77. Gabrial 方面の調査1
 8月16日 シリカート方面の調査がうまくいったので、次はカンディア川本流を遡ってGabrial(ガブリアール)と呼ばれているところまで、泊りがけで行くことにします。ガブリアールは、スワートのバーレーン滞在中に「カンディアに行くのでポーターを探している。」と宿のオヤジ(ハーン・ザダ)に相談したとき、「カンディアに行くならガブリアールを訪れるべきだ。とても美しいところだ。」としつこく聞かされていましたので、とにかく行ってみるつもりでした。ザマーン、ワドゥドの他にアフマド・サイヤドという小太りの男をポーターとして追加しました。アフマドはガブリアールとその奥のMaidan(マイダーン)に行ったことがあるというのでガイド役を兼ねてもらいます。ガブリアール方面はパシュトー語が通じるらしいので現地ガイドは雇いません。アフマドはザンビルでテント暮らしをしている自称「道路工事技士」の3人のうちの一人で、前回雇ったヤー・サイヤドの父親とのことです。この道路工事技士たちは一日中テント内でゴロゴロしているか、ザンビル周辺をぶらぶらしています。道路を作るために何かをやっている様子はありません。彼らがどのような理由・目的でここに滞在しているのか全くわかりません。
 朝7時過ぎにザンビルのベースキャンプを出発。危険なザングーで川を渡り、西(上流側)に進むとKarangの警察署の前を通ります。そのとき、手錠に腰縄をつけられた髭面のおじいさんが警官に連れられて行くのとすれ違いました。詳しいことはわかりませんが、銃で人を撃ったのだそうです。映画やテレビの映像ではなくて、本当に「手錠をかけられている人」を目の当たりにしたのは、後にも先にもこのときだけです。


 カンディア谷はインダス川との合流点付近は狭くて深いV字型ですが、TutiからKarangあたりまでは谷底が平らで広くて開放的になっています。数キロメートルおきに谷の側面に扇状地が発達していて、そこに段々畑と小さい集落があります。Karangもそのような開けた扇状地に立地する村です。カンディア谷はその先で急激に狭くなり、道は岩壁の水際ギリギリを通っていたり、山側に迂回して再び水際に戻ったりします。所々に木造の橋が架かっています。カンディア川の主流はKarangまでは濁った感じの灰色なのですが、Kannyuあたりから透明感のある「水色」になります。





 12:00丁度にRichaoという村に到着しました。RichaoはKarangよりは少し狭いものの扇状地の上に段々畑が広がっています。畑にはトウモロコシが大きく育っていて、もうすぐ収穫できそうな状態です。今日は、ここの学校に泊めてもらうことにします。学校は、機械で製材したものと思われる板材で作られていて、この辺りの100%手作りの民家よりもずっと立派なものです。でも生徒も先生もいません。この日が「休み」という感じでもなくて、そもそも授業が行われている雰囲気が全くないのです。学校の建物には、「この学校を建てた責任者」を自称する男性1人と彼の使用人と思われる男性2人が住んでいます。自分の下手くそなウルドゥ語からパシュトー語への通訳では詳しい事情はわかりません。そういえば、カンディア谷に入った初日(8月3日)はKangluのはずれの学校らしき建物の軒先を借りて泊まりましたが、そこも日常的に学校として使われている気配はありませんでした。
 ザマーンとワドゥドが準備したロティとサブジー(野菜カレー)で昼食を済ませた後、数時間かけて周辺を調査しました。夕食は昼の残りのサブジーにダル(豆のカレー)追加します。砂糖が充分にあるので、しっかりと甘くしたチャイを飲めます。


78. Gabrial 方面の調査2
 8月17日 プラタ(ロティの生地を油で「揚げ焼き」にしたもの)とチャイで朝食を済ませ、6:40に出発。7:20にBaligoという村を通過します。ここにも建設途中の「学校」があります。カンディア谷では村ごとに学校が建てられているようです。それぞれの村の規模から推定すると、村ごとに学校が必要になるほどの子供が居るとは思えません。それに、僻地の農家では子供も「労働力」ですから、学校があっても日常的に通学させるのは難しいでしょう。カンディアよりもずっと開発が進んでいて豊かに見えるスワートの住人であるザマーンは1年くらいしか学校には通っていないそうです。さらに、ここに赴任してくれる教員の確保も相当に難しそうです。想像の域を出ない話ですが、要するに政治家か役人がいいかげんに立案した「学校建設計画」が粛々と進んでいて、できた学校が機能するかどうかは全く顧みられていないのでしょう。いわゆるお役所仕事の典型ではないかと思われます。
 8:30にMir Shahiという村を通過したところで、持参していた地図に描かれている領域の北限に達してしまいました。地図がなければ調査してもデータを書き込めません。今ならGPSで移動経路を記録できますが、民生用のGPSはその頃には存在していません。昨日のたった半日の行動で Richao に着いた時点で地図が足りなくなることは予想できていたのですが、もはやどうしようもありませんでした。その地図は20万分の1の地形図に描かれている水系の線を手作業で5万分の1相当に拡大したものです。当時のパキスタンで普及していたコピー機は画質が劣悪で、地図を拡大コピーしても使い物になりません。20万分の1地形図上で水系線の距離と方角を測って方眼紙の上で4倍化したのですが、実につまらなくて骨の折れる作業です。これほどの奥地まで容易に到達できるとは予想していなかったので、拡大図を描くときに「この辺までで足りるだろう。」と安易に見切りをつけてしまったのです。地図がないので地質調査は断念し、とにかくガブリアールまでは行ってみることにします。というのも、バーレーンのハーン・ザダが言っていたとおり、カンディア谷は上流に進むほど風景の美しさが増してくるのです。人が入念に手入れをした庭園のようであり、月並ながら「桃源郷」という言葉を思い起こさせます。12時ごろにガブリアールに到着。集落の中に入っていくと、立派なヒゲを蓄えたおじさんが近づいてきて、小高い丘の上にある民家に招き入れられました。この地区の有力者のようです。




