小樽という地名

北海道の地名の多くはアイヌ語に由来しています。小樽も例外ではなく小樽の語源となった「オタルナイ」はアイヌ語で【砂の中を流れる川】という意味があります。このオタルナイは現在の札幌市の西区から銭函の砂浜を大きく蛇行しながら石狩湾へと流れていた川が起源です。この川の河口に松前藩が漁場を開きこれをオタルナイ場所としたのが始まりです。しかし船の出入りする港としては機能的ではない為、現在の小樽市内河口にオタルナイ場所が移され名前はそのまま受け継がれました。以後その名はオタルナイから(オタナイ)(尾樽内)(小足内)(舗足内)と変化し小樽となったのは維新政府が蝦夷地に開拓使を置いて蝦夷地を北海道と改めた時からです。後に小樽に港湾や鉄道が整備される事になったのも明治政府が北海道ひいては小樽に国の命運を掛けていたからでしょう。
小樽銭函海岸 星置川と手稲山


明治時代の小樽市街全景


これは明治時代(M40年代)の小樽市街の画像です。明治政府は膨大な国費を投入し開拓を進めていたことが画像から見れます。小樽港内には数多くの大型船や北前舟が停泊しているのが確認でき日本有数の貿易港だったことがうかがえます。


歴史的建築にみる小樽の歴史

ノスタルジックな観光地小樽は重厚な歴史建築とその時代の生活風土がいまに生き続けています。しかし小樽をもっと味わうためには、まなざしの解像度をさらに上げなければいけません。小樽はこの国の近代化のための壮大な実験室であったのです。富国強兵のためには北の守りと天然資源が不可欠でした。そのためにかってこのまちで内外の先端技術や膨大な物資が集散しました。
旧日本郵船株式会社小樽支店 旧日本郵船株式会社小樽支店の1階営業室。上質なワニスをたっぷり塗ったカウンターや机、重厚な格天井が目を引きます。

明治の初め北海道の開拓のために10年間で1000万円の膨大な国費が投下されました。年により変動はあったようですが多い年で400万円以上。国の予算が年に4000万円ほどの時代ですから、国の予算の1割にもおよぶ資金が投入され続けたことになります。こうして明治政府は道路、鉄道、郵便、通信網、そして教育機関等を整備し開拓移民確保に力を注ぎました。


小樽の発展を決定づけたのは、いち早い鉄道の開設。そして日露戦争の勝利によって南樺太(現サハリン)が日本の領土となったこともあり樺太の物資が小樽港に集められ本州方面へ積み出される。そこで一時保管のための石造り倉庫が盛んに建てられました。明治39年には日銀の小樽出張所が支店に昇格。
旧日本銀行小樽支店


小樽人の冒険

この画像は赤岩沖からオタモイ海岸を撮ったものです。この切り立った断崖と海がせめぎ合うオタモイ海岸に、かってこの地の息をのむ岩棚に空前の料亭がそびえっていました。その名も「龍宮閣」です。

上棟式を迎えた龍宮閣
(小樽市総合博物館所蔵)
現在の風景(跡地)

施主は愛知県出身で寿司店などを小樽にかまえていました。オタモイに、全く新しい観光名所を作ろうと決意し、昭和10年、3年がかりで完成した遊園地には、800人収容の大演芸場、児童遊園地、大衆食堂などがあり、断崖に刻んだ山道を進み、唐門をくぐると、まるで海底の龍宮城が岩棚にうちあげられたような「龍宮閣」がありました。


龍宮閣を建てるための建築資材の運搬は、断崖絶壁の陸路では難しかったので海から資材を運んだそうです、京都の清水寺をほうふつとさせる建物ですね。


断崖の上から見た龍宮閣
戦時体制が強くなった昭和17年ころ、華美な風俗がしだいに自粛を余儀なくされてしまう。戦後の激動を経たその10年後、昭和27年に龍宮閣は漏電によって炎に包まれました。その日は風が強く、わずか1時間あまりで灰になってしまいました。いま龍宮閣の跡地は、礎石部分だけが残っていて、今もその場に立つと超絶のロケーションだったことがわかります。

龍宮閣に向かう、着物姿の女性たち。反対方向から見た戦前の絵はがき
(小樽市総合博物館所蔵)
現在の風景(跡地)


