上方浪曲ニュース最新号
2001.5
二代目京山幸枝さん死去
在位50年・90歳の大往生

 関西浪界の最長老二代目京山幸枝さんが、五月十三日午後四時五分、心筋梗塞のため大阪市生野区の育和会記念病院で亡くなった。九十歳だった。四月七日の築港高野山の協会桜祭りに元気な姿を見せていただけに、突然の訃報に関係者は驚きを隠せなかった。
 幸枝(本名・細川茂男)さんは、明治四十四年三月十四日兵庫県三原郡南淡町沼島に生まれ、昭和九年九月一日、初代京山幸枝に入門、京山幸水を名乗って、十月、徳島県小松島市南海座で「山内一豊の妻」を読んで初舞台を踏んだ。
昭和十二年幸枝丸に改名、幸枝会青年一行の座長として全国を巡業していたが、その温厚で誠実な人柄を先代に見込まれ、戦時中に節匠の娘と結婚し、後継者の地位を約束された。二十五年、岐阜の巡業先で初代幸枝が急逝し、昭和二十六年一月、大阪市の中之島公会堂にて師匠の追善をかねて、二代目京山幸枝の襲名を披露。
 二代目を襲名以後、劇場の浪曲大会などでは、お家芸の「会津小鉄」「破れ太鼓」などを語り、幸枝のイメージを守ってきたが、一方では、二代目独自の芸風として、“幸枝ぶしによるケレン物”を語り、次第にそちらに重きを置くようになった。それは、初代の一座でモタレや尻三を読むことが多かった幸枝丸時代に、好きだった晴海や初代駒蔵のネタを勉強してきたことと、慰安会などの余興向きのネタが必要だったためだ。
 幸枝は、「襲名間もなく、初代のネタばかりやっていたら、全く余興の声かかからなくなってしまった。そこで、二代目は二代目の芸風を打ち出さねばダメなんだと悟って、明朗浪曲を私のカラーにした。そのお蔭で、師匠の息子三人を関西大学に入れ一人前に育てることができた。二代目、家族を支えてくれた朗らか浪曲は私の恩人だ」と語っていた。
 人柄そのままのおおらかな、愉決な幸技の浪曲は、彼一代の芸風として、浪曲大会の演目の中で光っていた。
 昭和四十六年 大阪府教育功労章受章、昭和五十年一月から五十一年十二月まで二期三年にわたって浪曲親友協会会長を務めた。五十五年芸団協功労賞、五十八年日本赤十字社功労賞を受賞、六十一年 勲五等双光旭日章を受章した。
 勲章受章後は舞台から遠ざかったが、元気に浪曲協会の催しには姿を見せ、浪曲界の最高齢者として、後輩たちの良き相談相手になっていた。またこれまで自分が演じてきた数多くのネタを台本に書き留めて残し、後輩たちに与えてきた功績も大きい。
 葬儀告別式は、十五日、真山一郎会長が葬儀委員長を務め、自宅近くのうるし堤会館で営まれ、幸枝さんの「会津小鉄」のテープが流れる中、故人の人柄を偲んで多くの参列者が焼香した。
若手三人で立体「瞼の母」
新世紀浪花節春の陣大盛況


 四月二十二日、大阪上本町の近鉄劇場小劇場で「浪花節春の陣」と題して浪曲大会が開かれ、大入り満員の盛況だった。
 呼び物は、京山幸枝丸、京山幸栄、幸いってんの三人による立体掛け合い浪曲「瞼の母」。忠太郎に幸枝丸、おはまに幸栄、妹お登世にいってんが扮し、おなじみの瞼の母を歌と浪曲でつづった。なかでも、お登世に扮して女装したいってんには、客席から大衆演劇さながらの黄色い声援が飛んでいた。
 後半は、真山広若、京山福太郎、三原佐知子がたっぷりと浪曲を語って、引き締め、後歌謡ショウでにぎやかに幕を下ろした。

 熱烈なファン二百名が集う
 三原佐知子芸術奨励賞祝賀会

 大阪府芸術奨励賞を受けた三原佐知子の祝賀会が、五月十三日大阪ミナミのミュンヘン南大使館で開催された。大阪後援会主催で行われた大宴会場あふれんばかりの二百名が参加し、佐知子の受賞を祝った。
 三原佐知子は、京都、大阪に、それぞれ熱烈Fなファンの後援会を持ち、毎年集いを開催しているが、今年は、この春の大阪府舞台芸術奨励賞受賞を祝う祝賀会として開催したもの。
 冒頭、受賞対象作品となった「母恋あいや節」を熱演し、何度も聞いているに違いない出席者が、またも涙をぬぐう光景が見られた。
 三原は、「浪曲になって五十年、いろいろなことにチャレンジし、賞にも挑戦しましたが、報われず悔しい思いをしたこともありました。それがこの度は、まったく思いもかけず、こんな名誉ある賞を頂けることになり、お客様に喜んでいただけることだけを思って口演した無欲の尊さをかみしめました。これも皆さんのご声援のたまものです。これからも一人でも多くの方々に浪曲ファンになっていただけるよう一生懸命がんばります」と感激を語った。
 後半は、芦川淳平が三原佐知子の芸と人を語り、松浦四郎若、真山広若がゲストとして歌を披露、三原の歌謡ショーで締めくくった。

 岡本貞子に知事表彰

 憲法記念日に各界の功労者に贈られる大阪府知事表彰の文化芸術部門表彰を、浪曲親友協会から曲師の岡本貞子が受けた。
 岡本貞子は、大阪府八尾市の出身、昭和二十三年、伯母にあたる岡本梅嬢に入門、貞子を名乗って徳島県貞光長で初舞台を踏んだ。二十六年、吉田奈良英、松浦有岐子らの手ほどきを受け、曲師に転向。三十七年から、京山幸枝栄らとソフトショウの結成に参加音楽ショウに転向した。五十三年曲師に復帰し、京山幸枝栄、京山福太郎の合三味を勤めつつ、若手からベテランまで多くの浪曲師の伴奏を務めている。


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