90. パシュトー語
 コーヒスタン地方に長く滞在していて、この地域の共通語の役割を果たしているのは「パシュトー語」であることに気がつきました。地元のコーヒスタン人の母語は「コーヒスタニー語」なのですが、居住地域ごとに日常用語のレベルから異なっているようです。たとえばバーレーンの住民と、上流部のカラーム(当時は車で1時間程度の距離)の住民はそれぞれの母語では互いに話が通じないので、パシュトー語で意思疎通しているそうです。険しい山岳地帯なので、道路が整備される前は居住地の間での交流はほとんどなかったようです。パキスタン建国後にウルドゥ語が公用語と定められていますが、私が滞在していた当時はこの地域ではウルドゥはあまり通じませんでした。そこでホテルの従業員(まだ子供ですが)からパシュトー語を少しだけ教わったので、ここに紹介します。10歳くらいの少年がしゃべるのをカタカナで記しています。私の耳で聞き取れた(と思った)音そのままですから、語学的に正確なものではありません。末尾に「↑」が付いているのは語尾を上げるような発音です。

チャイ ウスカ     お茶をどうぞ。
チャイ ウスキ↑    お茶はいかがですか?
ウボ ワルカ      水を持ってきて。
スタ サ ヌーン ディ あなたのお名前は?
タラ カムゼ ギー   どこから来ましたか?
ダル タラーシャ    こっちへ来なさい。
ラー ザー       あっちへ行け。
パシュトー ポエギー↑   パシュトー語を話せますか?
パシュトー ニ ポエギー パシュトー語は話せません。
カムラ シタ↑      部屋(ホテルの空室)はありますか?
カムラ ニ シタ     部屋はありません。
ソー ペイシー リー  いくらですか?(商品の値段を聞く)

単語
ブラール(父親)、ムーラ(母親)、スパイ(犬)、ストーレ(星)、イシュポグマイ(月)、サルタック(ハンマー)


ヨー(1)、グワ(2)、ドレ(3)、サロール(4)、ピンゾ(5)、イシュパブ(6)、ウオ(8)、アト(8)、ナハ(9)、ラス(10)、
ヨーラス(11)、ドーラス(12)、デャーラス(13)

 私たちが外国人に日本語を教えようとするとき、わざと下品な言葉を言わせることがあります。私の相手をしていた少年たちも、その手の言い回しを私にしゃべらせることで大喜びしていました。たとえば次のようなものです。

タバ マルシェ  くたばれ!
コナ ワルカ   ケツをもってこい!(真意は相当に下品であるようです。)

 ついでにバーレーンのコーヒスタニー語の単語はこのようなものです。
プチャ(男の幼児)、プチィ(女の幼児)、マシューム(子供)、ゲル(ロティ)

 「パシュトー語の教科書」と呼べる本はアマゾンで検索しても5点ほどしか見つかりません。どれも1995年以前の出版です。入手するには古書として流通しているものを見つけるしかありません。情報が極めて乏しい状況ですから、上に示したわずかな事柄でも何かの役に立つかもしれません。ただし、実際に使ってみて「通じなかった。」と言われても責任は持てません。
 パシュトー語を母語とする民族集団はパシュトゥーン人と呼ばれます。パキスタンの北西部から国境を跨いでアフガニスタンの東部と中央部の南寄りの地域に居住しています。「パシュトゥーン」という言葉は発声と聴き取りの際に変化し易いようで、パシュトゥーン人の呼称にはパクトゥーン、パフトゥーン、あるいはパターンというようなバリエーションがあります。どのような経緯があるのかわかりませんが、「アフガーン」もパシュトゥーンとほぼ同義であるようです。「アフガニスタン」は「パシュトゥーン人の国」ということを意味します。

ザマーンの言葉遊び
 ポーター兼ガイドとして何度も雇っていたザマーンは、リズムに乗って繰り返すような言葉使い(音楽の「ラップ」のような感じ)をよくやっていました。パシュトーやコーヒスタニーで喋っているときは理解できないのですが、ウルドゥーを使っているときはそのいくつかを聴き取ることができました。ある名詞を普通に発音した後に続けて先頭の子音を"m"に変えて繰り返して発音します。この言葉遊びが一般的なものなのか、ザマーン固有の癖なのかはわかりませんでした。

ペエサ メエサ(ペエサ=お金:ウルドゥー語の「パイサ」が訛ったものか?)
パッタル マッタル(パッタル=石)
タンブー マンブー(タンブー=テント)
サマン ママン(サマン=荷物)
ロティ モティ(ロティ=パンもしくは「食事」のこと。日本語の「ごはん」に近い。)


91. ペシャーワル経由ラーホール往復
 9月23日 市街地に戻らないと入手できない物資が不足していることと、現金を補充する必要があることから、ペシャーワル経由でラーホールまで戻って準備を整えることにしました。調査用の荷物とオートバイをハーン・ザダの宿に預け、ペシャーワルへ向かいます。9:50にミニバスでバーレーンを出発、11:00にミンゴーラ着(10 ルピー)、バスを乗り換えて14:00にペシャーワルに到着しました(25 ルピー)。

