◆現在の名称:常陸国分寺

◆所在地  :茨城県石岡市府中
◆宗派    :新義真言宗
◆交通    :JR常磐線石岡駅 歩


JR常磐線石岡駅から北北西に歩いて約10分程のところに「常陸国分寺」がある。石岡市では大きな交差点毎に案内板があり、それをたどればいい。

現在の本堂は国分寺跡に明治43年に筑波から移設したもの。聖武天皇の命により建設された国分寺は戦国時代に府中城が佐竹氏に攻められその時消失した。元禄時代になり本堂が再建されたが、これも明治41年の大火で失われた。その後建てられたものが現在の「常陸国分寺」である。

ここの墓地には都々一節の創始者として知られている「都々一坊扇歌」が埋葬されており、扇歌をまつる「扇歌堂」がある。扇歌は江戸で人気を得たが、政治を批判する都々一を歌ったため追放され、姉の嫁ぎ先の石岡市に身を寄せ、51歳でなくなったという。

扇歌の代表作 
     ○ 汐時やいつかと千鳥に聞けば わたしゃ立つ鳥波に聞け 
     ○ 菊は栄えて葵は枯れる 西に轡の音がする

1989/9

関連リンク
       石岡市
              
常陸国分寺、国分尼寺を紹介
          
http://www.net-ibaraki.ne.jp/ishioka/
その後の国分寺
私が住んでいた34.5年前とは石岡はずいぶん変わった。駅舎が変わり、国府跡に建つ小学校も立派になっている。木造主体の町並みが耐久建築の町並みに変わった。
勿論私の住んだ家、2軒長屋の6畳2間と風呂と台所だけの家が立派な家に変わっている。
見たことも無い大きな蛾やムカデが家の中に入って来て、逃げ廻ったものであるが、今はそのようなことも無いのであろう。(住所は城中山(じょうちゅうやま)といい、府中城跡、国衙跡であった。)

常陸国分寺跡もいくらか近代的になった。
当時はたしか「跡」を木杭で囲っていたのではなかったろうか。赤い色があちこちに見られたように思い出される。
綺麗にはなっているが「遺跡整備」のステップとしては当時と変わらない。

「国指定特別史跡常陸国分寺跡」の前に立つとそこは「中門跡」である。基壇を石畳とし柵で囲っている。
中門跡から正面現国分寺薬師堂に進むと途中左側には非常に大きな「塔心礎」が発掘され飾られている。
更に進み薬師堂の裏手に「金堂跡」が芝生として囲われ、「跡」を示す石碑と、発掘された礎石が復元配置されている。
そしてその奥、道路一つはなれた間隔で「講堂跡」が金堂同様礎石を配置した芝生として囲われ保存されている。
「国分寺跡」の全域は確認されているようであるが付近は民家であり、復元保存されているのは現国分寺境内のみという状態である。
現国分寺薬師堂が金堂跡を避けて建てられていたので中心部分が現在でも見られるという、「跡ファン」にとっては幸いである。
(2001/05)
中門跡
塔心礎
金堂跡
講堂跡