58. 渓谷沿いの調査
 6月21, 22, 23日 バイクと徒歩で日帰りできる範囲を調査します。高地の谷間とはいえ、夏至の頃なので日差しがきつくてすぐに疲れてしまいます。道路沿いの調査に慣れてきたところで、バイクを置いて徒歩で行動してみました。V字状の谷の側面を登っていくとかなり高いところに整備された道(歩道)があります。その道を使って調査していると、どこからともなく人が現れて驚きます。何でこんなところに人がいるのかというと、後で聞いた話ですが、斜面の高いところにある道が本来の街道であって、人や物の移動に使われていたのだそうです。それで古くからの住民はこの道の近くに家を構えているのです。谷底に舗装道路が整備されて自動車が通るようになると道路沿いのほうが便利になります。それで、斜面の上の方に住んでいた人々が徐々に谷へ降りてきているようです。山岳地域を徒歩で移動することを考えると、曲がりくねった谷底に沿って歩くよりは尾根か斜面を利用してなるべく直線的に動くほうが合理的です。谷底付近は傾斜が急で岩場が多いなどの理由で昔の技術では道を通すのが難しかったいうことも考えられます。斜面の上の方にある人家や歩道は谷底付近を通る現代の道路からは見えません。そのため、何もなさそうなところでいきなり人と出会すことになるのです。


 さて、宿のオヤジが言っていた「観光シーズンで客が多い」というのは嘘ではありませんでした。調査を止めて宿に戻るのは午後遅くか夕方ですが、その時間帯にバーレーンのバザールを通過すると、当地の住民とは人相が違う人たちが小綺麗な服装でぞろぞろ歩いています。だいたいはパンジャーブ地方から避暑にやってきた人たちです。夏の上部スワート渓谷には涼を求めて低地の都市から大勢の観光客がやってくるとは聞いていましたが、これほどとは予想していませんでした。4年後(1994年)にこの地を再訪したときはもっと観光客が増えたらしくて狭い谷間にあるバーレーンで「ホテルの建設ラッシュ」が起きていました。そのとき、大金を投下して大型ホテルを建てるのは資金力のある大手ディベロッパーであり、その勢いに押されて地元の人が経営している小規模で古いホテルは経営が難しくなっていると聞きました。下の写真は河原で涼んでいる観光客です。左端の男性はAK-47を持っています。映画やニュース映像でよく見かける(主に悪役側が使っている)自動小銃ですが、観光客が持っているくらいですから軍隊・警察以外にかなり出回ってしまっているようです。市街地では一般市民がこんなふうに持ち歩いている姿を見かけることはありません。



59. 大雨
 6月24日 どんより曇った状態から大雨になり、調査はできません。ホテルの敷地のすぐ先を流れる川は茶色に濁った激しい奔流になっています。流水のうねりの一つ一つが人の背丈くらいはありそうです。夕方に雨が止んだところで川を眺めていると、濁流の水際に人が立っているのが目に停まりました(下の写真)。見ていると流されてくる木を素手で掴んで次々と岸に引き上げています。どうやったのかわかりませんが、かなり太いやつも手に入れています。薪にでもするのでしょうか?この状況で川に落ちたらほぼ確実に死にますから、流木を掴むテクニックによほど自信があるのでしょう。





 6月25日 雲行きが怪しい上に遠くから雷鳴が聞こえてくるので早めに調査を切り上げて宿に戻ると、午後4時ごろから土砂降りの雷雨になりました。日が暮れて雨が止んでからしばらくの間南東の空に稲妻が走るのが見えていました。下の写真は稲妻が見える方向にカメラを向けてシャッターを開放し、稲妻が走るのを確認したら閉じるという操作を数回くらいやっててみたものの中の二枚です。デジタルカメラなら沢山撮って不要のファイルを削除することができます。しかし当時は「一眼レフカメラ」に貴重な「リバーサルフィルム」を入れて使っていましたから無駄遣いはできません。ネガフィルム(写真用フィルムの区別は今では無意味ですが)ならバーレーンでも売ってますが、リバーサルは都会の写真専門店にしかないのです。研究用の写真は色の再現性が重視されるので、当時は色感度が高いリバーサルフィルムで撮影するのが当たり前でした。




