105. インダス川沿いの調査3
 11月6日 今日から Dasu の下流側に進みます。Kiru の南東(Dasu から約 25 km)で、カラコラムハイウェイは北西から合流する支流の深い谷に阻まれる形で北西に大きく迂回します。迂回路の導入部はイチローの遠投なら反対側まで届きそうな距離ですが橋はありません(下の画像)。この迂回部分の南側奥から調査を始め、Pattan のバザールの手前まで進み、合計9箇所から岩石の試料を採取しました。露頭は角閃岩とそれに貫入するペグマタイトばかりで、岩石の種類としては Dasu より上流側と全く同じです。でも、このあたりの角閃岩は北部よりも「面構造」が発達しています。Kiru あたりから南側では、角閃岩を構成する鉱物粒の方向がよく揃っていて、それが面構造を構成しています。変成岩にこの種の明瞭な面構造があるということは、その岩石が流動的に変形したものであることを示しています。


 11月7日 昨日の調査範囲から Dasu に戻る方向に調査し、合計10箇所から岩石の試料を採取しました。この日の調査範囲には下の画像のような露頭がありました。角閃岩にペグマタイトの岩脈が入っているのですが、岩脈が曲がりくねっています。この岩脈ができた当時は、固体の角閃岩が割れて液状のマグマが注入されたのですから、その下の画像のように岩脈はもともと平板状であったはずです。最初からぐにゃぐにゃの状態に仕上がったとは考えにくいのです。折りたたまれた岩脈の凹凸の方向は周囲の角閃岩の面構造とほぼ平行であるように見えます。これは、角閃岩に面構造を生じるような変形が起きたときに、角閃岩と岩脈が一緒に変形した結果であると解釈できます。従って岩脈ができたのは変形より前です。一方、平板状の岩脈が面構造を分断している場合は、岩脈ができたのは変形の後であるはずです。このことに気づいたのはパキスタンに留学していた当時よりもずっと後のことです。経験不足のため、岩脈の構造の意味にまで考えが至りませんでした。後にパキスタンを再訪した機会に変形前と変形後のペグマタイト岩脈をそれぞれ系統的に採取して年代測定を行ない、年代値で挟み撃ちにすることで「変形作用の時期」を割り出すことを試みました。その結果は、コーヒスタン島弧の角閃岩が流動的に変形したのは約1億年前から約8千万年前までの間であることを示しています。次の論文に記載しています。(Yamamoto et al., 2005 )




106. インダス川沿いの調査4
11月8日 Kiru の北東側から Dasu に戻る方向に調査し、合計10箇所から岩石の試料を採取しました。このあたりの角閃岩の露頭は凹凸だらけでモコモコしているように見えます(下の画像)。凸状の部分はラグビーボールのような形になっていて、その内部は面構造があまり発達していません。ラグビーボールを避けて流れているように見える部分も同じ角閃岩ですが、こちらには面構造がよく発達しています。ラグビーボールのような部分の大きさは人の拳くらいから自動車くらいのものまでいろいろです。もっと大きいものもあるかもしれませんが、露頭そのものより大規模だと認識することはできません。このような構造は、角閃岩の流動的な変形が一様に生じたものではなくて、変形の影響が大きいところと小さいところが存在し、全体として不規則な網目状になっているものと解釈できます。当時は勉強不足でこのような不規則な変形構造をどう扱えばいいのかわかりませんでした。後にラグビーボールのサイズ(長径と短径)を片っ端から測るという方法を試してみて「やれそうだな」というという手応えがあったのですが、その調査方法を実行できずに今まで過ごしてしまいました。



107. インダス川沿いの調査5
11月9日 Dasu の南西側の4箇所から岩石の試料を採取しました。このあたりにはペグマタイトの岩脈がやたらと多く貫入しています。露頭表面の半分以上を岩脈が占めていて、母岩の角閃岩のほうが「少数派」になっていることもあります。こうなると、「角閃岩に貫入するペグマタイト岩脈」と言うよりは「ペグマタイト岩体中の角閃岩の捕獲岩」と言うべきかもしれません。ペグマタイトの中に散らばっている角閃岩の破片を寄せ集めると、概ね元の状態に戻せそうです。この場合、ペグマタイトの貫入は角閃岩の変型(面構造の形成)よりも後ということになります。






...つづく

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