120. カッワーリーのレコーディング
 1月19日 ラーホール市街中心部のモールロードで学生を主体とするデモがありました。湾岸戦争でパキスタン軍が国連側の「多国籍軍」についたことへの抗議です。このデモは比較的整然と行われ、暴力行為が派生することことはなかったようです。 市街地中心部と大学の New Campus の間にある Ichilaという地区では、過激化した人たちがコンクリートブロックでバリケードを築いて道路を封鎖し、そこに油を撒いて火を点けたそうです。それで一時的に交通が麻痺しました。他にも散発的な抗議行動があったものの、パキスタン全体としては大きな問題は起きませんでした。ただし、こういったニュースが日本で報道されると、大混乱に陥っているかのような印象になってしまいます。この日の日中、私は寮の部屋に居たのですが、そこに電報が届きました。Ykさんからのもので、英語で “My visit is canceled because of Iraqi War.” と書かれていました。この時点ではパキスタンの状況がどうなるのか先が読めませんので「取りやめ」にするのは仕方ありません。これでコーヒスタン地方を案内するという予定は無くなりました。

 夕方になってYさんと共にレコーディングが行われるスタジオに出向きました。録音スタジオには、すでにヌスラット氏の楽団が勢揃いしていました。ヌスラット本人はレコード会社もしくはスタジオの関係者と思われる人たちと、何やら打ち合わせをしています。左から3人目がヌスラット氏、左端のおじいさんは作詞者のようです。手前側で背中を見せている人物がYさんです。画像の肌理が粗く、色合いが不自然に見えるのは、この部屋の照明が暗くて一眼レフカメラに入れていたASA100(感度)のリバーサルフィルムでは露光量が足りなかったからです。オリジナルのフィルムでは暗がりの中にぼんやりと人の姿が写っている状態でした。スキャンした画像をデジタル処理したのですが、元が暗すぎるのでこの程度が限界です。




 打ち合わせが終わると録音室に移動します。こちらは打ち合わせの部屋よりも少しばかり明るくて、ASA100でも撮影できました。楽団のメンバーは、メインボーカル(ヌスラット)、サブボーカル兼ハルモニウム演奏2人(内1人はヌスラットの弟)、サブボーカル(ヌスラットの叔父)、タブラ演奏1人、コーラス兼手拍子6人の構成です。「ハルモニウム」(下の画像)というのはオルガンの一種ですが、カッワーリーでは持ち運べるサイズに小型化したものが使われます。右利きの人の場合は右手で鍵盤を操作してメロディーを奏で、左手は吹子の板を動かしてリードに空気を送り込みます。タブラ(下の画像)は乾いた印象の高音を出す小さい太鼓と、よく響く低めの音を出すバケツサイズの太鼓を足で抱えて演奏します。演奏者全員が床にあぐらをかいて座っています。常識的には楽器の奏者は立っているか椅子に座って演奏しますし、歌手は立っているのが普通でしょう。床にベタっと座り込むスタイルはカッワーリーなどのインド系の音楽に共通します。そういえば、日本の雅楽も床に座って演奏しています。




 19:30ごろに打ち合わせが終わってリハーサルが始まります。カッワーリーには楽譜はありません。演奏者のグループ(「パーティー」と呼ばれる)ごとに伝統的に受け継がれているリズムとメロディの基本パターンがあり、それらと歌詞を即興的に組み合わせて楽曲を構成します。基本となる節回しのパターンは、ヌスラットのグループでは600くらいあるそうです。中心メンバーであるヌスラットとハルモニウム奏者、タブラ奏者で相談して楽曲の大筋を決めたら、リハーサルを繰り返して細かいところを詰めていきます。私はその様子をコントロール・ルームからガラス越しに見ていました。そのとき、オリンパスの「一眼レフ」と、もう一つ小型のカメラを持ち込んでいましたが、私の「カメラ2台持ち」の姿を見たプロデューサーは、「ジャケットに使う写真を撮影してほしい。」と言ってきました。一眼レフをぶら下げていたのでカメラに詳しい人のように見えたのかもしれません。どこの馬の骨ともわからない見学者にジャケ写を撮らせるとは実にいいかげんな話です。でも面白そうだし、リハーサルの現場に入り込めるのでやってみることにします。小型カメラに新品の24枚撮ネガフィルムを入れていたので、その一本を撮り尽くして丸ごとプロデューサーに渡しました。小型カメラにはフラッシュがついていたので、それで撮ったものはきちんと写っていたはずですが、フィルムを手放してしまったので出来栄えはわかりません。一曲目の録音が終わるまでに2時間くらいかかっていたでしょうか。レコーディングはそのまま深夜まで続く様子だったので、私たちは22時ごろを目処に辞去しました。