60.  Chom Galiの遡行
 6月26日 今日はスワート川に流れ込む支流の沢を遡ってみます。比較的大きい支流にはかなり奥まで人が住んでいることがわかっています。道路から離れた奥地の住民は現地語のコーヒスタニー語しか話せません。外国人など来るはずもないところに私が突然現れたら相当びっくりさせるでしょうし、その結果不測の事態が起こりかねません。そこで、前日に宿のオヤジにコーヒスタン人のガイドを探しておくよう頼んでいました。オヤジがこの日のガイドとして私の前に連れてきたのはこのホテルで料理や給仕の仕事をしているお爺さん(Abdul Fakkim)でした。何しろ見た目は痩せた皺だらけの「老人」ですから、私が一瞬「これはまずいことになった」という表情をしたのを宿のオヤジは見逃しませんでした。得意げに「こいつは昔木樵をやっていたので山の案内には最適のストロングマンだ」と調子のいいことを主張します。仕方なく、一日ガイドとして働いたら100ルピー払うという約束で連れて行くことにしました。
 9:00にミニバス(貨物用の箱形ライトバンを改造してぎゅうぎゅう詰めで20人くらい座れるようにしたやつ)に乗って出発し、9:30に目標のChom Galiの入口で下車しました。Galiは「谷」という意味のようです。沢の流れに沿って踏み跡がついているので、それを辿って沢を遡ります。少し進むと森の中の快適な登山道というような感じになります。心配していたガイドはみかけによらない強い足取りで、サンダル履きなのに不安定な場所でもトコトコとついてきます。地元の住人に出会したときは、ガイドに「こいつは日本人でこのあたりの石を調べている。ここを通らせてほしい。」と説明させます。その台詞は事前に宿のオヤジに英語で伝え、ガイドに教えておくように頼んでいました。結果的に何も問題は起きませんでした。3時間ほど調査しながら歩くと、やはり普段あまり山を歩いていないせいかガイドが遅れがちになってきました。無理して歩けなくなったら面倒なので、13時頃に調査を止めて引き返すことにします。1時間半ほどかけて来た道を戻り、14:30に無事にバスを降りたところに着きました。とりあえず、ガイドを付ければかなり奥地でも行動出来そうだという感触を得ることができました。




61. 下痢でダウン
 6月29日 27日、28日と順調にバイクを使って調査を進めていましたが、29日の朝は起きようとすると身体がだるく、体温を測ってみると37.3℃ありました。この日は休養することにして寝て過ごしました。カレー系のスパイシーな料理を食べる気になれないので持参していた米を炊いてみましたが、あまり食欲がわかず残してしまいました。午後5時になっても体温は37.4℃とやや高めのままです。夕方になって下痢が始まると下腹部が鋭い痛みに襲われます。痛み方は以前にギルギットで経験したものに似ています。動くと酷く痛むので身体を丸めてじっと耐えることしかできません。痛みが強くなってお腹を下す(液状の物しか出てこない)と少し楽になり、しばらくの間は眠れます。これを何度か繰り返すうちに朝になりました。
 6月30日 朝7時に体温を測ると37℃丁度で、やや下がり気味です。昨日残したご飯をお粥にしてみると、なんとか食べられました。下痢と腹痛はどうやら治まりましたた、下腹部にガスがたまってやたらとおならが出ます。体調が再び悪化するかもしれないので、動けるうちにバザールに出かけて黄桃500g(10ルピー)とすもも500g(5ルピー)を買っておきます。部屋でゴロゴロしていると宿のオヤジが「テントはいらないか?」と声をかけてきました。オヤジが持って来たのは二人用のテントで、以前ここに滞在していたドイツ人から譲ってもらったものだとのこと。中庭で実際に張らせてみたところ特に不具合はなさそうなので2000ルピーで購入しました。
 夕方に宿の前の路地に4人組のミニ楽団がやってきて路上ライブが始まりました。ハンドオルガン(「ハルモニウム」と呼ぶ)、胴長の太鼓、タンバリン、ボーカルという構成です。観客のリクエストに応じて演奏し、小銭を受け取っています。観光客が多い時期を狙って来ているのだと思いますが、楽団を囲んでいる人々の顔つきや服装から判断してほとんどが地元の人のようです。これでは充分な収入になるのかどうか、人ごとながら心配になります。



