芦川淳平の浪曲関連評論集

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 浅野内匠頭の辞世の歌「風誘う花よりもなほ我はまた春の名残を如何にとやせん」が、春の夕暮れに散り逝く桜の花びらの物悲しさを感じさせるのに対して、三波春夫の辞世の句は「逝く春に桜の花があれば佳し」だなんて、桜の花の満開の中で緞帳を下ろす、まさに三波春夫ショーのフィナーレのように華やかで豪華絢爛。イヨッ!最後のアテ節はバッチリきまったね。
 やっぱり、三波さんはいくつになっても「枯れる」ということに無縁の人だった。年齢ということを決して意識させない人だった。老成した「枯淡」の境地を見せることがないのみならず、といって青年ぶった「若さ」を強調するということでもない。キャリアとしての年輪と風格は感じさせても、年老いて行く人間のありのままの姿、いいかえれば若木が花を咲かせ、実を付け、やがて枯れた古木となってゆく、そういう人間的変容を決してさらけ出さず、いつも精いっぱいの花も実もあるスターの輝きを放ち続けた人だった。
 その浪曲道のみちのりを僕自身の解釈で辿ることで、不世出の巨人を送る一文に代えたい。

 ■独流ゆえの茨道

 浪曲時代の三波春夫を知る人が異口同音に言うことが、「良い声だったね」「でも芸は上手くはなかったけどね」「だから余興が大受けだった」「歌手になってよかったね」・・ということ。
 つまり、浪花節の三要素のうち第一の「声」は大音美声で文句なし。第二の「節」は、それほど強い印象を与えてはいなかったようだ。南條文若節というほどのものはまだ確立されてはいなかった。そして第三の「タンカ」は、うまかったという評価は余り聞かない。星三つ満点の総合評価は一・五というところだったのだろうか。
 だから、そのまま浪花節でいるより、声の利点で勝負できる歌手になってよかったんだ、成功できたんだ、というのが大方の見方であろう。
 ここで僕の見方はちょっと違う。声を恃んで、苦手な残り二つを捨てて歌手を選ぶというマイナス志向では、あれだけのオリジナリティーあふれる三波芸は作れなかったはずだ。現に声自慢だけで歌手に転向した元浪曲師は、ほとんど歴史から消え去った。名を残したのは、残りの二つ、節やタンカにも優れた力量を持っていた浪曲としても一流の部類にはいる人だけだった。
 南條文若は自分の浪曲の足らざるところを分かっていたのだろう。言うまでもなく節読みである彼は、米若節の節真似からスタートしたものの、浪曲学校出身という師匠無しの身には、基礎曲としての節もネタも受け継ぐべきお家芸がなかった。
 オリジナルな節を編み出し、ネタも創作してゆかなければ、いくら声があっても、そのハンディを跳ね返して頭角をあらわすことが出来ないことをしっかり自覚していたはずだ。

 
■胴声からうわ声へ

 三波が、自伝の中で書き残している浪曲時代の二つのエピソードを紹介しよう。
 大阪の寄席に出たとき、まだ十代の文若は、宮川松安に発声の間違いを指摘される。松安はピアノ伴奏で「明治大帝」を語ったりしたように、新機軸好きの人だったから、自らの持論を若き後輩に教えて実践を図ったのだろうか、師匠無しの文若にすれば、大看板からアドバイスを貰ったというだけで大感激だったはずで、折角受けていたそれまでの声節を捨て、松安のいうとおりドレミファを勉強して、自分なりに西洋唱法を取り入れた発声に転換してしまう。
 恐らく、のどを締めた浪花節の発声から、喉を開いたベルカント唱法のような発声への転換であろう。もっと簡単に言うなら、胴声から上声に変えたということ程度だったかもしれない。
 おかげで、半年か一年、客席からは拍手一つ来なくなり、座長から前読みに転落したという。自分の声と節を作ることへの彼の悲願が窺えるエピソードであろう。
 面白いのは、同じ師匠無しの梅中軒鴬童も少年期の胴声を声変りを機に上声に変え、受け入れられるまでにずいぶん苦労している。生前の三波は、梅中軒鴬童にかなり私淑していたが、その芸以上に同じ独流独歩の先輩としての親近感を覚えていたのではないかと、僕は推量する。

