122. 地震
2月1日 早朝のまだ暗い中、誰かにベッドごと揺さぶられているような不快感のために目が覚めました。地震です。体感としては震度3より少し強めのようです。東京ではこの程度の地震は日常的でしたが、ラーホールで地震に遭遇するのは初めてです。「このくらいの揺れなら大丈夫」と判断して、そのままやり過ごしました。パキスタンでは、隣のインドも含めて北部の山岳地帯ではよく地震が発生していますが、ラーホールあたりで有感地震があるのは珍しいようです。Yさんがラジオで聞き取った情報によると、地震の発生時刻は4:10、震央はペシャーワルの北 200 マイル(約 320 km)、パキスタンの北部で 100人以上の死者、とのことでした。ラーホールでは特に被害はなかったようですが、「揺れに驚き、窓から飛び出して怪我をした人が多数」という噂が流れてきました。
2月2日 英字新聞 ”Frontier Post" を買って来て地震の情報を確認しました。地震当日時点での死亡者は、ペシャーワルの北東にあるマラカンドで 82人、スワートのミンゴーラで 4人、スワートの北西の行政区であるディール地方で 10人とされています。また、各地域の死者数と負傷者数の合計はそれぞれ 220以上、および 500以上とされていました。被災地域は北部だけで、全国的には特に混乱はなさそうなので、予定どおりクエッタ(Quetta)に行くことにします。これまでにラーワルピンディより北のエリアには何度も訪れているのですが、ラーホールより南の地域には一歩も出かけたことがありません。ピンディとペシャーワルを結ぶラインより南側は概ね乾燥した平原や丘陵ばかりで、私の調査目的とはほぼ無関係です。その西側のバローチスターン州には一般的な意味での観光の対象になる場所も少ないので、このまま帰国すれば二度と訪れる機会はなさそうに思えました。そこで、同州の州都であるクエッタに行ってみることにしたのです。バローチスターン州はパキスタンの南西部を占めていて、4つの州の中では面積が最大ですが、当時も今も人口は最小です。人工密度が低い理由はグーグルマップを「航空写真」に切り替えて眺めていただければわかります。州のほとんどが極端に乾燥した土地なので、農耕に適した場所が極めて少ないのです。街らしい街は州都のクエッタの他にはイラン国境に近いザーヘダーンくらいしかありません。私には「人が少なくて空気が乾いている」場所に惹きつけられる傾向があるのですが、その理由は未だにわかりません。
123. クエッタ観光
14:30 発の便に搭乗し、16:15にクエッタ空港に到着しました。空港の建物を出るとすぐに道路で、あたりには何もありません。近くに居たオートリキシャに乗り、市街地中心部の南側にある Shee’s Hotelまで移動します。料金は 50 ルピーでした。Shee’s Hotel のシングルルームは一泊225ルピー(約1500円)で、シャワーはお湯が使えて暖房も完備していました。部屋を確保したら周辺を散策します。
クエッタの街で通りを歩いている人はほとんどが「おじさん」です。ラーホールやラーワルピンディでは女性の姿を見かけることも珍しくはありませんが、ここでは皆無です。そのおじさん達は鼻梁と両眉を結んだT字のラインが高くて彫りの深い顔立ちです。当時の市街地は、中心部を除けばまだ建設途上にあり、高い建物が少ないので青空が抜けてよく見えました。
クエッタの中心部は北東南西に伸びるジンナーロードとそれに直交するイクバールロードの周辺だけです。直径 1 km の円内にほぼ収まってしまいます。もちろん現在はもっと広がっているはずです。二本のメインストリートの名前は、それぞれパキスタンの建国に貢献した偉人です。ジンナーロードとイクバールロードの交差点付近は「カンダハールバザール」と呼ばれる商店街です。カンダハールは隣国アフガニスタンの主要都市の一つで、アフガニスタンの内戦が激化する以前はクエッタからカンダハールへ国境を越えて行き来することができました。旅行者にとってクエッタはアフガニスタンに入国するための準備を整える拠点であったので、観光資源がなくても外国人が往来していたようです。しかし、当時は国境が閉鎖されていましたので、自分以外に通りを歩いている旅行者を見かけることはありませんでした。下の画像は市街地から北西にある国境方面を見ています。写っている山波の奥にもう一つ別の山地があり、その向こう側がアフガニスタンです。
