28. チラース(Chilas)
 5月14日8時に出発。チラースの町の周囲は見渡す限り岩と砂ばかりで殺伐とした雰囲気です。インダス川の流れは砂と岩のかなたにあって町からは見えません。チラースはインダス川に南側(左岸)から流れ込む二つの支流に挟まれた扇状地の中にあります。この町の周囲10kmくらいの範囲は非常に乾燥していて、岩と砂にわずかばかりの雑草しかありません。チラースを遠くから見ると、おそらく沙漠のなかのオアシスのような感じなのでしょう。チラース周辺に分布する岩石は、ほとんどがハンレイ岩と呼ばれるものです。ハンレイ岩はマグマが地下の深いところでゆっくりと冷えて固まってできると考えられています。新鮮な状態のハンレイ岩は一般的に黒またはグレーに見え、風化したものは白っぽく見えるようになります。しかし、このあたりの露岩は茶色から赤黒い色をしていて光沢を帯びています。


 実はチラースのハンレイ岩は「日焼け」しているのです。雨が極端に少ない条件で直射日光に晒された岩は「日焼け」します。日焼けした岩の表面を削り取ると白っぽい風化層が現れるので、茶色地に白い線を描くことができます。チラースの郊外には、この方法で岩に描かれた「線刻画」がたくさん残されています。線刻画は石器時代の作といわれているものから仏教に関するものまで数千年以上に渡る歴史時代のものだけでなく、現代の人(観光客?)によって加筆(落書き?)されたと思われるものもあります。つやのある赤茶けた岩を見ていると、つい何かを描きたくなるのかもしれません。線刻画のある場所よりも上位にある段丘には氷河堆積物が残っています。およそ1万年前に最後の氷期が終わったときに氷河が溶けてインダス川沿いの岩が地表に現れ、その後この地域は継続して乾燥気候の下にあったのでしょう。残念なことに線刻画は前述したダムが完成すると湖水に沈んでしまうのですが、具体的な保護策はなさそうです。



29. タトパニ(Tato pani)
 チラースからおよそ1時間くらい進むとタトパニと呼ばれるところがあります。タトパニは直訳すると「熱い水」。つまり温泉があるのです。パキスタンには日本にあるような活火山は存在しないので、温泉水はおそらく断層の深部に溜まっていた熱水に由来するのだろうと思います。タトパニの表示があるところから、急斜面についている踏み跡を辿って数分登ると、温泉が自然に湧出しているところまで行けます。砂礫の崖の下(人物の足元)からお湯が湧きだしています(下の画像)。初めてここに来たときは源泉に立ち寄る余裕もなく、バイクで通過しただけでした。その後別の調査で来た機会に試しに源泉に温度計を入れてみたところ、70℃以上もありました。この近くに人が住む村はなく、村があったとしてもこの地域の人には温泉に入る習慣がありません。ほとんど利用されることなく垂れ流しになっています。



30. ナンガパルバット(Nanga Parbat, 8125m)の展望
 10時にインダス川本流に架かるライコット橋(Raikot)に到達しました。ここからナンガパルバット登山のベースキャンプ付近に至る道路の建設が行われていました。現在ではかなり奥まで工事が進んでいるはずです。少なくともタートー(Tato)という村まではジーブで行くことができて、そこから数時間歩けばメルヘンビーゼまたはフェアリーテイルミドウ(お伽の牧場)と呼ばれるキャンプサイトに着きます。ナンガパルバットはコーヒスタン島弧と直接関係がない古い岩石でできているので、立ち寄らずに通過しました。ライコット橋からおよそ30分で道路は河岸段丘の斜面を斜めに上ります。段丘の上にはタリーチー(Thelichi)という小さな村があります。村の直前で道路が左に大きくカーブし、そこの道端に「Nanga Parbat, Killer Mountain」と書かれた看板があります。ギルギット方面に向かっているときは右側のやや後方に、ナンガパルバットのほぼ全容を見ることができます。ただし天気がよければです。ナンガパルバットはヒマラヤ山脈の西の端にあり、地形的に他の高山から孤立しています。そのせいかどうかわかりませんが、天気が不安定で麓は晴れていても山頂部部分は雲に隠れていることが多いのです。私は何度もここを通過しましたが、山頂まで見えたのは2回だけです。それでも、車に乗ったままで窓から8000m峰のほぼ全容を見るチャンスがあるのは世界でここだけだろうと思います。



31. 三大山脈の会合点
 タリーチーを過ぎるとすぐにナンガパルバットは見えなくなります。インダス川に沿ってしばらく北上すると、右側に展望台のようなものが現れます。「展望台」の脇の階段を登ってみると、10畳くらいの広場に出て、その中央に3mくらいの塔が建っています。塔の基部に「世界の三大山脈が一堂に会する地点」とうような趣旨の説明が英語とウルドウ語で書かれています。この看板は盗まれることがあるらしく、通過するたびにあったり、なかったりします。次の写真はその「展望台」から撮影したものです。右に分岐しているほうがインダス川の本流です。この川より右側(南東側)にヒマラヤ山脈があり、V字に分岐する川に挟まれている部分がカラコラム山脈の末端です。V字の左側の川はギルギット川で、この川より左側(西側)がヒンドウクシュ山脈となります。ヒマラヤ、カラコラム、ヒンドウクシュはそれぞれが7000m以上の高峰を擁しています。そのような三つの山脈が一点に収束しているのは地球上でここだけのように思えます。私はフンザ(Hunza)方面に行くので、ここでインダス川の本流と分かれてギルギット川に沿って北西方向に進みます。インダス川本流を辿ってスカルドウに向かう道路の分岐点はもっと南(タリーチー寄り)にあって、ここにはスカルドウ方面へ渡る橋はありません。



31. ギルギット到達
 13:10にギルギット(Gilgit)に到着。私は体調不良をかかえたままここまで進んできてしまったので、ギルギットで数日休養したいと思っていました。ガイドブックをたよりに安くて快適に過せそうな宿のあたりをつけ、マウントバロールイン(Mount Barole Inn)に入ってみました。料金を確認したところ、ダブルルームを一人で使って一泊40ルピーとのことなので、これで決定。この宿でラーホール出発後初めて日本人旅行者と出会いました。仮にKさん(男性)としておきます。

 夕食はKさんのお誘いに乗って郊外のホテルにフンザ料理を食べに行きました。リキシャ(スクーターのベスパを三輪に改造して客席をつけたもの。日本語の「人力車」が語源と思われる。)に乗って数分の街はずれに目的のホテル(といっても安宿クラス)があります。25ルピーのコース料理は他の客と同席して取り分けて食べるスタイルでした。「ダウロ」と呼ぶフンザ風煮込みうどんに「プラオ(炊込みごはん)」、そしてナスのカレーの三品にプリンのようなデザートがついていたことを覚えています。味は和風に近くて満腹するまで食べました。宿に戻ってシャワーを浴びて就寝したのですが、夜中に床や壁を何かがゴソゴソ動いている気配がして目が覚めました。灯りをつけてみると無数のゴキブリがあちこちを這いずりまわっています。私はゴキブリ一匹くらいは放置しても平気なのですが、これには参りました。殺虫剤のスプレーを使って合計11匹を殺したところで残りは部屋から逃げ去り、ようやく落ち着きを取り戻すことができました。この日の移動距離は136km、ラーホールからの通算942km。

...つづく

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