 
■「俵星」の原典は奈良丸台本

 お家ネタのない彼は、台本への渇望も強かった。大阪で一カ月同座した前田錦子の「俵星玄蕃」に惚れてしまった文若は、このネタが欲しくてたまらないが、飯の種をやすやすもらえるはずもない。聴いて盗もうにも、今と違って一カ月の間に何度も読み返しすることはない。結局、錦子の弟子の小錦が、覚えているままに台本に書いて、大阪を発つ文若に秘かに手渡した。岡野金右衛門の絵図面取りのような話だが、そこには青春時代の淡いロマンスがあったのかもしれない。
 この俵星を、以後大事に演じ続け、ついに、あの長編歌謡浪曲に仕立て上げて独壇場を築く。まさに生涯の財産になったわけだ。
 前田錦子は吉田派の女流、従って、彼女の「俵星」は、奈良丸の義士伝の一席だった。よく誤解されがちだが、三波春夫の「俵星」は、雲右衛門がベースではない。蕎麦屋に身をやつすのが杉野十平次というのは奈良丸の「俵星」で、雲右衛門の「俵星」では、蕎麦屋は前原伊助になっている。後年三波が浪曲で吹き込んだ「俵星」のストーリーを見ても、二代目奈良丸の台本に準拠していることがよく分かるのだ。

 
■オリジナリティ発揮に壁厚く

 こうした南條文若の浪曲作りの道は、その後出征と抑留による五年間のブランクで中断を余儀なくされる。しかし、このシベリヤ抑留という過酷な体験が、彼に社会性を目覚めさせた。つまり、浪曲社会と関わりを持ち続けた中での修業は、どうしても視野を狭くする。目の前にあるライバルや先輩の芸ばかりが目に入り、世の中の大きな動きに気づかず、いつしか社会の要求と乖離した独善に陥りがちなのだが、四年間の抑留生活で連続した浪界との関わりを隔絶されたことで、彼は人間社会そのもののなかで、自らのあるべき位置を探る機会に恵まれたのではないか。ここで体得した時代と社会の変化を感覚的に察知する能力が、三波春夫への道を開いたといえる。
 勿論、終戦後復帰してからも、試行錯誤を重ねつつ「オリジナリティ」の追求は続く。節づくりとネタ作りの正攻法を目指すのだが、必ずしもその努力は報われなかった。
 如何に熱心に営業活動をしようと、ブレインを求めて作家やレコード会社、放送局に日参しようと、大看板の門閥でもなく、引き立てもない彼の思いを積極的に受け止めてくれる人は少なかったのだろう。当時の浪界は、大看板には作家がつき、その作家がそれぞれに顔の利くレコード会社や放送局を抑えるというある意味で興行面以外でもある種の権益の構図が出来ていた。例えば、キングは室町京之介、コロムビアに水野春三、朝日放送は小菅一夫、・・・という具合に。三波が後に所属するテイチクには萩原四朗が文芸部長として座っていた。
 三波に「テイチクへはいったのは萩原さんの関係ですか」と聞いたら、彼は言下に否定した。それどころか三波の入社に「こんな浪花節臭い歌手はだめだ」と、最後まで難色を示したのが萩原氏だったという。
 そんななかで唯一文若を買った作家が、内山惣十郎だった。元々レビューや大衆演劇の台本作家だった内山は、戦前からのお抱え浪曲作家から見ると異色の外様で、文化放送の開局と同時に浪曲番組を手がけるようになった人。ラジオ放送で「浪曲忠臣蔵」「民謡浪曲」「歌謡浪曲」といった連続シリーズを企画し、ほとんど自分で台本も書いて、当時の若手中堅に出演の機会を与えた。南條文若はこれらのシリーズに全て出演のチャンスを与えられている。ことに民謡浪曲の企画は、彼の民謡のうまさに注目してスタートしたもので、第一回の放送で秋田おばこと真室川音頭を取り入れた「月の真室川」を語っている。
 これが、文若を大きく触発したのだろう。浪曲時代の文若の唯一のレコードは、コロムビアから出た「民謡浪曲・涙の須磨の浦」で、ここでは相川音頭を主題曲に使って熊谷と敦盛の物語を綴っている。いま聴けばなかなか面白い作品なのだが、当時、これをビデオホールでの企画公演にかけても、ブレイクすることは出来なかったようだ。
 当時内山が企画したラジオ番組自体が「民謡や歌謡曲を入れるなど邪道だ」と浪曲界から総攻撃を受けたというぐらいで、正統派になりきれないものの抜け道、キワモノという扱いだったようだ。正岡容は、この作品に触れ「構成がでたらめで、折角の企画が台無し」と断じ、「千変万化するこの人の節は台本次第で第二の三門博になるかもしれない」と評価しながらも、「描写力に乏しく歌うことに終始する浪花節」と自らの好みでないことを語っている。
 ここらあたりが当時の浪界のハイレベルな批評を代表していたのだろうから、文若が前途に絶望感を持ったとしても不思議ではない。

