芦川淳平の浪曲関連評論集

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出会い・発見・チャレンジ

三原佐知子の浪曲行路に幸あれ



 ■オリジナリティー確立への三つのキーワード

 浪曲は、語り手の個性的な芸風、すなわちオリジナリティーが何よりも尊ばれる芸能です。
 一つ一の脚本の歌詞には決まった曲はついていないのですから、それを演じる浪曲家が自分だけのメロディを作曲して(これを節付けと言います)、歌ってはじめて作品になるわけです。歌謡曲と違って浪曲には作曲家がいません。語り手がその役目を果たすのです。ですから自分だけのメロディを作曲できて初めて一人前の浪曲家と言えるのです。そしてその曲がオリジナリティに優れていて、作品全体がその語り手ならではの個性を持つ『芸風』にまで高められたとき、その浪曲師は一流の評価をえることが出来ます。更にそれが広く大衆に評価され、誰しもが声とメロディと作品を聞いて語り手をイメージできるほどの完成度を持ったとき、その浪曲師の名前を冠した〇〇節となって歴史に残ります。これが超一流です。全ての浪曲家の生涯の目標はここにあるわけです。
 さて浪曲家達は、どうやって自分だけの芸風作りに至るのでしょうか。そこには出会い・発見・チャレンジの三つのキーワードがあります。
 第一の「出会い」は、ある意味で運の問題です。どんな出会いのチャンスに恵まれるかはその人の人生そのもので、神のみぞ知るのです。まず入門、師匠との出会い。芸は勿論、処世術全般に至るまで、まずは我が師の模倣から始まります。そして先輩達との出会い、ライバルとの出会い、ここで師匠の芸に別の芸風を加えた模倣が始まります。オリジナルに一歩踏み出すわけです。さらに他の芸能や世の中全般のあれこれに出会う機会が訪れます。そこに第二のキーワード、新鮮な「発見」があります。この発見には、その魅力と時代の風を嗅ぎ取る嗅覚、即ちセンスが要求されます。そして、ここで見つけた魅力を自分の浪曲の世界に取り込んでゆく作業が必要です。自分の浪曲に未知の魅力を加味し、融合させて新しい自分だけの世界を作るのです。ここにはパイオニアとしての「チャレンジ」精神と努力が要求されます。
 ここまでの道のりを完成させることによって、自分だけの芸風を持った一流の浪曲家は生まれるのです。ここまで到達できたほんの一握りの人々が浪曲の歴史を作ってきたのです。
 たとえば誰しもが知る二代目広澤虎造、彼は若いころ大阪にやって来て広澤虎吉の門に入り、プロとしてのスタートを切りました。長い下積みの中で彼が見つけたのは、関東の人気者初代木村重松の関東節と三代目鼈甲斎虎丸の合の子節を組み合わせる手法です。今でこそ虎造節と言われますが、これはほとんど模倣で、単に二つの人気のあるフシをミックスしただけのものです。さらに彼は神田伯山の講談『清水次郎長伝』を浪曲に取り入れて語りました。これも模倣なのですが、三つの模倣を組み合わせ、持ち前の力みのないソフトな声で歌い上げることで、他の人がやっていない自分の世界を作り上げることに成功しました。しかも時代は昭和の初期、きな臭さが漂い先行きの不透明なこの時代に、人々はアウトロー達の明るく自由奔放な生き様に憧れを抱き、虎造の次郎長を大歓迎しました。時代の風も味方したのです。
 歴史に名を残した浪曲家は、皆このような出会いと発見とチャレンジの記録を持っています。
 私たちは、結果としてその歴史を辿り称賛をおくるのですが、現在もその途上にあって、人知れず、もがき苦しんでいる多くの浪曲家がいます。もう一歩のところまで来ている実力ある浪曲家、その一人が、今日御紹介する三原佐知子さんです。彼女のこれまでの半世紀近い浪曲人生を辿るとまさに出会いと発見の旅路でした。
 本日の公演は、芸能生活五十周年を迎える三原佐知子の浪曲芸確立の軌跡を辿り、その出会いと発見の成果と言える二つの記念すべき作品と新たなるチャレンジの結果である新作『恋と武士道』という、異なった三つのスタイルの浪曲を聴いていただき、『三原佐知子の浪曲の世界』を表現しようというものです。