辺境の町の雰囲気を味わいながら歩いていると、角地のお店の商品に目が止まりました。羊の脚を串刺しにして炭火の周りに並べて炙っています。ガイドブックによると「サッジー」という名のご当地の名物料理でした。鶏の「もも焼」なら日本にもありますが、このサイズのもも焼はワイルド過ぎます。もちろん食べてみたかったのですが、大きすぎて確実に食べきれません。もし中が生焼けでお腹を壊したらめんどくさいことになります。上部スワート滞在中にひどい下痢に悩まされた記憶が挑戦を思い止まらせました。ジンナーロードから横丁に出たり戻ったりしながら、ゆっくりと北東に進むと Gul Inn という立派なホテルの一階の全フロアが絨毯の店になっているのを見つけました。明日冷やかしに立ち寄ることにします。この日はカンダハールバザールの手前で引き返しました。
124. カーペット購入
2月3日 クエッタ市街をジンナーロードから東寄りのごちゃごちゃした横丁に出入りしながら彷徨い歩きます。Quetta Archeological Museum(クエッタ考古博物館)への案内看板が目に入ったので、フラフラとそれに従って東に進むとありました。入場料は 1 ルピー。館内には素人の私にとってはあまり興味を引くものがなくて、何を見たのか覚えていません。この博物館は、現在は市街地の北西の郊外に移転しているようです。北寄りに進路を変えてイクバールロード方面に向かいつつバザールを徘徊します。カンダハールバザールの中心部に進むと、やたらと人が増えてきます。好き勝手な方向に歩いている大勢の人の中を荷車やオートバイが無理やり通るので、下の画像のようなカオス状態になってしまいます。私はこの手の「人混み」は苦手なのですが、どういうわけかバザールのカオスに潜り込むのは平気というか、むしろ好きな方です。
イクバールロードにぶつかったところで左折してジンナーロードに戻り、北東に進んで橋を渡った先の丁字路を左折すると Quetta Serena Hotel に至ります。ここは高級ホテルチェーンのセレナグループのなかでも一際高い料金設定で、たしか当時でも一泊 2000 ルピー以上だったはずです。このホテルは外壁を当地の伝統的な家屋に似せて黄土色の土壁風にしています。とはいえ、この小綺麗な外観はクエッタの町そのものとは異質です。何しろ「お茶」程度でも高そうなので、私は外から眺めるだけにしておきました。次に、昨日見かけた絨緞屋に向かいます。
Gul Inn の 1 階 は駐車場のようなガランとしたスペースになっていて、そこの壁、柱、床に手織りの絨緞が並べられています。ラーホールやペシャーワルの絨緞屋を覗いたことがありますが、ここの絨緞は大きい街で売られているものとかなり違っています。色合いが地味で、織り出されている紋様が粗削りであるように感じます。一通り眺めていると、一畳より少し小さめで素朴なデザインの一枚に目が止まりました。他のものとは何か違う雰囲気が気に入り、近くに座っているターバンを巻いた老人に声をかけてみます。アフガニスタン製で、駱駝の毛だけで織り上げられているそうです。普通の手織り絨緞はパイル部分が羊毛か絹であっても、縦糸は木綿です。珍しさに釣られて手に入れたくなってしまいました。値段を聞いてみると 2000 ルピーとのこと。バザールで売手が旅行者に提示する値段は適正価格よりも相当に割増されているはずです。「値切り」を試みると、すぐに 1800 になりました。1500 で買えると踏んだのですが、1700 (約 1 万円)で下げ止まります。そもそも絨緞の実勢価格を知らないので、交渉の主導権を取れません。30分ほど粘りましたが、1700 で手打ちとなりました。その絨緞(下の画像)は今も自宅の居間にあります。
夕食はバザールの一画にある Farah Restaurant でマガズ(羊の脳味噌のカレー)とプラオ(炊込みごはん)をいただきました。このお店のマガズはあっさりしているのにとても美味だったことを覚えています。見た目は「麻婆豆腐の豆腐を潰してよく混ぜた」ようなものです。しかし、口にはいったときの感触が豆腐よりもクリーミーで、味わいも奥深さを感じます。羊の肉は独得の臭みがあるのですが、脳味噌には臭みがありません。残念ながら、日本のインド系レストランのメニューに「羊の脳味噌カレー」と書かれていても、それを注文する気になる人は少ないでしょう。
2月4日 再びカンダハールバザールを徘徊し、そのまま空港に向かって飛行機でラーホールに戻りました。帰りの便の記録が残っていなくて、時刻などは不明です。
...つづく
Indexに戻る