 ■浪界を捨てて浪曲を極める

 と同時に、三十年代に入って、テレビ放送の開始を機に娯楽は多様化し、浪曲界自体が先行き不透明になる。文若も、観客が本席の浪曲より余興の民謡や歌謡曲を喜ぶようになってきたのを察知し、このままの形でネタ、フシ、演出を探ってゆく正攻法に疑いが生じてきた。気を使わねばならない師匠や一門があるわけでもない、南條文若という名前自体、新しい可能性と天秤にかけても捨てるに惜しいほどの看板でもない。で、歌謡曲への転進を図る。
 これは見方によれば、浪曲がダメだから歌謡曲になったというとらえられ方をするのだが、中堅若手としての文若は、所帯も持って、浪花節では仕事がなくて食えないという切羽詰まった状態に追い込まれていたのではない。それなりの中看板でこの先食ってゆく見込みはあったろう。それでは満足できない、天下を取らねば気が済まない、というのが彼らしいところで、行き詰まりを感じた自分の芸の壁を打ち破ることの方が食えるか食えないかより重大関心事だった。そして自分の浪曲芸を完成させるために、勝負の土俵を変えるしか道がないという気持ちに駆り立てられたのだと思う。
 言い換えれば、浪曲を捨てたのではなく、浪曲界を捨てたのである。中途半端で終わった浪曲出身歌手の多くはその逆で、浪曲を捨てて、浪曲界は捨てなかった。歌が売れたら歌手でいるし、売れなきゃ浪曲師でいる、という二足草鞋をはくのが普通だが、この違いが大きいと僕は思っている。
 浪曲界の中では抜きん出る評価を受けられず、観客からも「浪花節はちょっとでいいから歌をいっぱいやってくれ」といわれるに及んで、文若の決心は固まったという。彼は、その言葉がお告げだったというが、成功したからこそ言えるのであって、そのときは大いにプライドを傷つけられて愕然としたに違いない。それをバネに南條文若は三波春夫と名を改め、歌謡界という新しい土俵に移る。
 浪曲に比べてまだ成熟していない若い芸能社会である歌謡界は、斯くあらねばならないという束縛がまだ少なかったのだろう。年齢的にも芸歴においても、他の新人ほど周囲の声に気を使うこともない、しかも所詮は浪花節出身という外様である。三波春夫は自由奔放に思うがままの自分を作ってゆく。浪曲の余興時の感覚を踏襲し着物を着て歌う。
 譜面を歌うという歌手の視点から離れ、確立されたフシを語り演じるという語り芸の視点で、所作を加え全身でドラマを表現する。活動の中心はあくまで舞台興行とする。何もかもが、声楽の流れを歌手の正統とするなら破天荒なやり方だ。
 すなわち、浪曲界から歌謡界に所属を変えても、なすべきは自らの芸、声と節、タンカの創造と確立という点に何の変わりもなかったということである。そして、新しい水の中で生き生きと本領を発揮しながらも、その水になじんでしまうことなく、自己確立を追求し続けたところが彼の真骨頂であろう。
 歌手デビューから数年、民謡調、時代調を中心にさまざまな歌謡曲を歌いまくり実績を上げた三波は、その間に創り上げた「声」と「節」を使って、いよいよ自らの存在感を示すネタを作り、オリジナルな芸としての作品を世に送り出す。十年前の意欲作「涙の須磨の浦」では大衆には届かなかった三波節が、長篇歌謡浪曲「俵星玄蕃」で、圧倒的な支持を受けるに至る。ここにおいて三波春夫は、浪曲を志して以来念願であった勝利の栄冠を勝ち取るのだった。(つづく)

