64. 調査中断
 7月12日 バーレーンより南方をバイクで調査。宿に戻ってから、この宿で働いている少年との雑談を通して、スワート渓谷の民族的な棲み分けがある程度わかりました。何の話題からそうなったのかは忘れてしまいました。スワート地方の中心都市であるミンゴーラは、パターン(パシュトーまたはパフトー)と呼ばれるペルシャ系民族の町です。パターン人は現在のアフガニスタン主要部とパキスタンの北西部に居住していて、アフガニスタンでは最大多数派です。スワート渓谷を遡っていくと、ホワザヘラを経てマディヤンまではパターン人が住んでていて、バーレーンから上流はコーヒスタン人が住んでいるそうです。マディヤンから東に分岐するスワート川の支流の上部にあるミアンダム(Miandam)という集落はパターン人とコーヒスタン人が混在しているようです。西から移動して来たパターン人が農耕に有利な地域を占め、渓谷の原住民だった人たちは山岳地域に追いやられて「高地の人」という意味の"Kohistani"と呼ばれるようになったのだと思われます。
 7月13, 14日 重い倦怠感と下痢のために調査行動を断念しました。やることがなくてあまりに暇なので、宿の直下の川で釣りに挑戦しましたが、一匹も釣れませんでした。下痢は夜になっても止まりません。これだけしつこい症状が繰り返すのは疲労のせいでお腹をこわしたのではなくて、感染性の病気であろうと思われます。普通の整腸薬では改善しそうにないので抗生物質を服用することにしました。翌14日も行動できませんでした。
 7月15, 16日 体調が回復せず、これ以上「休み休みの調査」を続けても時間の無駄になると判断し、ラーホールに戻ることにしました。スワート渓谷上部地域の調査は終えていましたし、マディヤンより南では積雪はなさそうなので、残りは秋以降でもできます。調査用具とバイクはそのまま宿に預けます。15日にミンゴーラのホテルに泊まり、16日にバスを乗り継いでラーホールまで戻りました。この行程はすでに説明済みなので省略します。


65. 調査再開のための準備
 7月17〜28日 下界に降りてくるとお腹の具合は数日で平常レベルに回復しました。下痢は6月末ごろから直ったと思ったら再発する状態を繰り返していましたが、7月22日以降は再発の兆候はありません。夏の内に高地の調査をやっておく必要があります。体調の回復を図りながらも、先の調査の後始末と次の準備をしなければなりません。まず、調査結果を記入した地図をコピーして元本は東京の吉田先生宛に書留で送ってしまいます。当時は実用レベルのコピー機は都市の中心部にしかありませんでした。調査データを失うことは絶対に避けねばなりませんので、複製して自分の手元以外の安全な場所に置いておく必要があります。それから、撮影済みのフィルムを現像に出します。当時の写真はフィルムの表面に塗られた薬剤が光を受けたときの瞬間的な化学変化で画像を記録しています。撮影済みフィルムを高温下で放置すると薬剤が劣化してしまいますから、できるだけ早く現像しなければなりません。前にも述べましたが、研究用のリバーサルフィルムを扱える写真店はラーホールやイスラマバードなどの大都市にしかありませんでした。実用レベルのデジタルカメラが個人で買えるようになるのはまだずっと後のことです。
 日付の記録が残っていないのですが、地質学科に出向くとシャムス教授から「調査結果を報告書に纏めて提出するように」との指示がありました。報告書となるとA4一枚に適当に書きなぐって出すわけにはいきません。それなりの分量の英文を「手書き」するのはめんどくさいなと思っていたところに、隣の事務室でイクバール氏がタイプライターを使っているのが目に止まりました。彼は各種の事務文書をライプライターでパタパタと仕上げて教員や学生に渡していました。そこで、Old Campus の周辺にある文房具店を物色して中古のタイプライターを調達してきました。値段は900ルピーだった(6500円程度)はずです。次の画像のような感じのものですが、このとき入手した現物の写真を撮っていなかったので、画像はフリー素材のサイトから引用したものです。クリックすると引用元に移動します。これを使ってA4数ページ分の報告書を書いて提出しました。手動のタイプライターで文書作成をしたことがある人は日本では私と同世代の方でもほとんどいないのではないかと思います。ちなみに、当時のラーホールでは停電が多かったのでパソコンとプリンターは使い物になりません。日本でもパソコンが文字どおり「個人」レベルまで普及するのはもう少し後のことです。