62.  四駆でゴー
 7月1日 バーレーンはスワート川本流と西側の支流の合流点にあるということは以前に書きましたが、この支流は地形図に見るかぎり、バーレーンからほぼ西に深く切れ込んでいます。Daral(地名確認)という名前もついています。Daral川に沿ってついている未舗装の細い道をバイクで少し登ってみたことがあるのですが、あまり奥地でバイクが故障したら戻るのが大変なことになりそうなので「行けるところまで遡ってみる」ことができずに過ごしていました。バイクでの偵察の帰りにその道を四輪駆動のトラックが登ってくるのとすれ違っていました。そのときはジープの後半部分の車体を切り取って荷台をつけたような姿(下の写真)に「大胆な改造をするものだな」と思っただけでやりすごしていました。ふと、あれに乗っていけば奥まで行けると思いつき、宿のオヤジに交渉してもらうと60ルピーで便乗させてもらえることになりました。荷台には小麦粉などが大量に積まれていて、その上に人が10人くらい座っています。この連中が荷役の作業員なのか、タダで便乗しているだけなのかよくわかりません。積荷が重すぎるのと急傾斜の悪路であるため、四駆トラックは人が小走りしているくらいの速度しか出ません。でも、おかげで乗ったまま道路脇の露頭の様子を見ることができるので好都合でした。岩石の種類がずっと単調で変化がないので、Carunaというところまで進んだところで車を降り、帰りは歩きながら調査しました。




63. 地図を失う
 7月3日 一日の休養をはさんでバイクでの調査を再開します。道路沿いについてはバーレーンより北側の地域はほぼ終えているので南に向かいます。ある露頭での作業を終え、地図を挟んでいるクリップボードを荷台のゴム紐にねじ込んでバイクに跨がり、300 mくらい走ったところにある次の露頭で作業をしようとすると、荷台にあるはずのクリップボードがありません。すぐに前の露頭まで戻り、その区間を何度か往復しましたがクリップボードは見つかりません。おそらく数分の間のことですが、誰かが拾って持ち去ってしまったようです。地図がなければ地質調査はできないので、宿に戻るしかありません。部屋に置いてある予備の地図を広げ、今日調査した露頭の場所を思い出せるかぎり記入しましたが、岩石サンプルを取った場所3地点を正確に思い出せませんでした。研究用のサンプルは採取した場所がわかっていなければ日本に持ち帰っても無意味ですから、その三つのサンプルは捨てました。予備の地図には野外に持ち歩いている地図から毎日その日のデータを転記していますから、前日までのデータは問題なく回復できます。もしこの転記サボっていたら、6月20日から今日までの成果の大部分が無に帰するところでした。
 7月4日〜11日 今日は「イード・アル=アドハー」と呼ばれるイスラム教のお祭りです。このイードは前に述べた断食開けの「イード・アル=フィトル」とは別ものです。イスラム教徒が使う暦(ヒジュラ暦)の12月10日に家畜を屠ってその肉を使った料理を分け合う宴会が開かれることになっています。イードの4日間は役所、銀行、商店などは休業です。建前の上では宗教的な行事ですが、その休みを利用して出稼労働者が帰郷したり、家族で旅行。実質的には日本の年末年始の休みと似ているように思えます。午後遅くにバーレーンに戻ってくるとバザールを通過する道路に観光客の車が数珠つなぎになって渋滞しています。ホワザヘラあたりから、ここバーレーンを経て最上流部の景勝地であるカラームに至るまで道路は一本だけで抜け道はありません。この状況では、観光に来た人たちは車中泊になってしまいそうです。5、6、7日と調査をこなしたあと8日に発熱して休養。9、10日も充分に回復せず休養とします。過去の記録を眺めながら記述していると、なんだか休んでばっかりという印象です。しかし、遠隔地での単独行動は「無理をしない」ことが最重要であり、「頑張る」のはダメなのです。体調が悪いのに行動して悪化させたり事故を起こすことは避けなければなりません。偵察旅行のときもつい無理をして窮地に陥りそうになることがありましたので、「休み過ぎ」と思えるくらいが丁度いいのだと自分に言い聞かせていました。



...つづく

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