 ■叙事歌曲としての浪曲の王道

 浪曲は、叙事詩で構成された物語の完結を以て一曲とする叙事歌曲である。我が国には、この形態の音楽が、代表的なもので平曲、謡曲、浄瑠璃と続き、この伝統の流れの中で近代において登場したのが浪花節だ。つまり立派な音楽芸術の一ジャンルなのだが、西洋音楽を基本とする明治以降の日本の音楽教育の中では、既に西洋において現存していない叙事歌曲ゆえに、浪曲の音楽性が正しく位置づけられることがなかった。
 従って大衆芸能の一形態としての曖昧な位置づけしかなされず、その自由奔放性のために、落語や講談といった純粋話芸など他芸能を無軌道に吸収、接合したものが高い人気で迎えられ、純粋な音楽性を損なう雑芸化が進んだ。一面では浪曲芸の多様性と肯定的に評価されるが、反面芸能の本質をつかみ所なくしてしまう結果となった。元来の浪曲は、フシ、タンカとそれぞれ内部的に呼んでいる朗唱(アリア)と詠唱(レチタティボ)で構成される。ともに音楽表現の手法なのだから、皮肉にも正岡容が批判的にいう「歌う浪曲」こそが正当な姿なのであり、決してそれ故に「描写力がなく」なるのではない。いうなれば、タンカが拙いと評され続けた米若や梅鴬の浪曲こそが純粋に近い叙事歌曲としての浪花節なのである。
 南條文若も、浪曲から歌謡曲へと活動の舞台を変えることによって、逆に、フシと語りの音楽性を高め叙事歌曲としての純粋浪曲を目指していったのである。
 三波以前の日本の歌謡界は、ほぼ完全に叙情歌曲の流れを踏襲し続けてきた。それはたとえ主題に叙事的なドラマや物語を取り上げてはいても、歌謡作品となったそれは、あくまでも叙情歌の枠を出ることはない。田端義夫歌う「大利根月夜」は、平手造酒のドラマを主題としていても作品は叙情歌謡であるが、三波春夫の「大利根無情」は、はっきりと叙事性を前面に押し出している。これはアリアの部分が定型詩を同じフシで三節繰り返し歌う歌謡曲の型を踏襲している点において完全な叙事歌曲にはなりえていないのだが、その方向性が顕著に示されている事を注目すべきだ。この成功に触発されて、以後歌謡界において「浪曲調歌謡」「ドラマ歌謡」「歌謡物語」といった呼び名でさまざまな叙事的作品が登場する。
 結果として三波春夫は歌謡曲のテリトリーを一つ拡大したことになるのである。
 こうした過渡的チャレンジを重ねつつ、遂に自らのフシとネタを全面的に表現した叙事歌曲「俵星玄蕃」に到達する。アリアとレティタティボのみで構成された完全な通作叙事歌曲であり、すなわち純粋浪曲のもっとも新しい形態での登場なのだった。

