◆現在の名称:飛騨国分寺

◆所在地  :岐阜県高山市総和町
◆宗派    :高野山真言宗
交通    :JR高山線たかやま駅 歩

JR高山駅前を左に進むと「国分寺通り」、「国分寺商店街」に出る。その商店街の信号2つ目に「飛騨国分寺」があり、駅から徒歩およそ5分である。

現在の「飛騨国分寺」は天平の国分寺跡に建設されている。中でも、「七重塔の跡」に文政4年に建設された「三重塔」は全国の国分寺の中でも塔建築としてはここだけという。現「本堂」は天平の「金堂跡」に建てられている。
本尊の「薬師如来御像」は天平時代のもの、また「聖観世音菩薩」は「国分尼寺」の本尊である。いずれも国の重要文化財となっている。本堂の前にある銀杏は「乳イチョウ」とよばれ、樹齢1200年、天然記念物である。
「飛騨国分寺」は「中部49薬師」の41番目の「霊場」になっており最近では訪ねる人も多い。四国の霊場と同じく「弘法大師」をまつる寺(高野山真言宗)である。

国分寺通りを先に行くと「宮川」にぶつかる。この橋のたもとに小さな屋台のような売店があるが、これが「みたらしだんご」を売る店として高山で名高い。また、橋を渡ったところの川沿いが有名な「高山の朝市」である。

高山市には8軒の作り酒屋があり、中でも「鬼ごろし」は名前を知られている。他に、「味噌」、「醤油」、「飛騨牛」(おすすめ)などが旨いものである。
「ほう葉味噌」(ほうの木の葉の上で味噌を焼いて食べる)も香りがよく旨いものであるが、なんせ味噌だけに強烈に塩辛い。ホンの少しご飯に付けてご飯が大量に食べられるのが取柄かもしれない。

飛騨高山、白川郷などは旅の気分を満喫できるところと思う。

塔礎石を展示

1989/09
現国分寺
2003年7月飛騨国分寺を再訪した。「古代国分寺跡を訪ねて」というテーマからこのホームページに「現国分寺」についての記載は殆ど無いが、「現飛騨国分寺」は古代国分寺の跡に建ち、室町時代の建造物で、文化財も多いことから、「古代国分寺跡の補足」と「現国分寺の記録」を記載する。
飛騨国分寺跡
昭和29年(1954)国分寺境内で本堂の基壇の一部が発掘調査され、現本堂の西4Mで礎石群が検出された。軸線はやや西に振れ、桁行7間、梁間4間の建物と推定されている。これが創建国分寺とは断定できないが、奈良時代の瓦類が出土していることから、この時期に寺が造営されていたことは確実である。礎石に火を受けた痕跡が確認されている。飛騨国分寺塔跡として国の史跡に指定された。
日本歴史地名大系  岐阜県の地名

従って現在姿の見える「古代国分寺」の痕跡は展示している「塔礎石」だけである。
国分寺
安川通から西に続く国分寺通の北側にある。高野山真言宗。医王山と号し、本尊薬師如来。飛騨国分寺の寺基を継ぐとされ、昭和29年(1954)本堂の解体修理にともない基壇の一部や礎石が検出された。天正13年(1585)金森長近が松倉城の三木氏を攻撃した際兵火を被ったと伝え、天正年中に金森氏が千光寺(現大野郡丹生川村)の玄海を中興として再興したと言う。本堂(薬師堂)は室町時代の建築で国指定重要文化財。本尊の木造薬師如来坐像は平安時代の作で、もとは飛騨国分尼寺の本尊であったと伝える平安時代の木造観音菩薩立像とともに国指定重要文化財。平安時代の木造阿弥陀如来坐像、室町時代の木造不動明王立像は県指定重要文化財。国指定重要文化財の太刀は小烏丸の太刀と伝え、高原諏訪城(現吉城郡神岡町)の江馬氏の家宝であったという。
三重塔は飛騨地方唯一のもので、文政4年(1821)の再建。文化12年(1815)の宝塔勧進諸国出帳(平田家蔵)が残る。このほか治承3年(1179)6月21日の奥書を持つ大般若経、康正3年(1457)8月日の年紀のある神鏡、文明元年(1469)銘の鰐口、永正11年(1514)10月銘の梵鐘、永禄5年(1562)10月18日銘の金剛盤などを所蔵。国の天然記念物に指定される大イチョウがある。
日本歴史地名大系
岐阜県の地名
前回訪問が14年前で、その時と大いに異なるのが高速道路の状況である。前回は1988年発行の道路地図を持っていった。今回もそれを持っていたのだが東海北陸自動車道ってのがずっと先まで延びており、その地図では役に立たなかった。各務原から高速に乗り荘川村辺りのインターで降り高山市に入ったようである。高山市は岐阜に随分近づいたものである。
夜高山に着き宿泊、次の日雨上がりの早朝国分寺を訪ねた。国分寺も町並みも朝市も昔と変わっていない。
朝市では特に好物の胡瓜の粕漬けを大量に買い込んだ。
山門
標柱
本堂
三重塔
観音堂
天然記念物のイチョウ
国分寺の位置