上方浪曲ニュース最新号
2001.1
  大らかな芸風・風格の舞台
 芙蓉軒麗花さんを悼む


 

戦前派女流浪曲最後の大看板芙蓉軒麗花(本名・明石百代)さんが、平成十一年十一月二十五日、八十七歳で亡くなっていたことがこのほどわかった。これは遺族の意思で公表しなかったもので、和歌山市加太の長男方で亡くなったという。御夫君明石寿恵吉=戸籍名・久幸さん(京山小吾一)も平成十二年七月十一日後を追うように亡くなった(九十二歳)とのこと。
 麗花さんは、大正元年北海道網走市で生まれ、大和式部、広澤若菊を姉に持ち、大正十二年、広澤香菊を名乗ってデビューした。昭和十五年、新興演芸部に参加し、この時松竹白井会長から芙蓉軒麗花と名づけられた。戦後は、門人たちに様々な楽器を弾かせて、歌謡浪曲や歌謡ショーを華やかに演じる芙蓉軒麗花一座で一枚看板を張りつづけた。なかでも昭和三十年の「浪曲炭鉱節」は「てけれっつのぱ」のはやし言葉で大流行し麗花の地位を不動のものにした。
 その浪曲は、こせこせしたところがみじんもなく、あくまでも大らかで、筒いっぱいに声を張り上げる豪快な芸風。ご本人は三尺ものが好きだといって得意としたが、晩年はまるで正反対の芸風の広沢瓢右衛門の「太閤記」や「藤田伝三郎」などを自家薬籠中のものとし、大看板の風格で魅力ある作品として演じ上げていた。
 鴻池新田の駅前で喫茶芙蓉を夫婦で経営していたころ筆者もよく訪ねたが、飾り気なくざっくばらんな人柄は、舞台そのままのおおらかさだった。
 店を畳んだ後は、和歌山の長男方、関東の長女宅で暮らしていたが、後輩たちの活躍にいつも心を寄せ、台本などを気さくに与えていた。

     保利神社で浪曲再興祈願祭

 大阪市住吉区長居東の保利神社(乾充宏神主)で、一月十六日浪曲再興祈願祭が行われた。
 これは、この神社の乾神主が無類の浪曲ファンで、浪曲の現状を憂いて八百万神に祈願をたてようと実施したもの。
 この日は一心寺寄席に出演中の親友協会真山一郎会長も駆け付け、乾氏の情熱こもる祝詞を頭を垂れて拝聴しつつ、浪曲再興の願いを込めて社殿に額づき、玉串を奉奠した。
 同神社には、二代目吉田奈良丸が大正五年に百円を寄進したことを示す石柱があり、昨年これを移転整備したのは既報のとおりだが、このほどこの遺徳をしのび、旧跡として長く後世に伝えるため説明の看板を設置することになった。八十年以上前の大和之丞師の功労が、時を越えて現代浪曲界に吉祥をもたらすことになれば、げにも有難きこと哉。
  京山宗若飛躍期して餅つき

 京山宗若は、年末二十九日、大阪市平野区瓜破の稽古場前でもちつきを行った。宗若の河内音頭の弟子ら八人と師匠幸枝栄が参加、十二臼の餅を突き上げた。宗若は「二十九日は二重苦と言うて嫌う向きもありますが、私は逆に二九(福)を呼び込んで、来年を飛躍の年にしたいと願いながら、杵を振りました」と、二十一世紀にかける決意を新たにしていた。

 曲師小池菊江さん逝く

 十二月三十日未明、曲師の小池菊江(本名・小池シズ)さんが亡くなった。八十一歳だった。小池さんは母、雲井式部に昭和六年入門、雲井菊江を名乗った。昭和八年曲師に転向し、戦後は、昭和三十五年から京山幸枝若の伴奏に加わり、藤信初子とともに息のあった二丁三味線の音締めを聞かせた。幸枝若亡き後は広澤駒蔵の合三味となったが、ここ数年体力に自信がなくなったと舞台を遠ざかっていた。

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