 1月20日 ここ数日あちこち動き回り、昨日はかなりの夜更かしだったので疲れが出てしまい、だらけて過ごしました。

121. ダーターダルバー
 1月21日 先日のレコーディング見学の際に、1月21日の夜にダーターダルバーでヌスラットの演奏があるとの情報を入手したので、夕方にオートリキシャを拾ってダーターダルバーに向かいました。「ダルバー」とは、ムスリム(イスラム教徒)の聖者を祀った墓廟です。日本では「ダルガー」と表記されますが、ここラーホールの発音では「ダルバー」と言っているように聞こえます。カッワーリーは、神と聖者を讃え奉るための音楽とされているので、聖者廟での演奏はカッワーリー本来の姿ということになります。イスラム教の信者(ムスリム)には「神の言葉」以外の事物に耽溺することが禁じられています。従って、酒や音楽などに酔いしれることは赦されません。しかし、インドの文化圏には神仏による奇跡譚(不治の病を治したとか、日照の村に雨を降らせたとかいう類のやつ)が芸能(歌・演劇など)と結びついて根付いていたので、ムスリムとしての禁忌を徹底することは難しかったはずです。また、「無形の唯一神(アッラー)を無条件に崇拝する」というイスラム教本来のスタイルは、あまりにも抽象的すぎて一般大衆にとっては理解しにくいものだったように思われます。インド文化圏に土着の宗教は、人や動物のような姿をした神や仏を崇めるものでした。このような背景から、大衆の支持を集めた高名なムスリムが「聖者」とされ、死後に聖者廟に祀られるようになったのではないかと考えられます。聖者は、抽象的なイスラムの教義と一般大衆の「需用」の間を埋める存在として必要だったのではないかと思います。やがて聖者廟には富裕者から寄進された立派な建物や土産物を売る店などが並ぶようになり、経済を回す拠点の機能を備えるようになっていきます。こうなると日本の神社仏閣とよく似てきます。

 「ダーターダルバー」は、ダーター・ガンジ・バフシュ(富を与える者)を祀る廟で、意訳すれば「ダーター様」となるでしょう。ダーター・ガンジ・バフシュは尊称のようなもので、実名はアリー・ホジュヴィーリーとされています。彼は10世紀から11世紀にかけて活躍した思想家・詩人です。同年代の日本は、平安時代の後半の初期にあたり、貴族政治から武家政治に移行する時期(平氏の台頭)に相当します。アリー・ホジュヴィーリーは、現在のアフガニスタン方面からやってきてラーホールに住み着き、多くの弟子を抱えていたようです。彼は思想家・詩人として多くの著作物を残したはずですが、それらは散逸してしまって執筆当時の原型を留めているものはほとんど残っていないそうです。ホジュヴィーリーが書いたとされる文章を別人が自著にしてしまうこと(盗作)が多発していた上に、勝手に彼の名前を使って発表された贋作の詩などもあるようです。高名な思想家・詩人から「富を与える」という「弁天様」のような存在に変化していった経緯は調べてみてもよくわかりませんでした。

 ダーターダルバーの敷地はラーホール旧市街を囲む城壁の南西側のすぐ外に位置します。1991年1月21日はダーター様のお祭りの日であり、その境内に設置された野外ステージで昼間から多数のカッワーリーのパーティーが演奏していました。1組のパーティーの持ち時間は10分から20分程度しかありません。メンバーが3人(ボーカル、ハルモニウム、タブラ各1)しかいないパーティーもありました。多くのパーティーは、一、二曲を披露したら退場します。演奏が上手で聴衆が盛り上がるとステージの近くに陣取っている人たちの手から1ルピー札が放たれて舞い上がります。ステージ直下にばら撒かれた1ルピー札は直ちに回収されます。どうやら、それが演奏者のギャラになるようです。ヌスラットのパーティはこの日のトリであり、22時を大きく回ってから登場しました。それまでのパーティーは前座扱いなのです。彼らはとにかく別格で、出てくるだけで大盛り上がりですし、持ち時間は1時間以上あったと思います。曲の「サビ」にあたる場面では大量の1ルピー札が舞い飛びます。立ち上がって踊り出したり、床に横たわって転げまわる人もいました。聴衆のほとんどが「おじさん」であることを除けば、「野外ロックフェス」のような状況です。最後の曲が終わって聴衆が放心状態で引き上げ始めたときは、たしか24時を過ぎていたと記憶しています。私はオートリキシャを拾って寮に戻りました。

 1月22日-31日 帰国の前にやっておきたかった二つの旅行の準備と、荷物を整理して実家に発送するなどの作業を行いつつ、のんびりとした時間を過ごしました。







...つづく

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