 
■伝統の価値観と同時代性の実現

 そしてこの完成した三波節を含む三波浪曲のさらに注目すべき点は、地節、憂い、アテ節、セメ、早節、バラシと、浪曲のセオリーにしたがった音楽要件を全て満たしながら、リズム、テンポ、ストーリー展開のスピード、さらには表現手法において、同時代を反映したということだ。
 浄瑠璃と浪花節の違いは、言うなれば江戸時代(近世)と明治時代(近代)の違いということに尽きる。メロディやリズムにおいて近世の浄瑠璃より近代の浪曲は格段に豊かになった。テンポやスピードにおいては一層顕著に両時代の社会の違いを反映している。人間の足での移動速度が全ての社会のスピードの基本であった江戸時代と、鉄道をはじめとする動力による移動を反映した明治時代は、人間の生活のリズム、物を生産するテンポが格段に変わった。その日常のスピードが時代に受け入れられる芸能にも反映される。浄瑠璃の語るテンポは如何に表現豊かで奥深くとも、もはや同時代の人間にはまどろしくて、歯がゆくなる。その時ぴったりはまったのがその時代の要請を受けて生まれた浪花節のテンポだったのだ。
 既に完成された浄瑠璃は、新しいメディア、レコードにおいて売れゆきが浪花節の足下にも及ばなかったのはなぜか。片面三分の中に凝縮してドラマを盛り込むという柔軟な対応が不可能だったからだろう。浄瑠璃にくらべたら浪花節なんて薄っぺらでそこが浅いとしても、三分ごとにちゃんと聞かせどころを持ってきて同時代人の言葉で感動を伝えてくれる。一部の愛好家は別にして大多数のその時代の大衆は、浪曲を全面的に支持した。
 その浪曲も、それから五十年経て、同時代の社会のテンポがさらにさらに早くなり、同時に大衆の生活感覚が変わってきても、全く変わることのないテンポを守り続けていたのだから、その感覚の乖離は年々広がるばかりでしかなかった。
 レコード・ラジオというニューメディアの登場にあれほど柔軟に対応できたのに、今度のテレビというニューメディアには、全く柔軟性を欠いた対応しかしなかった。
 あの時の浄瑠璃と同じ立場に立ったのだ。これは成熟した芸能の宿命かもしれないのだが、三波春夫という浪曲界を捨てた浪曲師は、先に述べたように浪曲の音楽的純粋性を守ったまま、高度成長期の社会のテンポに見事に対応した。さらに映像メディアへの視覚的対応までこなしてしまった。
 もう少し厳密に言えば、三波春夫という存在は、高度成長期に日本社会の歪みを埋める存在だったと言える。急激な社会の変化、外来文化の流入、科学技術の進展に伴う産業の発展がもたらした物質文明の生活空間への雪崩のごとき侵入が、都市と地方の開発の格差を生み、さらには家庭内においても世代間の価値観の格差を生じ、核家族化を進行する。この急激な環境変化について行けなくなりつつあった世代や階層の人々にとって、伝統的な浪花節の価値観である人間愛や社会正義を現代社会のステージで再現する三波春夫の芸は、かろうじて理解でき共感できる救いとなった。歌舞伎座の三波春夫ショーの舞台は、訳が分からなくなりつつある現実社会をしばし忘れさせてくれる駆け込み寺であると共に、不安でいっぱいだった人々に、あなたこそ今という時代の主役ですよと存在を認め自信を呼び起こしてくれる場所でもあったのだ。置き去りにされつつあった人々の視点からあるべき世界を語り、現実社会での生きざまの規範を示す。これぞまさに、浪曲の伝統的主張である庶民の倫理観にもとずいた社会の理想像を描く人間賛歌の精神に則った姿なのだ。ことほどさように、三波春夫は現代に浪曲の生き残りの可能性を与えた。それは新しい形を持った新時代の浪花節の誕生でもあったのだ。その意味で、三波春夫は浪曲を歌う歌手ではなく、歌謡界に籍を置いた純然たる浪曲師だったと、僕は思う。
 昭和三十九年のこの「俵星玄蕃」以後、三波春夫は、十分程度の一曲の中に浪曲のエッセンスを凝縮した長編歌謡浪曲をほぼ年に一作の割で世に送り続けてきた。それらは昭和三十七年の過渡的な試験作「曽我物語」から平成六年の「平家物語」収録の作品まで、全三十作に及んだ。
 これらの作品を通じて示し続けた三波春夫という浪曲芸の同時代性は、高度成長期の終焉と共にその使命を全うし、彼の死で今一つの歴史になった。さらに社会が変容する今日、彼の残した浪曲の可能性を、その本質を理解して、その業績の上に立って、この時代の価値観と人々の感性を反映した新しい創造者の登場が待たれる。