 9月24日 ペシャーワル新市街のサダルバザールに出かけます。ここには布地を扱う店が並んでいる通りがあります。何軒かを覗いて冬用のジャケットを仕立てるための布地を入手しました。くすんだ緑の厚手のウール1ヤード(300 ルピー)と裏地用のポリエステル1ヤード(25 ルピー)です。これでパキスタンの男性がよく着ているチョッキ(ベスト)を作れます。既製品のチョッキを買ったことがあるのですが、自分にぴったりのサイズで仕立ててみたくなったのですこのチョッキですが、私の耳には「バスケット」と呼ばれているように聞こえます。どうやら英語の"waistcoat"が訛ったもののようです。都市部ではあまり見かけませんが、地方に行くと成人男性はたいていバスケットを羽織っています。他に木綿の作業ズボンを15 ルピーで買い、仕立屋が並んでいる通りに持って行って裾上げをしてもらいました(6 ルピー)。バザールには通りごとに専門店が並んでいるので、その場所さえ把握できれば必要としているモノとサービスを効率よく入手できます。買い物を終えたらバスでイスラマバードへ移動しました。





 9月25日 ジンナーバザールの写真屋へ行き、撮影済みのリバーサルフィルム5本とネガフィルム1本を現像に出します。「フィルムを現像に出す」というのは、もはや40歳くらい以上の人にしかわからないでしょう。7月の記述(65)で説明したように、なるべく早く現像しておきたかったのです。用事を済ませたら空港に行き、ラーホールまで飛行機に乗ります。当時の道路事情では一番早い車種のバスでもイスラマとラーホールの間は6時間くらいかかりました。最初にエアコン付きのバスに乗ったときはけっこう楽しめましたが、車窓から見えるのは乾燥した平原ばかりなので、二回目以降はすぐ飽きてしまいます。何時間も何もせずに座っているだけというのはかなりの苦痛です(途中に1回の休憩あり)。そこで、試しに飛行機を使ってみることにしました。留学中のメモに料金と所要時間の記述が見つからないので正確ではありませんが、600 ルピー程度で、飛行時間は40分くらいだったと思います。離陸して少し落ち着いたらすぐに着陸のアナウンスという感じです。

 9月26 - 28日 26日にラーホール中心街の銀行で奨学金の受け取り口座から1000 ドル分で21717 ルピーを引き出しました。これから地質調査が終盤に入るので、お金を使うことで労力を省ける(移動に飛行機を使うなど)ならそれで効率を上げようと考えたからです。奨学金を余らせて日本に持ち帰ってもあまり意味がありません。ラーホールには28日まで滞在して雑用を済ませました。

 9月29日 ラーホールからイスラマバードまで飛行機で移動。ジンナーバザールの写真屋で現像済みのフィルムを受け取り、新しいフィルムを購入します。どういうわけか思い出せませんが、9月後半あたりから記録が雑になっていて、移動の際の出発、到着の時刻や使った金額が書かれていないことが多くなっています。パキスタンでの行動に慣れてきたのと、資金が足りなくなる恐れがほぼなくなったことで細かい記録をつけるのが面倒になっていたのかもしれません。

 9月30日 イスラマバードからスワートのサイドゥ・シャリフ空港まで飛行機で移動し、リキシャに乗ってミンゴーラのバスターミナルに行き、あとはいつものミニバスでバーレーンに到着しました。これは後で述べるラーワルピンディのバスターミナルからミンゴーラまでボロいバスに乗るよりはるかに楽です。バーレーンでは定宿として利用しているHotel Zahoorに泊まります。オートバイと荷物は問題なく保管されていました。


92. 総選挙
 10月1日 宿に篭って次の調査の準備をしていると、表通りが騒々しくなってきました。拡声器で何やら演説している人がいるようです。表に出てみると向かい側のホテルの中庭に演壇が据えられていて白髭の老人が何やらしゃべっています。演壇の周囲には多数の男性が集まって演説を聞いています。宿のオヤジに聞くと「選挙活動が始まった」ということでした。1990年8月6日に当時のイスハーク・ハーン大統領がベナジール・ブットー首相を解任したことによる総選挙です。演説が終わると党派の旗を掲げた車の列が登場して表通りをゆっくりと進みます。選挙活動期間は10月1日から22日までとなっていたはずです。パキスタンの選挙活動は日本よりもずっと激烈です。自分たちが支持している候補の当落は、後の政策が自分たちに有利になるか不利になるかに大きく影響すると考えられているからです。選挙があると、都市部では対立する候補の支持者集団が衝突して死傷者が出たり、選挙活動のデモやパレードの際に参加者の一部が暴徒化することがあるようです。バーレーンは田舎ですし、町をあげて一つの政党を支持している様子です。支持者集団が衝突するような事態はありませんでした。暴力行為は許されないとしても、投票率がとても低いために有力候補者の基礎票で大勢が決してしまう日本の選挙事情はかなり特殊なもののように感じます。







...つづく

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