 このような雑用をこなしつつ次の調査対象地域を検討し、カンディア谷(Kandia valley)に行くことにしました。コーヒスタン地域についての既存の文献では、インダス川とスワート川に沿う狭い範囲は比較的詳しい情報が記載されています。川沿いに舗装道路が整備されているので調査するのはそれほど難しくはありません。日本の大学院生がウロウロしているくらいですから、この時点ですでに多数の「プロ」の研究者が訪れていたでしょう。これらの川に挟まれた領域はコーヒスタン地域の地理上の広がりの中央部にあたるのですが、当時は「地質調査の空白域」でした。カンディア川はインダス川から西に分岐する支流で、その流域はコーヒスタン地域中央部の全域に渡っています。空白域を埋めるにはカンディア渓谷を遡るしかなさそうに思えました。何しろ空白域ですから、地質調査ができるような状況なのか行ってみなければわかりません。限られた資金と時間を投入しても無駄になるかもしれませんが、「誰も調査したことがないところをやってみたい。」という気持ちが勝りました。下の地図の青い線がカンディア川の流域です。




 7月29〜31日 29日にラーホールからイスラマバードまで移動し、翌30日にミンゴーラのHotel Pameerでエアコン、バスタブ付きの快適な部屋に泊まり、翌31日にバーレーンのHotel Zahoolに到着しました。
 8月1日 今日は「ムハッラム(イスラム教の暦の第一月)」の休日で、前の「イード」の休日のときのように、バーレーンには観光客が多数押し寄せてきています。宿のオヤジに頼んで、ガイド兼ポーター二人を手配してもらいました。一人はオヤジの甥のザマーン(Zaman)、もう一人はワドゥド(Wadood)という男で、木樵として働いていたことがあるそうです。ザマーンは17か18歳くらい、ワドゥドは30代後半くらいに見えます。どちらも体力は充分にありそうでした。一日あたり100ルピーの約束で傭うことにしました。もう一つ宿のオヤジに交渉してもらって、車一台を貸切りにしてカミラの対岸のダースーまで750ルピーで送ってもらうことにしました。


66. ザンビルまで
 8月2日 朝10時にスズキの乗用車(たしかセルボだったと思います。)に乗り込んで出発。以前にオートバイで越えたシャングラ峠を経て、15:10にダースーに到着しました。宿はIndus Wave Hotelの3人部屋で100ルピー。橋を渡ってカミラのバザールに出向きます。ガイド兼ポーターとして連れてきた二人はサンダル履きで、履物はそれしか持っていません。カンディア谷の奥は悪路でしょうから、靴を買って装備として渡しました。他に荷物を纏めるためのロープやキャンプ用の道具類、食糧を準備しました。
 8月3日 スズキの軽トラの荷台に座席と天蓋をつけたミニバス(通称「スズキ」)に乗って出発。車で行けるところまで行くつもりでしたが、谷に入って10 kmくらいのTollというところで道路が不通になっているらしく、その場所まで150ルピーで運んでもらうことにします。入口の吊橋を渡って、狭い谷間の石ころだらけの道をのろのろ進むと急に視界が開けて北から支流が合流しているところに集落があります(Tuti)。そこからおよそ5 km進むとトウモロコシ畑が現れます。その先で道路の土台となっていた扇状地堆積物が川の水流に抉られていました。ここでスズキを降りて崩落地点の山側を20 mくらい歩いて迂回します。上流側にはトヨタのハイラックスが客を待っていました。道路が不通になったために取り残され、そこから奥側だけで折り返し運行しているようです。それに乗り換えて70ルピーでKangluという集落まで行きます。そこに小さい学校らしい建物があり、広い屋根に覆われた軒下のようなスペースがあります。この日はそこに泊まらせてもらうことにしました。ここでは英語はもちろんウルドゥ語もあまり通用しないので、私がザマーンとワドゥドにウルドゥ語で指示し、彼らと村人とはパシュトー語で交渉するという面倒なことになっています。




