上方浪曲ニュース最新号
2000.12
 襲名五十周年の二代目幸枝
 卒寿迎え京山一門で祝賀会


 関西浪界の最長老二代目京山幸枝は、二十世紀最後の昨年、卒寿を迎え、あわせて襲名五十周年の記念すべき年となった。これを祝って十一月十七日、京山一門が大阪市港区の料亭清住に幸枝夫妻を招いて祝賀会を開いた。
 二代目幸枝は、明治四十四年三月十四日兵庫県南淡町沼島の生まれ。家業である漁師をしていたが、二十四歳の時西宮の戎市場で魚屋を開業。縁あって昭和九年九月一日初代幸枝に入門した。幸水を名乗り、十月徳島県小松島市で初舞台。昭和十二年幸枝丸を襲名した。長じて後の入門だったが、初代幸枝は幸枝丸の誠実な人柄を愛し、愛娘と結婚させた。昭和二十五年初代幸枝が岐阜県の巡業先で急逝するや、翌二十六年一月二代目幸枝を襲名した。二代目の重責をにないつつ、先代幸枝一家の生活をかけて、二代目幸枝は、わき目もふらず浪曲を語り続けてきた。一門の中から幸枝若という人気者もあらわれ、お家芸の「会津小鉄」全段を幸枝若につけて、自らは、ケレン味のある「慶安太平記」や「力士伝」「相馬大作」など幅広い外題を大らかに語ってファンを楽しませてきた。昭和四十六年大阪府社会教育功労賞を受賞、昭和五十年から一期二年間、親友協会会長を務めた。昭和六十一年勲五等双光旭日章を受章。以後、舞台からは遠ざかっているが、親友協会のご意見番として、協会の行事にはほとんど元気に参加し、後輩らに慕われている。
 祝賀会で、幸枝は「私は浪曲のおかげで、自分の生活はもとより、師匠の家族たちみんなの生活を支えることができた。その感謝の気持ちは言葉では言い表せない。九十歳までも元気で過ごすことができた私がその恩返しをするには、後輩のみんなに私を幸せにしてくれた浪花節のネタを送り伝えることが一番だと思って、自分が覚えているネタを全部台本に書いて協会に届けてある。やりたい者が自由にやってくれたらいい。ただ、「会津の小鉄」だけは、幸枝会の宝だ。全部で十七段書き残しているが、今日集まってくれた一門のみんなは、幸枝会である以上小鉄だけはやるやらぬは別に覚えておいて欲しい」とかたり、小鉄の全段を約一時間半にわたって解説した。
 参加した一門は、思いもかけぬ幸枝の気迫に襟を正して聞き入っていた。
(写真・前列左から二人目が二代目幸枝、その左側が夫人)

    公演ラッシュの師走浪界 文楽劇場満員札止め

 十二月の関西浪曲界は、久しぶりに公演が連日各地で続く賑わいぶりだった。
 皮切りとなった二日の国立文楽劇場「師走浪曲名人会」は、一郎、百合子、佐知子、小円嬢、福太郎、四郎若のベストメンバーがおのおの十八番を語り、「これが浪花節だ!」の副題がつく。この劇場での公演はじめての満員札止めとなり、各師力の入った熱演を聞かせた。
 三日は、奈良県王寺町での義士会。百合子、福太郎、四郎若、広若の出演。さらに、九日は貝塚市コスモスホールで「浪曲忠臣蔵」。一郎の「刃傷松の廊下」にはじまり、四郎若、小円嬢、玉川福太郎、京山福太郎、とつづき、百合子の「大高源吾」で大団円の充実したプログラム。義士伝の重みと深みを聞かせた。
 次いで十一日からは一心寺寄席。秋水、小円嬢、公子の女流一座に、幸枝丸が加わっての三日間。終演後踊りの余興を務め、元亀一杯の秋水は、三日目新ネタ「小金井小次郎」を聞かせ意欲をを見せた。
 これら興行の合間に、四・五日はNHK衛星浪曲特選の公開録画、十五日は朝日放送おはよう浪曲の公開録画とつづき、ファンには些か過密スケジュール。「ちょっと疲れたから、明日は休ませてもらいますわ」と贅沢な悲鳴も聞かれた。

 四代目吉田奈良丸死去

 四代目吉田奈良丸が、十一月末日に亡くなっていたことが協会への連絡でわかった。七十九歳だった。
 奈良丸は、奈良県磯城郡川西町の出身。昭和六年三代目奈良丸に入門し、茶良丸を名乗った。戦後三笠に改名。さらに昭和四十五年四代目奈良丸を襲名したが、四十九年福井県で口演中に脳溢血で倒れ、言語障害と右半身不随の後遺症が残った。必死のリハビリを続け、舞台に復帰したものの、完調には至らず、奈良丸の名跡の重みに苦しみ続けた不運な後半生だった。一門の一若も若くして世を去り、名家吉田家の看板が浪曲から消えて行くことに耐えかね、門人の若笠に五代目を譲って、自らは浪曲協会からもはなれてひっそりと療養生活を送っていた。

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