 
■仕上げは再び原点に挑戦

 今思うと、既に病気を宣告された後だったのだろう。晩年の三波春夫は、大劇場ではなく好んで地方の小場所を回った。僕も知り合いの興行師さんにお願いして、何度か「トークショー」と称した公演を世話したことがあったが、三波さんにとってそれが食わんがための商売ではなかったのは言うまでもなかった。トークショーと言っても、楽団を入れないだけで、一時間半たった一人で語りながら七、八曲歌うのだから、三波春夫ショーとほとんど変わりなかった。舞台に立って、歌い語り、観客を喜ばせつづける、それが生きている証拠だという、いうなれば舞台芸人の執念だったのだろう。
 午後二時ごろの開演で、その日の朝家を出て、最寄りの駅に昼ごろ到着する。駅まで迎えに行くと、夫人とマネージャーを務める娘さんが小さなかばんを持って降り立つ。道中の話などを聞きながら楽屋入りする。一人先乗りで来ている音響屋さんがやってくると、その日の進行を打ち合わせる。例によってしっかり書いた曲順を示しながら、今日はあれを歌おう、これも歌おう、と次々曲目が増えると、夫人が、「いいかげんにしなさいよ、数歌えばいいってもんじゃないのよ。今日はお話しできてるんだから」と体調を気遣ってブレーキをかける。「そうかなあ、でも、これ外すときっとがっかりするよ」などと押し戻す三波さん。
 雲の上のスター歌手三波春夫の近寄り難さはそこにはなかった。何ともほほえましくも穏やかな舞台芸人の姿があって、功なり名遂げた舞台人が、取り巻きが山ほど群がっていた所帯を見事に整理して、こうして親子夫婦だけで心豊かに舞台をつとめている、何と幸せな芸能生活の最終章だろう、と僕は感動した。
 いざ舞台の幕が開くと、五、六百の小さなホールでも、歌舞伎座の大舞台と何ら変わりないく舞台姿は威厳と風格に満ち、距離の近い観客にも決して馴れず、ドサ臭さはみじんも感じさせないのは、さすがだった。
 舞台が終わると、田舎の関係者との記念撮影やサインにも気さくに応じて、小屋を出る。再び元の駅まで見送るのだが、すたすた歩く三波さんのあとを夫人が控え目に寄り添い、トランクを下げた娘さんがこれに従って車中の人になる。
 どんなに流行の寵児ともて囃されて虚栄の世界で生きてきても、しっかりした自己を持ち続けたゆえに、その飾りを全て取り外しても、原点である一人の浪曲師の姿を、斯くも堂々と見せることが出来る。その歩みには絶対の自信が満ちあふれていた。
 そのおりだったと思う。「今度三味線一丁で浪花節を吹き込んでおこうと思うんだよ。あれもやりたいこれもやりたいとネタに迷ってるんだけど、今浪曲ではどんなネタが受けてるのかなあ」と相談されたことがある。僕は答えに窮してしまったけど、市販されていないいくつかの三波さんが関わりを持ったり興味を持っている人のテープを差し上げた。
 その次に会ったとき、ネタは決まりましたか、と問うたら、「『俵星』はやっぱりやらなきゃね、それに『藤堂高虎』が浪曲時代僕の十八番だったんですよ。ほかはどうしようかな。暖かくなったら吹き込みますよ」といっていた。「絶対に昔を振り返るようなことはせず、新しい物を創り続けるんだ」というのが口癖だった三波さんが昔の十八番を吹き込むと聞いて、この人もやっと突っ張って生きる気負いから解放されたんだな、と、またまた嬉しくなってしまった。
 考えれば、三波さんは南條文若時代、新機軸の民謡浪曲以外自分の得意ネタをレコーディングする機会に恵まれていなかった。目標であった声もフシも芸風も完成した実力で原典の浪曲を吹き込んでおくことが、彼の六十年の全ての芸道の集大成なんだと、僕は理解した。
 そして、その出来上がったCDが送られてきたとき、本誌に一頁貰って彼の浪曲完成のへの歩みを僕なりの解釈で書いた。昨年の一月号だった。
 中の一節を抜粋する・・・。
 総体には、甘い歌声は更に甘く、円熟を経たぶん角や刺がすっかり姿を消し、心優しさが満ちあふれた口演ではあるが、そこには浪曲時代に会得したフシと、歌謡曲になってから編み出した数々のメロディが見事に溶け込んで、六十年の芸道で学び育んできた「芸」の集大成が「魂」とともに収められている。明らかに到達点と呼ぶにふさわしいものなのである。
 作り上げた三波節を、楽団や譜面の束縛から解放して、たった一人の生の肉声だけの純浪曲の方式の中で、フレキシブルでありながら普遍化した節調として確立させようと挑んだのではないか。意識的か無意識かは知らねど、ここに発表された千変万化の節調の中に、私はその心意気を見て取った。・・・・