 8月4日 朝7時に出発。試しに次の集落まで歩いて調査してみます。ワドゥドをガイドとして同行させ、ザマーンには30ルピーを持たせて荷物の移動を任せます。道路は川の右岸の河床堆積物の上を通っているために、道端には変成岩類の露頭はありません。対岸には立派な岩の壁が続いているのが見えますが、橋がないので近づけません。結局、ただ歩くだけで地質調査らしいことは何もできず、8:30にJe Kshwai(「ジュシイ」と聞こえるが、正確な発音は不明)という集落に着いてしまいました。ザマーンとはここで合流することにしているので、先に進むわけにもいかず、ただひたすら待つこと4時間で12:30にザマーンと荷物が到着しました。荷物を乗せたトラックが作業の都合でなかなか発車せず、時間がかかったようです。通りがかったジープの運転手と交渉して、30ルピーで道路の終点まで乗せてもらいます。15:15にザンビル(Zambil)に到着。車が入れるのはここまででした。ザンビルは、石ころだらけの広い河原で、人が住んでいるのは斜面の少し上のようです。カンディア川はザンビルの少し上流側で西に伸びる本流と南西方向に伸びる支流が分岐します。その支流を遡るとスワート側に抜けることができるはずで、そのルートは今回の調査旅行の重要な目標です。ここにはザングー(ワイヤーロープに滑車をかけて鉄の籠を吊り下げ乗物)があって左岸に渡れることと、一日以内にカミラまで戻れる場所としては最も奥地であることから、調査行動の拠点としては最適であるように思えました。また、「道路工事のエンジニア」を自称する男性3人がここにテントを張って滞在していて、ザマーンとワドゥドに余っているテントを貸してくれるということもあり、ここにベースキャンプを置くことにしました。



67.  ザンビル滞在
  8月5日 左岸に渡って日帰りで行けるところまで行くという計画でベースキャンプを出発。ガイドはワドゥドで、ザマーンは荷物の番人として残します。川を渡るにはザングーを使うのですが、これがなかなか大変な代物です。鉄の籠は大人二人がどうにか乗れる大きさで、動力はついていません。滑車を介してワイヤーにぶら下がっているだけの構造です。籠に乗ってストッパーをはずすと、ワイヤーがかかっている両岸の支点の中間点までは重力に従って自動的に進みます。そこから先は頭上のワイヤーを掴んで手繰ります。二人分の体重に鉄の籠の重量が加わるので、ほぼ全力で引かないと籠は進みません。もし途中で力が尽きたら中間点に戻ってしまい、どちらにも動けなくなってしまいます。籠を引き寄せるためのロープはついていませんから、岸から補助してもらうことはできません。そして籠の下は写真のとおりの激流です。川に飛び込んで脱出することも無理でしょう。テレビでたまにやっている「脱出イリュージョン」のような決死の条件設定になっています。私とワドゥドは途中でへたれることなく、なんとか対岸に渡れました。実際には左岸側の支点が右岸側よりも少し高くなっていて、「中間点で立ち往生」することがないように工夫されているようです。


 調査しながら左岸の道を奥へ進むとKarangという集落があります。ここは南に面した広い扇状地が段々畑になっていて、たくさんのトウモロコシが収穫を待っている状態です。対岸のザンビルは北向きの急傾斜地の麓にあるので日当たりが悪いようで、このような規模の畑はありません。Karangを通過していると集落の中心部に立派なモスクがありました。モスクはメッカの方向に面する側は普通の建物のように壁になっていますが、反対側には壁がなくて開放的な構造になっています。屋根はあるので雨が降っても問題ありません。屋根を支えている柱と軒先を飾る板には入念な彫刻が施されています。集落を抜けて北に切れ込む谷に入って調査を進めます。


