2000.12 | ||||||||||||||
卒寿迎え京山一門で祝賀会
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公演ラッシュの師走浪界 文楽劇場満員札止め 十二月の関西浪曲界は、久しぶりに公演が連日各地で続く賑わいぶりだった。 皮切りとなった二日の国立文楽劇場「師走浪曲名人会」は、一郎、百合子、佐知子、小円嬢、福太郎、四郎若のベストメンバーがおのおの十八番を語り、「これが浪花節だ!」の副題がつく。この劇場での公演はじめての満員札止めとなり、各師力の入った熱演を聞かせた。 三日は、奈良県王寺町での義士会。百合子、福太郎、四郎若、広若の出演。さらに、九日は貝塚市コスモスホールで「浪曲忠臣蔵」。一郎の「刃傷松の廊下」にはじまり、四郎若、小円嬢、玉川福太郎、京山福太郎、とつづき、百合子の「大高源吾」で大団円の充実したプログラム。義士伝の重みと深みを聞かせた。 次いで十一日からは一心寺寄席。秋水、小円嬢、公子の女流一座に、幸枝丸が加わっての三日間。終演後踊りの余興を務め、元亀一杯の秋水は、三日目新ネタ「小金井小次郎」を聞かせ意欲をを見せた。 これら興行の合間に、四・五日はNHK衛星浪曲特選の公開録画、十五日は朝日放送おはよう浪曲の公開録画とつづき、ファンには些か過密スケジュール。「ちょっと疲れたから、明日は休ませてもらいますわ」と贅沢な悲鳴も聞かれた。 |
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四代目吉田奈良丸死去 四代目吉田奈良丸が、十一月末日に亡くなっていたことが協会への連絡でわかった。七十九歳だった。 奈良丸は、奈良県磯城郡川西町の出身。昭和六年三代目奈良丸に入門し、茶良丸を名乗った。戦後三笠に改名。さらに昭和四十五年四代目奈良丸を襲名したが、四十九年福井県で口演中に脳溢血で倒れ、言語障害と右半身不随の後遺症が残った。必死のリハビリを続け、舞台に復帰したものの、完調には至らず、奈良丸の名跡の重みに苦しみ続けた不運な後半生だった。一門の一若も若くして世を去り、名家吉田家の看板が浪曲から消えて行くことに耐えかね、門人の若笠に五代目を譲って、自らは浪曲協会からもはなれてひっそりと療養生活を送っていた。 |
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