43. バーレーン(Bahrain)まで
 5月23日 午前中は快適なホテルで休養。中庭のテーブルでのんびりとチャイ(ミルクティー)を飲みます。いつもこうだと楽ですが研究のための偵察にはなりません。スワート川の上流部である上部スワート渓谷を目指して11時30分に出発。。ミンゴーラのバザールを抜けてスワート川の左岸(東側)に沿って北上します。昨日通ったホワザヘラのバザールを見物しならがゆっくり通過。しばらく進むと左右の山の斜面がしだいに近づいてきて広かった谷間が狭くなり、「渓谷」らしくなってきます。浅く広かった川もマディヤン(Madyan) に至ると所々白く泡立って流れ下る「渓流」になります。マディヤンには小規模なバザールとホテルがあります。このあたりから上流はパキスタンの人が避暑に訪れる観光地なのですが、まだシーズン前なのでにぎやかさはありません。道はスワート川本流を渡って右岸(西側)に移ります。北上を続けると、やがて谷間の奥に氷河を纏った岩山が見えてきます。すぐ先で道が左に大きくカーブしているので、美しい山の姿は一瞬で見えなくなります。その先がバーレーンです(13時30分着)。



 バーレーンはスワート川本流と西側から流れ込む支流の合流点付近に発達する緩傾斜面の上にできた町です。中東の産油国バーレーンと同じ発音で、「合流」という意味を持っているそうです。ここは上部スワート渓谷の観光の中心地なので、田舎の割に多くのホテルとレストランがあります。街道沿いのバザールにも土産物を扱う店が多いようです。バザールの中央より少し北寄りにスワート川本流に架かる木製の橋があり、地元の人たちが頻繁に行き来しています。この橋の上に立つと、岩の壁の間をのたうち回るように動く白い奔流を見ることができます。橋の近くのレストランは床の一部を川の上に突出させています。窓際の席に座れば食事しながら足下の激流を眺められるという趣向のようです。突出部分は川岸の岩に立てた細い柱で支えられているのですが、増水したら流されてしまいそうな、ちょっと不安になる弱々しい構造です。




 宿を探しながら街道をゆっくり進みます。バザールは全長が700mくらいの規模で、その北の末端付近にBulan Hotelという比較的新しい建物のホテルを見つけました。ダブルルームを一人で利用して一泊100ルピー。いままでの経験から自分にとっては100ルピー前後が安さと快適さのバランスが取れるラインだとわかってきていたので、ここに決めます。ホテルの建物はスワート川の川岸の岩場の上に建っていて、バルコニーに出るとすぐ下は激流です。もちろん前述のような柱ではなくて、コンクリートの壁に支えられています。川に沿って流れるひんやりした空気が部屋に入ってくるのでエアコンなしでも快適です。シャワーからちゃんとお湯が出るのはこの値段にしては意外でした。この日の走行距離66km、通算1682km。

44. スワート渓谷最奥部の偵察
 5月24日 スワート渓谷を行けるところまで遡るつもりで7時55分出発。急流の右岸(西側)に沿ってついている道路を北上します。



 道路脇には最近行われたと思われる拡幅工事のおかげで、新鮮な岩石が露出している場所がたくさんあります。地質調査はやりやすいのですが、ハンレイ岩ばかりが続くので地質図を描くときに単調でおおざっぱな感じになってしまいそうです。下の画像は、ハンレイ岩とそれに貫入するペグマタイトです。



 しばらく進むと右手(東側)の斜面が大きく切れ込んで深い谷が現れます。本流に木製の橋がかかっていて向こう岸に渡れます。ここはマーンキアール(Mankial) という場所で、東側の谷の奥にマーンキアールサール(5725m)という山があります(ここからは見えません)。昨日バーレーンに到着する直前に谷の奥に見えていたのはおそらくその山です。橋のこちら側に小さいチャイハナと雑貨店があります。


 道路はV字谷の急斜面を斜めに登ったり下ったりを繰り返しつつ高度を上げていきます。急流の水面近くを通ることもあります。谷底近くを走りつづけるのに飽きたころ、急に両側の壁を作っている山と谷底との高度差が小さくなって、いきなり開けた盆地のような場所に出ます。そこがカラーム(Kalam, 2060m)です(9時40分着)。もとは急峻だった地形が山から流れ出してきた砂礫で谷間が自然に埋め立てられて平らになった場所のようです。盆地の底には針葉樹林が島のように点在していて、周囲は雪を冠った山に囲まれています。日本で言えば上高地に似ています。当時は土産物屋がと安宿が数件ずつありました。ガソリンスタンドもあります。ここまでは燃料の心配はいらないことがわかりました。ここから先は谷が二つに分かれていて、今回は右手の谷に入ります。



 カラームから10km弱でウシュー(Ushu)という小さな村を通過します。谷は底が広くて両側が切り立った崖のようになっていて、断面がV字からU字に変わってきました。過去の氷河によってできた地形です。さらに進んで10時30分にマチルタン(Matiltan)という村に至りました。U字谷の底と側壁の麓は草原で、所々に雪が残っています。ヨーロッパアルプスの観光地の絵葉書で見たことがあるような光景です。




