芦川淳平の浪曲関連評論集

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 春野百合子との48年のコンビにピリオド
 大林静子逝く 


 「ではまた近いうちに」。
 楽屋口のエレベータまで見送った筆者と交わした笑顔の挨拶が大林静子師との最後の別れだった。
 平成十六年九月二十八日、ゑびす座の道頓堀なにわ節亭九月公演で泉和子の伴奏を務め無事千秋楽を勤めあげ、帰宅後自室で横になっての大往生だったという。

 本名・大林静江、大正十三年七月二十四日、愛媛県越知郡魚島村に生まれ、昭和十四年一月、初代京山幸枝に入門。その年の秋、京山幸丸と名乗って神戸大正座で浪曲師としての初舞台を踏む。
 昭和十七年、大林静子と改名して曲師に転向、幸枝会の立弾き(前座からモタレまでを一人で弾くこと)を務めながら曲師の修業に励んだ。その甲斐あって昭和十九年から師匠幸枝の合三味線として、幸枝が昭和二十五年九月に急死するまでの七年間活躍した。
 幸枝の死は、曲師としての油が乗ってきた静子には大きなショックだったが、幼い子どもを養育するためにも、曲師を続けることを決心し、京山華千代の専属として迎えられた。他の流派の伴奏を務めることで、これまでとは違った芸風の三味線の技を修め、曲師としての活躍の幅を広げた。
 華千代のもとで三年間芸を磨き、その後富士月子の専属で三年、ケレン読みの名人二代目広沢駒蔵のもとに一年、大看板ばかりの専属としてその際だった技量を発揮した。
 その評判を見込んだのが、当時売り出しの女流大看板として全国を巡業していた二代目春野百合子だった。昭和三十一年、当時としては破格の月給で三カ月間の契約で迎えられた静子だったが、女流の中でも際だって難曲の多い春野節の伴奏には、大いに苦労し、一カ月目に辞めさせてくれと申し出るほどだった。百合子のたっての慰留でとにかく契約期間だけを務める事になったが、この間に曲師としての意地も芽生え、更に切磋琢磨を重ねた。年齢の近い百合子とは、姉妹のような親しさと共に、演者と曲師のよきライバル関係でお互いの技能を高めあった。また支配人でもあった百合子の夫が常に大林を立ててくれたこともあり、契約期間が終わってもそのままコンビを組んで百合子の舞台を支え続けた。
昭和31年春野百合子一座巡業の余興歌謡ショー。中央・百合子、右端・大林
 

昭和四十二年、一座での全国巡業にピリオドを打った後も、合三味線としてのコンビは継続し、次々に新しい作品を共に手がけてきた。百合子は昭和四十二年「樽屋おせん」で大阪府文化祭賞、四十四年「暗闇の丑松」で芸術祭優秀賞、平成五年「女殺し油地獄」「高田の馬場」で芸術選奨文部大臣賞、平成六年紫綬褒章と、次々に栄えある賞を受けたが、常々「大林とともに苦労を重ねて作り上げてきた成果である」と述べている。
 後継者の育成にも力を注ぎ、河井建国、岡室正俊、紀之本孝子といったプロ曲師を世に送り、現在も四名の門人を指導している。また百合子の門人たちの指導にも百合子と協力して当たり浪曲界の後継者養成に貢献した。
 これらの功績に対し、昭和六十年大阪府知事表彰、平成十一年芸団協芸能功労者表彰を受けている。また平成四年から社団法人浪曲親友協会の理事をつとめている(現職)。
 長男の家族四人と平和な家庭を営みつつ、曲師不足の折から、近年は、百合子のみならず多くの浪曲師の伴奏を務めていたが、百合子の合三味線として四十八年の長きにわたってコンビを組み、その芸術をともに創りあげてきた功績は、姿は屏風の陰に隠れてはいても、誰知らぬ人なく燦然と輝いている。(芦川淳平)
(2004,月刊浪曲11月号)