 ■三原さんの軌跡を示す三つの作品

 三原さんは十五歳で近江五十鈴と名乗って浪曲家の道を歩みはじめました。旅回りの浪曲一座の花形となった純真無垢な少女にとって、観客の反応、先輩達の舞台、楽屋での見聞・・・、それら日々目にし、耳にするすべてが発見と吸収の糧であり、そこから自らの感性と修練によって自らの芸を築き上げてきました。中でも深く影響を受け、目標として敬愛してきたのが女流浪曲の女王冨士月子でした。後年三原さんは、月子師の代表作のひとつである檜垣十九三脚本の傑作『三味線やくざ』を月子門下の月の栄師より贈られ、持ちネタとして取り組むことになるのです。
 やがて実力が認められ小松千鶴と改め大阪に本拠を構え活動を始めた矢先、幼子二人を残して夫君が急死。女流芸人の宿命である芸能活動と育児の板挟みに加えて生活の負担が重くのし掛かったのです。この試練に昼は各地で浪曲公演、夜は民謡酒場の専属歌手として八面六臂の活躍をするのですが。ここで彼女は民謡の素朴な表現の中にある喜怒哀楽が人々の郷愁を誘い深い説得力を持つという魅力を発見するのです。この民謡との出会いと発見を通じて、民謡のこころと表現を浪曲の物語の中に取り入れることで、オリジナリティあふれる自らの芸風を築き上げることをめざしました。心機一転、名前も三原佐知子と改め、その記念に発表した『母恋いあいや節』が大ヒットをおさめ、三原さんののスタイルは確立しました。
 そして今、時代の移り変わりの中で浪曲をとりまく環境の厳しさに直面するとき、従来の浪曲ファン以外により広く現代の大衆に受け入れられる浪曲のスタイルはどうあるべきなのか、その模索の中で一の作品が生まれました。

 ■浪曲の魂に現代音楽の風を吹き込む

 私は、三原さんが浪曲師ならば誰でも一つは持っている「赤穂義士伝」がないということを聞いて、岡野金右衛門の絵図面取りという古くからあるネタを、ごくオーソドックスに三十分余りの浪曲に脚本化して、昨年贈りました。ところがその試演を聞いて、三原さんが浪曲のセオリー通りにきちっと表現しているにもかかわらず、わたしはどうも今一つ物足りないものを感じました。台本をあれこれ手直ししているうちに気付いたのは、この古い話をそのまま演じても三原さんの力強い声やフシを生き生きさせるには限界がある、現代の風を吹き込んで今に生きる命を作品に与えなければ、ということでした。
 といって、今日とは違った価値観に基づいた生き様を示している忠臣蔵の話を、近年のテレビドラマのように現代人の感覚にアレンジするという奇を衒った手法は取りたくありませんでした。そこで考えたのが、現代のテンポに合わせたスピードを出すために、分かりきったストーリーを思いきって半分ぐらいに刈り込んで、主題は歌謡詩に直し、会話のやり取りは極力省略し、叙事曲としての浪曲の元来の姿である完全な音楽詩に書き直しました。いわゆる歌謡浪曲なのですが、三波春夫さんが完成させたこの歌謡浪曲のスタイルは、昭和の歌謡音楽の技法を浪曲に取り入れたものです。それより半歩でも進めなければ新しいチャレンジの意味がありません。
 私は三原さんの不安をあえて説き伏せ、これまで歌謡浪曲に全く手を染めていないポピュラー畑の音楽家、西浦達雄さんにアレンジを依頼しました。三原さんが自分で節付けしたメロディーを基本に「演歌の歌謡浪曲ではなく、現代のポピュラー音楽の手法を可能な限り取り入れて、これまでより一歩前を行く音を作って下さい」とお願いしました。
 音作りの西浦さんは勿論、歌う三原さんも大変苦労され、異業種交流に付きものの双方の価値観の違いの激しいぶつかり合いを経て、ようやくでき上がったのが、本日ここに初演する『恋と武士道』です。
 どんな評価が頂けるのか、三原さん以上にハラハラしているのですが、よりスピーディーでより豊かな音楽性に裏づけられた浪曲作りを目指して、これまでの殻を一枚破った音楽としての浪曲を語ってみようという三原佐知子さんの新たなチャレンジに温かい御声援を送って頂ければ仕掛け人として望外の幸いです。

2002,10,12「三原佐知子浪曲の世界」プログラムより(芦川淳平)