21. インダス川に到達
 5月12日朝9時頃に出発。1時間ほどでマンセーラ(Mansehra)という町に着きました。ここのバザールから、Y字路を右(東)に進むとパキスタン支配下の「カシミール地方」に至ります。2005年10月の地震のために大きな被害を受けた地域です。私はその地震の10日ほど前にパキスタン北部での地質調査を終えてイスラマバード方面に向かってマンセーラを通過しました。通算7度目のパキスタン滞在の終了間際でした。自分が泊まっていたホテルも地震で倒壊したと聞いています。前述した主境界断層から派生する断層がずれ動いたことが地震の原因と考えられています。

 時間を1990年に戻します。マンセーラの分岐点で左に進路を取ると、道はいったん谷間に下ったあとで登り返してチャタールプレーン(Chatar plain)と呼ばれる高原に至ります。ここは緩やかな谷の斜面に緑のモザイクのような水田がひろがっていて、日本の田舎のような風景です。下の写真では麦畑のように見えますが、別の機会に通りがかったときには水が張られいました。


 チャタールプレーンを通過して先に進むと地形がだんだん険しくなり、道は森の中を通るようになります。森の中の少し開けたところにバトグラム(Batgram)という町があります。この町も2005年の地震のために大きな被害を受けたと聞いています。私の記憶しているバトグラムのバザールは、道路の両側に立派な商店が並び、路上には小型・大型の各種のバスやトラックが数珠つなぎになって賑わっていました。ところが、テレビや新聞の画像に映っているものはただの瓦礫の山になってしまっています。バトグラムの先は曲がりくねった下り坂になり、深い谷間に降りて行きます。やがて谷の先が開けてきて鉛色に濁ったが見えてきます。それが初めて見るインダス川でした。



 インダス川は地理や世界史の教科書に載っている有名な川ですが、山間部を流れるこの場所では意外と幅が狭くて「大河」という雰囲気ではありません。おそらく川の両岸の傾斜が急であることと、日本で見慣れている山と川の比率に従って風景のスケールを感じてしまう錯覚によるのでしょう。川の左岸(東側)に沿って北上し、ターコット(Thakot)という小さなバザールの先にある吊橋でインダス川を渡ります。時刻は13時15分でした。きちんと測ったわけではありませんが、橋の長さは150から200mくらい、幅は6mくらいだったように思えます。是非ともここで写真を撮りたいところですが、橋の構造は軍事機密です。両側には兵士が警備しています。カメラを出してトラブルになったらまずいのであきらめました。その後もこの橋を何度も通過していますが、写真撮影は試みていません。

 右岸に渡ってしばらく進むと、道路の右手(谷側)の岩の壁に、ブロックを積んで作った高さ3m、幅5mくらい碑があります。カラコルムハイウェイの完成を記念するもののようです。大理石の版がはめ込まれていて、その石版にはこの地点から主要な町までの距離が書かれていて、ラーホールからは536kmとなっています。進行方向はどうかというと、北京(Beijin)まで5425kmと表示されています。その気になればこのまま北京まで行けるというわけです(日本人は中国のビザが必要)。日本では地上を5000kmも移動することは考えられないので実感が湧かないのですが、これまで走ってきた道のりの10倍とすると意外と近いような気もします。




22 . 主マントル衝上断層(Main mantle thrust)
 インダス川に沿って北上すると、次の町はベシャム(Besham)です。ここはスワート地方(インダス川の支流の一つのスワート川沿いの地域)へ向かう道との分岐点になっていて、数件のホテルがあります。バザールは当時でも数十軒のお店が並ぶ立派なものでした。2005年の秋に通過したときには市街地が大幅に拡大してかなり立派な町になっていました。2005年の大地震に関連するニュースにベシャムの名前があまり出てこなかったので、ここでは大きな被害はなかったようです。さらに1時間ほど進むと左側から深く切れ込んだ谷が現れ、そこから白く泡立った急流がインダス川の本流に流れ込んできます。谷の急傾斜地にへばりつくように家が密集しているドベイル (Dubair)のバザール(商店街)です。本来のドベイルという村は、この支流の奥にあります。
 ドベイル川に架かる橋を渡って数百メートル先、左カーブにさしかかるところの左手に褶曲した縞状片麻岩が露出しています。その先はしばらく露頭がなくて、カーブを曲がり切って次に現れる露頭はかんらん岩という岩石が変質したものです。縞状片麻岩は、インドとアジア(コーヒスタンを含む)が衝突する前にインド側にあったもので、かんらん岩はコーヒスタン島弧の最下部を構成していたと考えられています。縞状片麻岩とかんらん岩の境界は主マントル衝上断層(Main mantle thrust)と呼ばれる断層ですが、ここには、残念ながら断層そのものは露出していません。