 マチルタンから2kmくらい進んだところで、雪渓が大きく道路に張り出していました。雪渓は部分的に除雪されていて四輪駆動車なら通過できそうでした。しかし、その先はさらに路面の状態が悪くなっているでしょうし、バイクで突っ込んでスリップしたら今後の調査計画が台無しになりますから、おとなしくあきらめました。バイクを置いて歩きます。30分ほど歩いて右手の谷から押し出している石の瓦礫の山を登りきったところから先を眺めてみると、四輪駆動車ならもっと奥まで行けるしキャンプしながらの調査もできそうです。帰りの時間を考えてここで引き上げることにしました。13時30分にカラームを通過し、16時丁度にバーレーンに戻りました。




45. ハーン・ザダ(Khan Zada)登場
 宿で少し休んでから、まだ明るかったのでバザール散策にでかけました。そこで、今後の調査の成否をわけることになったかもしれない、重要な出会いがありました。宿はバザールの北端近くにあり、そこから店の品物やレストラン(というより「飯屋」という感じ)の料理を物色しながらぶらつきます。バザールのレストランは、たいていキッチンが店の表の近くにあって、そこに今出している料理が入っている鍋を並べています。ボーイか料理人に頼めば、中身を見せてもらえます。
 バザールの南側のはずれまで行って中央近くまで戻ったところで、痩せた小柄なおじさんが英語で話しかけてきました。「自分のホテルは清潔で快適だ。泊まらなくてもいいから部屋を見にきてほしい。」というようなことをしゃべっています。どうやらホテルの客引きです。暇そうにバザールをうろついている外国人旅行者(私)を見つけて待ち構えていたようです。「客引きについていってはいけない。」のは大原則なのですが、外国人がいない(スワートに入ってから外国人風の人を全く見かけなくなった。)ところで英語を使うオヤジに興味が湧いてしまい、様子を見に行くことにしました。すでに宿は決まっている状態なのですから泥棒宿に泊まって酷い目にあう恐れもありませんでした。
 案内されたホテルはバザールの幹線から川寄りに少し引っ込んだ路地の奥にあり、表の喧噪が届きにくいので落ち着けそうです。隣に間口一間くらいだけで営業している小さい郵便局があり、手紙のやり取りが容易です。受付の奥はレストランになっています。客室はレストラン兼受付よりも一段下がった場所にあり、一旦外に出て階段を10mくらい下ります。10m四方くらいの小さな中庭を囲んで「コ」の字型に客室が並んでいます。「コ」の字の開いている方はスワート川に向いているので中庭から渓流の眺めを楽しめます。客室は確かに値段の割に清潔で快適な印象です。オヤジは薪で湧かすボイラーを装備しているのが自慢のようで、「ホットシャワーもOK。」と営業トークに余念がありません。受付に戻ってチャイを啜りながら世間話をします。「日本人か?何をしに来ているのか?いつまで滞在するのか?」などといろいろ聞かれます。こちらからもいくつか質問し、オヤジの名前はハーン・ザダ(ハーンの息子という意味らしい。)といい、このホテル(Hotel Zahoor and Restaurant)の雇われマネージャーという立場であることがわかりました。彼は「ガイド、ポーター、あるいはコックが必要なら手配できる。」といいます。これはかなり魅力的な話です。山中で行う地質調査には地元のことがわかるガイドが必要です。その理由は単独行動が危険だということだけではありません。どんな田舎であっても人が住んでいる場所なら、その土地は個人が所有しているか実質的に管理しているものでしょう。そこを見知らぬ人が勝手にうろつき回るのは現地の人に不審に思われる可能性があります。何のために通行しているのか当地の言葉で説明できなければ深刻なトラブルになりかねません。主要な街道から少し離れれば、英語もウルドゥ語も通じないのです。彼を通してガイドを雇えれば、彼からそのガイドに対して前もって「この外国人が何をしに来ているのか。」という事情を説明しておいてもらえます。現場での簡単な指示は私の片言のウルドゥ語でも用は足りるはずです。荷物や岩石試料を預けることもできそうなので、バーレーンのこのホテルを調査活動の基地として使えるかもしれません。
 ハーン・ザダ氏との会話で気がついたことがあります。彼が喋る英語は人称代名詞の三人称"He"と"She"の使い分けがありません。男性を指すのにSheを使ったり女性がHeだったりするかと思えば、本来の用法に戻ったりします。動詞はほとんどの場合現在形単数です。三人称単数の"s"や過去形、現在完了形といっためんどうな変化は一切気にしないようです。文法としては完全に間違っているのですが、何を言いたいのかちゃんとわかります。英会話は「通じればいい。」と割り切ってしまえば、文法が正しくなくても実用上問題ないのです。彼は彼なりの英語を駆使して私が何を必要としているのかを理解し、それに基づいて自分の商売に結びつけようとしています。私も彼を見習って文法を気にせず、思いついた単語を並べるというやり方にしましたから、その会話は英語の先生が聞いたら仰天するようなものだったでしょう。この日の走行距離は108km、通算1790km。


...つづく

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