 トウモロコシ畑の脇を登っていくと右手に石組みの立派な建物があり、その近くを通りすぎようとすると中から出て来た人に呼び止められ、その建物に招き入れられました。そこは警察署で、中に数人の警察官が駐在しているのだそうです。事件など起こりそうもないところ(この認識は間違っていたことが後で判明します)ですから警官も暇をもてあましているのでしょう。そこに現れた「外国人」は格好の暇つぶしの材料です。結局「茶呑み話」では済まされず、昼食までごちそうになってしまいました。想定外の用件に時間がかかったので調査を切り上げてベースに戻ります。ザンビルのザングーは、「自分の側に籠がないときは誰かが渡ってくるのを待つ」という人任せのシステムですが、幸い籠はこちら側にありました。早速乗り込んで籠が動き始めたときに事故が起きました。ワドゥドの左手の人指し指の側面が滑車とワイヤーに挟まれたのです。彼は籠に乗ったときに左手でワイヤーを掴んだ状態でどこか遠くのほうを向いていました。私は籠の前方に座っていて後ろにいるワドゥドに注意を払っていませんでした。彼の指の側面は大きく裂けて出血していたので、左腕を肩より高く上げさせてそのまま動かないように指示し、自分は二人分の体重をどうにか引き上げて渡りきることができました。ベースキャンプで彼の指を洗ってみると、5 cmくらいの傷でした。骨や関節には異常がないようですが、この傷の大きさでは医者に診せる必要がありそうでした。でも、「病院に連れて行く。」と言っても彼は頑として「こんなの大したことない。」と聞き入れません。ザマーンと騒ぎを聞いて集まった道路工事の連中も「大丈夫」と言います。怪我のことよりも病院に連れて行かれて解雇され、その後の賃金を失うかもしれないことを気にしているようです。1日100ルピーというのは、彼らにとって「かなり好条件の仕事」のはずです。仕方がないので、傷口を消毒して医療用のテープで仮止めし、包帯を巻いて様子をみることにしました。もし、傷が化膿して熱発するようなら病院送りにするしかありません。




 8月6日 怪我を負ったワドゥドを休ませ、ザマーンを連れて右岸側を調査しました。ベースに戻ってくると道路工事の連中がラジオにかじりついています。何が起きたのか尋ねると、「首相のベナジール・ブットが辞任した。(実際には大統領命令による解任)」そうです。パキスタンの政治は、極端に単純化すると「首相に対する汚職疑惑の追求」による政治的混乱→クーデタによる軍事政権化もしくは軍の傀儡政治家が首相就任→総選挙によって文民政治に移行→最初に戻る、ということの繰り返しです。もはやルーチンワークのようなっていて、クーデタが起きても国内が大きく混乱することはありません。ベナジール・ブットはイスラム諸国家のなかで初の女性首相として脚光を浴びましたが、上のような流れを変えることはできず失脚したのです。後の総選挙で勝利して首相に返り咲きますが、再び汚職疑惑によって解任され、二度目の復活を期した総選挙での活動中に暗殺されます。
 ベースキャンプには、鷲鼻のいかつい顔をした年寄りがいてワドゥドと何やら話をしていました。彼の村はこの谷の奥地にあり、自分なら山を越えてスワート側に至る道を案内できると言っているそうです。カンディア谷の奥地ではパシュトー語も通じにくくなるらしいので、地元住民のガイドはどうしても必要です。ワドゥドの傷は見た目よりも浅くて問題なさそうです。そこで、この機会に思い切って山越えルートの調査をやってみることにしました。そのシラージという名前の鷲鼻男をガイドに、暇そうにしている道路工事の連中からヤーサイヤドという一番若いやつをポーターとして傭うことにしました。ワドゥドとザマーンを含めて4人のガイド・ポーターに自分という調査隊が完成しました。それにしても、自称エンジニア達は、いつもテントに寝転がっているか周辺をぶらぶらしているだけで、工事らしいことをやっている様子はありません。下の画像は連中の一人が投網で漁をしているところです。取れた魚をもらってフライパンで焼いて食べてみましたが、泥臭くてあまり美味しいものではありません。






...つづく

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