褶曲した縞状片麻岩



かんらん岩

 ドベイルから40分くらいでパタン(Patan)のバザールに着きました(15時45分)。パタンの村は道路沿いのバザールよりも下の扇状地にあります。バザールの手前の道路の左側には赤いザクロ石を含む岩が露出しています(下の写真)。この岩石は、ハンレイ岩という火成岩が高温高圧の変成作用を受けてできたもので、グラニュライトと呼ばれます。パタン周辺には非常に新鮮な状態で広い範囲に分布しています。この種の岩石の大規模な分布が車で簡単に行けるところにあるのは世界中でもかなり珍しく、多くの研究者がこの岩石を調べています。後に詳しく延べるつもりですが、私もこの岩石についての研究に参入することになります。

グラニュライト


23. カミラとダスー
 パタンから先の道路は岩の斜面を削って作られています。道路は切り立つ岩壁を斜めに這い上がっていき、インダス川の水面から遥か上を通過しています。日本の山道とちがって、ガードレールはありません。道路の端を示す高さ40cm、長さ1mくらいのブロックが約2mの間隔で設置されていますが、車がぶつかれば簡単に壊れそうです。落ちれば、まず助からないでしょう。そういう状況でも、この道を通行する車はそれぞれが限界いっぱいのスピードで走り、前の車が自分より少しでも遅ければ追い越そうとするのです。対向車が来ているのが見えても「いける」と判断すると追い越しを仕掛けます。事故に巻き込まれないためには前方だけでなく背後にも注意を払っていなければなりません。


 やがて道路はインダス川本流を離れ、左側から流下してくる深い谷に沿って大きく西に迂回します。この谷は非常に険しくて入口が狭いので、道路が本流を離れ始める地点からすぐ右前方に谷の向こう側の道路が見えています。橋を架ければ一瞬で通過できそうですが、入口から出口までは20分くらいかかります。その先は極端に人気が乏しくなります。崖にへばりついているような小さな集落がいくつかありますが、この道路が唯一の外界との接点であるかのような状態です。

 パタンから一時間半ほどで狭い谷間を抜けて視界が開けます。その先の台地状のところにカミラ(Kamila)のバザールがあります。当時のカミラには食堂兼安宿が数軒と商店が十数軒程度ありました。パタンからここまでの間には商店らしいものはありません。商店街の先は道路が右にカーブして、そこから立派なコンクリートアーチの橋が架かっています。その橋でインダス川の本流を渡ると左岸(東側)側はダスー(Dasu)と呼ばれる場所です(17時30分着)。こちらはカミラのようなバザールにはなっていませんが、道路沿いに食堂兼安宿が数軒ありました。安宿といってもダスーのほうが建物はずっと立派です。この日はインダス川沿いに走りながらキャンプできる場所を探していましたが、ダスーの町外れに20ルピーでシャワー付の宿があったのでそこに泊まることにしました。気温が高く、乾燥した空気の中を長時間移動したせいか体調がかなり悪く、食欲もなくて夕食は抜きました。20時30分に体温を測ると38.6℃でした。この日の移動距離は234km、ラーホールからの通算で656km。


24. 角閃岩
 カミラとその周辺の広い範囲には角閃岩と呼ばれる岩石が分布しています。前に述べたかんらん岩とグラニュライト、そしてこの角閃岩はコーヒスタン島弧の下部地殻を構成していた岩石であると考えられています。カミラの角閃岩は「石」ですからがっちり硬いのですが、所々でふにゃふにゃに曲げられたようになっています(褶曲)。角閃岩はおよそ400℃以上の高温条件下でゆっくり(数万年以上かけて)変形すると、このように流動的な性質を示します。この変形はコーヒスタン島弧を形成したの歴史のなかで重要なイベントであると考えられています。

角閃岩の崖とその上のわずかな平地に建つ家



褶曲した角閃岩



...つづく

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