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| 2004.10~12 | ||||||||||||||||
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一心寺寄席新会場に移転
よりフレンドリーな寄席に 一心寺寄席は、十一月公演から会場を一心寺シアター倶楽から一心寺南会所に移転した。南会所は、倶楽のすぐ南側で、一心寺直営のイベントスペース。客席は小さくなったが、階段もなく、フラットな椅子席で、演者との距離もより身近になり、今までより数段親密な寄席の雰囲気になった。また勤めのあるファンの声に配慮して、開催日も土、日、月の三日間になった。 移転第一回は、十月三十日から十一月一日までの三日間開催され、連日ほぼ満席の盛況だった。出演は、京山小円嬢、天中軒月子、京山倖若、真山広若の四人。今までのような会場の時間制限もなくなり、語り手もゆったりたっぷり口演でき、来場者の声も好評だった。 苦戦のゑびす座は工夫こらし ファンサービスで懸命の挽回 会場が、入場有料のテーマパーク風ビルの中にあるなど、ファンの足が向かいにくく、七月の開設以来苦戦を強いられているゑびす座の道頓堀浪花節亭は、十月から開催日を二日に、また出演者を三人に減らし、その代わり浪曲の後でそれぞれ出演者が工夫を凝らした「お楽しみコーナー」をたっぷり設け、しかも入場料を半額の千円に引き下げるなど、必死の挽回策が講じられている。十一月公演では、京山倖若、松浦四郎若、幸いってんが出演。それぞれ浪曲を口演した後、お楽しみコーナーでは、四郎若が、節真似を披露したり観客を舞台に上げてミニ浪曲教室を実施、幸いってんは隠し芸で、歌や節真似果ては津軽三味線の曲弾きを披露、最後は京山倖若の歌謡ショーと盛りだくさん。熱心に聞いてくれるファンに何とかサービスしようと必死に勤めていた。 春野百合子絶望から再奮起 初月必死の伴奏に希望の灯 合三味大林静子の急死で、その後の仕事を全てキャンセルしていた春野百合子が、哀しみを押し殺して再び立ち上がった。大林の死後二度と浪曲はやれないと引退も考えていた百合子は、関係者や周囲の説得に応えるとともに、「今やめて私の残りの人生に何があるというの?」自ら自問自答し、「浪曲しかない」と再度舞台に立つ気持ちを芽生えさせた。その気持ちをはからずもバックアップしたのが、新しい”合三味線”となった一風亭初月だった。大林との一手一手に至るまで緻密な約束事で構成された百合子浪曲だけに、ベテラン曲師にそれを要求するような失礼なことは出来ないと考えた百合子が、唯一望みを抱いたのが、一番の若手ながらめきめき腕を上げ、今や引く手数多になってきた初月だった。何はともあれ初月に電話したところ、「勉強させて下さい」と二つ返事の答えが返ってきた。その心意気に感激した百合子は、「なるかならぬかは分からないが、どうせ一度は止めようと決めたのだから、この若い子に賭けてみよう」と決意。早速差し向いの稽古を開始した。浪曲への最後の恩返しのつもりで、節の色々から、陰の手まで、百合子ぶしの三味線の色々を伝えることになればという百合子の想いに、初月は必死に応えた。稽古で上手くいくと、その健気さに語りながら百合子が思わず涙にむせぶこともあったという。若い初月の浪曲への情熱が、大林死去の痛手で沈んでいた百合子の気持ちを立ち直らせエネルギーを与える結果にもなった。そして、十一月十八、十九の両日、大和郡山老人センターの訪問公演で、初めてこのコンビが舞台に立つことになった。 初日は百合子十八番の「樽屋おせん」、観客は元より百合子にとっても満点の出来だった。百合子はその夜、弟子の「向こう見ず」を何より案じて自分の舞台でも落ち着かなかったという師匠の藤信初子に電話した。「素晴らしい弟子を育てて下さって有難う。今日は百点満点でした。嬉しくて嬉しくて、私も希望を貰いました」。 翌日は「女殺し油地獄」。途中咳き込んだ百合子に「私が変だったからですか?」と案じる初月に「そんなことないよ。上がる前に捨て声を出すのを忘れたからよ。くしゃみが出なかっただけましよ」と慰める百合子。それでも、「今日はあそことあそこが、ぐちゃぐちゃになったから、まあ八十点や。また稽古頑張ろうね」とダメを出すのも忘れなかった。そしてこの日、「このテープも聴いておいてね」と新たに六席のネタを渡された。手見せは合格。ほほ笑ましい新コンビの誕生を垣間見た。 一般公演での最初の披露は、新春の一心寺寄席二日目九日の出番になる。 近松の現代演劇化公演 |
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