小樽商人の使命感

明治44年に海運や漁業などで財をなした小樽の一商人が東宮殿下(後の大正天皇)の行啓のために「御旅館」を建築してこれを小樽市へ寄付しています。今日の小樽市公会堂です。
堂々たる玄関の小樽公会堂
玄関の梁にある菊の紋が目を引きます。


奥行きの広がりを美しく深める柱の配置。くつろぎと緊張感が不思議に両立した内部のたたずまいです。

新潟県佐渡島出身で、荒物雑貨商、縄、むしろの卸問屋、倉庫問屋として財をなした小樽商人が自邸に建てた正統な能舞台。昭和29年に小樽市に寄贈され昭和35年の公会堂の移転に伴い、公会堂の裏手に移築されました
能舞台


歴史の手宮線

北海道の鉄道発祥の地、手宮(小樽)〜札幌間は日本でも3番目に敷かれたことでもわかるように北海道ひいては日本の近代化を支えた中心地でした。明治13年に敷かれたレールは産炭地からの石炭の輸送が目的で明治15年は石炭の輸送量が5トンでしたが明治35年には91万トンにもなりました。それにともない手宮駅の規模も次々と拡大されていきました。手宮駅からは海へ向かって20本以上もの引込み線のレールがあり、明治44年に完成した手宮高架桟橋へとつながり、ここから船に積み込まれていきました。時代の変遷の中で手宮高架桟橋は、役目を終え取り壊されたのが昭和36年。昭和60年には105年の歴史を刻んだ手宮駅も閉鎖、廃線となりました。


当時の手宮高架桟橋。石炭の積み込みを機械化して能率を高めました。
(小樽市総合博物館所蔵)
昭和48年頃に手宮駅構内で撮影したD51蒸気機関車。(通称デゴイチ) 私が中学生の頃(昭和45年前後)手宮高架桟橋はすでに取り壊されていましたが、海岸には桟橋の骨組みが少し残っていました。その骨組みを伝って友達と釣りえさに使うエラコ(北海道や東北では万能えさとして有名)を、よく獲りに行ったことを思い出します。

大正時代の小樽市街全景


これは小樽運河がまだ完成していない大正初期の小樽市街の画像です。パノラマの自動スクロールなので確認しにくいと思いますが、向って左上には石炭を効率的に船へ積み込むために建造された手宮高架桟橋(M44)が見えます。そこから右側へ伸びているのが、いまも現存している日本で始めて造られたコンクリート製の小樽港北防波堤(M41)です。日本海ですから波が荒れると、沖合に停泊してい る大型船に近づいて積み下ろしをすることが大変難しいということで造られました。2001年に北海道遺産に選定されています。小樽運河も積み下ろされた荷を効率的に倉庫へ運ぶために造られました。画像の中央手前の小樽停車場(旧駅)から緩やかな大通りを下ると船入間の左角に小樽倉庫(M23)が見えます。その他、大家倉庫(M24)や日本銀行小樽支店(M45)共成【オルゴール堂】(M45)などが確認できます。小樽港内には北防波堤に守られるように艀や大型船が停泊していて当時の国際貿易港としての繁栄が、この画像から偲ばれますね。


小樽港のミステリー

この辺りから沖に向けて手宮高架桟橋が伸びていました。わたしが中学生の頃、桟橋跡地と北運河のほぼ中間にある手宮の岸壁で魚のかれいが入れ食いという情報が耳に入りました。さっそく友達を誘い竿を片手に魚入れを肩にかけ岸壁にいったところ釣り人が岸壁からエサを付けた仕掛けを海に垂らし入れるだけで、なんと大きなかれい(黒がしら)を釣っているではありませんか!かれい釣りは小樽ではめずらしくはなく防波堤の上での投げ釣りや船釣りが一般的です。そして釣れるかれいも真かれいや砂かれいで黒がしらはめったに釣れません。なのに岸壁からエサを垂らし入れるだけでそれも黒がしらがたくさん!私たちも夕方までに大きいもので40センチくらいの黒がしらが魚入れに入りきれないくらいに釣りました。こんなことは小樽に生まれ育って最初で最後の経験でした。自然というものは時にして不可思議な経験をさせてくれますね。

この小樽見聞録の作成にあたって一部ろばのほん発行の「小樽楽都」を参考にさせていただきました。





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