 ■孤高の芸術家永遠なれ

 この記事に三波さんは本当に喜んでくれた。「僕の気持ちをこんなに分かってくれる人がいるのが幸せだ。家内と手を取り合ってその夜は語りあいました」という手紙をもらった。僕は万感胸に迫った。
 そして、昨年秋、最後の手紙をもらった。中に「いつ死んでもいいと思えるだけの仕事を残せて幸せでした」とあった。僕への別れの便りだった。以来この言葉がずっと心に引っかかりながら、四月外出先への電話で訃報を聞いた。やっぱり。
 追悼記事を書けと言う編集長の注文を貰ったが、どうにも書く気が起こらなかった。本誌には、これまでも、交際をいただいた浪曲人の追悼文を数多く書いてきた。それぞれに感慨はあっても、努めて感情に流れないように書くのが、先人を見送る記録者の責務だと思って、いつも自分から原稿を送っていたものだが、なぜか三波さんについては、どうしても書く気になれなかった。それで、過去二号の〆切たびに何やかや理由を付けて逃げてきたのだが、敵もさる者、今月も三度目の督促を受けて、書かざるを得なくなって書き出して気づいた。僕の中で、三波春夫は、浪曲芸そのものの権化で永遠不滅の存在だった。だから、追悼という言葉がピンと来ないのだ。
 年ふるという人間の宿命をも人には見せず、ある種中性的な存在でもあり、三波春夫の売りには、「人間臭さ」というキーワードがなかったように私には思える。
 この演出は彼の芸能界での生きざまにも表れていた。舞台を離れた楽屋でも、与太話をするではなく、昔話をするでもなく、聖人君子のごとく、経国済世を語り、芸を語り、衆をたのまず、一派を作らず、常に自らの芸作りにのみ精力を捧げた求道者的生き方は、並の人間にはちょっと出来ない。
 世俗を断ち切り、自らを孤高の存在に突き放して、出来上がったのが三波春夫という芸そのものの存在だったのだ。
 すなわち僕は思う。人間北詰文司はこの世を去っても、一個の芸術である三波春夫にこの世とあの世の境などはない。この芸に別の人間が乗り移るまで新たな創造が停止しているだけで、ずっと鼓動を打ちながら生き続けてゆくのだろうと。