 「この家で昼食」という流れに身をまかせ、サブジー(野菜カレー:このときは名称不明の菜っぱ)、マッカイロティ(トウモロコシ粉のロティ)、ラッシー(ヨーグルトを水で薄めてシェイクした飲み物:普通は甘く味付けするが、砂糖が貴重な地域では塩味)にチャイをご馳走になりました。昼食後に行動を再開しますが、何しろ地図がないのでどのくらい進んだのか全くわかりません。地図なしでウロウロしている状態は遭難しているのと同じです。「この先を見たい」という好奇心と「これ以上は危険」という警報が頭の中でぐるぐる廻ります。ガブリアールから2時間くらい歩いたところで「バネー」という小さな集落を通過します。そこが日暮れまでにガブリアールに戻れるかどうかの時間的な分岐点です。頭の中では警報の方が優勢になっていたので、そこで引き返すことにしました。ポーター達に、「ナクシャ、ニシタ、ワーパス(地図、無い、戻る)」とウルドゥー語とパシュトー語のごちゃ混ぜで指示します。今回限定で雇ったガイドのアフマドはマイダーン(とても美しい場所であるらしい)まで行くつもりで張り切って歩いていたのでとても残念そうにしていますが、仕方ありません。18:00にガブリアールに戻り、お昼をいただいた民家の離れに泊めてもらいます。夕食には昼のメニューに加えて持参の米を炊き込みご飯にしたものをいただきました。

79. Gabrial 方面の調査3
 8月18日 プラタとチャイで朝食を済ませ、7:35に出発。地質調査をしながら来た道をゆっくり戻り、13時頃に Richaoに着きました。そこの民家に呼ばれて昼食(マッカイロティ、サブジー、チャイ)をご馳走なり、行きがけに泊まった学校の建物に再び泊めてもらいます。Richao周辺を調査して戻ってくると、学校の敷地の裏の川原で白い髭を蓄えた老人と壮年の男がライフル銃を試射していました。白髭のほうは 30 mくらい離れた岩の窪みに置いてある直径 3 cmくらいの鏡を狙って一発で命中させました。壮年の男は同じ場所に壊れた腕時計を置き、同じく一発で文字盤を撃ち抜きました。当時の私は視力が 1.5くらいはありましたが、30 m 先の腕時計は点にしか見えません。カンディア谷を含むコーヒスタン地方では銃の手入れをしたり、試射をやっているのをよく目にします。一般的な意味での娯楽がないところですから、大人の男性にとっての暇つぶしは「銃いじり」くらいしかないのでしょう。このときは白髭に手招きされて、銃を手に取ってみることができました。銃床は木製で銃身に"BRNO Czechoslovakia”と刻印されています。シリンダーボルトを手で操作するタイプで、1発撃つたびにボルトを引いて薬莢を排出させます。後で調べてわかったことですが、チェコ共和国(「チェコスロバキア」から分離)にブルノという都市があり、そこの銃器メーカーが製造したもののようです。
 銃をいじっていると白髭が身振りで「撃ってみろ」と促すので、実弾を装填してもらって銃口を斜め上に向けて発砲しました。銃自体が重いせいか意外と反動は少なかったと記憶しています。ところで、この手の銃の発砲音は想定よりもずっと「軽くて乾いた」感じです。映画やテレビドラマで耳にする派手な銃声とはかなり違います。



80. Gabrial 方面の調査3
 8月19日 7:20にザンビルに向けて出発。地質調査をしながらでしたが、14:00には到着しました。ザンビルには見慣れたダルソンではなくてスズキが停まっています。どうやら道路の決壊箇所が復旧しているようです。カミラまで乗り換えなしで行けます。何事もなかったように平穏な感じのザンビルですが、我々が到着する少し前に雑貨店の店主と客の男の間で諍いがあり、口げんかから銃撃戦に発展して店主が客に足と胸を打たれたのだそうです。3時すぎに包帯でぐるぐる巻きのミイラ状態になった被害者が担架でザングー乗り場に運ばれて行きました。この地域で唯一の病院が対岸の Karang にあるとのことです。「本物の銃で撃たれた人」の姿を見たのは後にも先にもこのときだけです。カンディア谷滞在中の銃撃事件はこれで二つ目です。ザンビルの雑貨店というのは下の画像にある石の壁で囲った小屋です。3軒くらいあったと思います。その裏手に見える三角の小さいテントが私のものです。



 8月20日 今日は完全休養。朝食の調理はめんどくさいのでビスケットとチャイで済ませ、昼食は下界から持ってきた中華の乾麺をうどん風に仕立てました。暇なので周辺を散策すると、ザマーンとワドゥドが野ぶどうを見つけて収穫してきました。食べられますが、栽培品種のような甘さはありません。続いてイチジクの木があり、ワドゥドがよじ登って実(生物学的には花ですが)を採ってきました。こちらも野生種なのか、おいしいものではありませんでした。夕食は調理に時間をかけて超豪華メニューにします。下界から持ち込んだ食材を使ってダル(豆のカレー)とロティ(もちろん小麦粉のやつ)に近くの農家から買ってきた鶏をつぶして煮込みました。チャイは砂糖を大量に投入して甘くします。




...つづく

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