものは「駕籠舁(かごかき)」という。これに対し乗り物を担ぐ者は「六尺(ろくしゃく、陸尺とも書く)」とよばれた。駕籠舁は駕籠屋に詰めて客待ちをし、求めに応じて駕籠を出す。六尺は乗り物を所有する家の専属で、主人が出かけるときに担いでいく。
これらは江戸時代武家諸法度により身分、年齢等による細かい既定がなされた。辻駕籠についてはその数が制限されていた。
日本大百科全書 小学館
町駕籠と山駕籠
二十五、六の客はこの町駕籠に褌一つの姿で乗り込んだ。
蔵前通り
浅草下谷方角 江戸砂子挿絵
江戸時代「税」の多くを占めるものは「米」であり、米をもってお役人の給料が支払われていた。江戸に住む幕府お役人に支払われる米を貯蔵するところが「御蔵」(地図左下川沿い、櫛(くし)のようになっているところ)で、その蔵の前に米を金に替える札差等が店を開いていた、ここを蔵前という。そしてそこを南北(図では左から右)に通る道が「蔵前通り」といわれた。南(図左)に行けば神田川を「浅草橋」で渡り浅草見附を通り日本橋に通じる。北(図右)に行けば「蔵前通り」は二手に分かれ、直進する道を「水戸街道」、左にそれる道を「奥州街道」といった。
吉原は「奥州街道」に入ってすぐ左に入る。
吉原に行くもう一つの道は神田川にかかる浅草橋の上流、神田須田町の筋違見附を通り、上野から行く路(図上方を通る道、現中央通り)であるが、日本橋・神田からは殆どの人が「蔵前通り」を通ったのだろう。
落語「蔵前駕籠」に出てくるのが左の図にあるあたりである。日本橋・神田の住人は左下の浅草見附から浅草橋を渡り蔵前に入る。橋を渡ってすぐの町が「浅草茅町」で、ここに駕籠屋の「江戸勘」があった。そしてこのあたりは土人形、羽子板、絵馬玩具などの商店街であり、特に雛人形屋が多く、池田屋、吉野屋、能登屋、大阪屋、加賀屋、美濃屋などの名前が残っている。現在でも吉徳とか久月とかの人形屋があるが、その流れであろう。
その先に行くと道幅が広くなる。これは「広小路」といわれる火除け地でもある。この広くなった最初のところに「牛頭天王社」がある。その先、鳥越川を渡る橋が「鳥越橋」であり、「落語特選」の原文ではここで浪士に襲われることになる。ただ、もう一つ「榧寺の前」という噺もあり、こちらの方が浅草橋からの距離も長く、また寺も現存するのでこちらを採用している。「鳥越橋」を過ぎると東側は「蔵前」で札差、米問屋の並ぶところ、西側は商店街であった。蔵前の切れたところを右に行くと「御厩の渡」で隅田川を渡ることが出来る。その先に「榧寺」があり、ここで襲われたのである。
榧寺
江戸東京散歩 人文社 より
牛頭天王 江戸名所図会
天王社と蔵前通り。左側十王堂の前から道が広くなっている。中央の町屋は門前町。蔵前通りのこちら側には屋台の店が見られる。
榧寺 江戸名所図会
隅田川の方から榧寺を眺めた図。榧寺の手前までが広小路。右下に御厩(うまや)渡しがあり、ここまでが「蔵前」である。広小路を走ってきた駕籠がここで浪士に襲われた。
なお、ここに町屋の典型が見られる。榧寺の手前にある四角な建物群は「浅草正覚寺門前」と名づけられた門前「町屋」で、外側を囲んでいるのが「表店」、その中に多くの建物がつまっている。これが「横町」であり、ここでは「榧寺横町」といわれていた。
日本歴史地名大系 東京都の地名
ところで、上の二つの図には道路を挟んで「柵」が見られる。そしてその上の切り絵図にも蔵前通りにはいくつかの「柵」らしきものが画いてあるが、これはどのようなものであろうか?現在不明である。
さて、落語の「落ち」は突如終わる。そして余韻を残す。そこでその後どうなるのかと考えるのも落語の楽しみの一つである。この客はどうしたのであろうか?何もとられずに終わった。浪士が榧寺の中へ引き上げたとはいえ、まだ見張りもいるのであろう。駕籠の座布団の下から着物を取り出し、それを抱えて吉原に行くのであろうか。それでは浪士にまた見つかりそうだし、それとも、、、、、。
現在の蔵前の風景
江戸時代蔵前通りと呼ばれていた道は今江戸通りといわれている。「蔵前駕籠」の時を今に残している場所を紹介したい。
蔵前駕籠は「浅草見附」から出発する。この見附は浅草橋の日本橋側にあったので、それらしい場所に名残が無いかと探した。残念ながら何も発見できなかったが、見附の側にあった「郡代屋敷」の跡を示す表示を見つけた。そこで、これを蔵前への出発としたい。
郡代屋敷跡
見附を出ると神田川を浅草橋で渡る。JR浅草橋駅周辺は結構にぎわっているが、橋自体は非常に簡素なものである。この橋の近辺は屋形船が連なり、昔の「柳橋の船宿」を想像させる。
浅草橋
神田川に浮かぶ屋形船
蔵前通り、江戸時代の茅町付近
浅草橋を渡り最初の町屋が「茅町」で、駕籠屋「江戸勘」が店を開いていたところである。
かって蔵前があったところ
かって蔵前、御蔵があったところ。現在名残を示すものは町の名前だけで、交差点に「蔵前」と言う表示が見つけられる。
浅草御蔵跡 碑
「浅草御蔵跡」の石碑と「首尾松」の石碑は「蔵前橋」西たもとに設置されていた。北側に「蔵跡」が、南側に「松」がある。
浅草御蔵の四番堀と五番堀の間に「首尾の松」というものが植えられていた。吉原からの帰りに隅田川を船で下る際、この松のところに船を止めて吉原での首尾を話し合ったのでこの名が付いたものという。
蔵前橋の西たもと南側に移植し、現在7代目になっている。
首尾の松 碑
蔵前通りに山門があった榧寺も現在は門が北に、春日通に向いている。
榧寺(かやでら)
池中山正覚寺、増上寺末。開山観智国師。当寺を榧寺というは、むかし境内に大木の榧があり、よって俗に呼びきたる。いつの頃かある時、和尚囲碁打ちに、山伏一人忽然と来たりてこの榧を乞う。その心に任せたり。よく朝この木無し。ほど過ぎて遠州秋葉山にこの木あることを知るとぞ語り伝う。
江戸砂子
榧寺
現在は榧寺が正式名
榧寺にある狂歌師の墓が都旧跡
2003/04
首尾の松の鉤船 北斎