2005-03-30

第八話「長い長い『越冬』」

お久しぶりの木浦だよりです。
こちらでは冬休みが終わり、3月2日から新学期が始まりました。
休みの間のことを、
細かく思い出せばいろいろと楽しく過ごしていたのですが、
全体的なイメージとしては、本当に長い長い「越冬」でした。
 
1月16日に大学へ戻ってきてから2月7日までは、
寄宿舎で暮らしながら、午前中に語学院の授業を聞く日々。
寄宿舎の部屋もルームメイトも変わり、
2年生のにぎやかな子と同じ部屋になりました。
よく食べよく寝てよくしゃべり、大きな声で笑う女の子です。
どれだけすごいかというと、
昼ご飯の後にフライドチキンを大量に食べ、昼寝をした後、
夕食もたくさん食べたというのに、夜には
「お菓子食べたーい」。
携帯電話でひっきりなしに親や彼氏や友達と
通話や文字メッセージの送受信を繰り返し、
その合間に私にもいろいろと話しかけます。
最初のうちは、私も楽しく彼女のライフスタイルに付き合っていたのですが、
時が経つにつれだんだんとしんどくなってきました。
最も許せない存在だったのが、部屋に備え付けてある内線電話!
寄宿舎内の部屋どうしで通話する場合は無料なので、
彼女の格好のおもちゃになったのです。
たわいのない話題で何時間もしゃべり続け、深夜2時に及ぶときも。
さらに、目覚ましアラームにも目を覚まさず、私が起こしても起きないのに、
後から
「なんで起こしてくれなかったのー?」
と言われる日々にもうんざり。
そんなこんなで、彼女とはよく口喧嘩をしました。
この時期に語学力が伸びたのは、言うまでもなく彼女のおかげです。
 
しかし、そのうちにまた寄宿舎の閉まる日がやってきました。
留学生(やはり私以外全員中国人)は例のごとく客員室へ。
定員1人の部屋に5人、今度は3週間という長期間です。
場所が狭いので、掛け布団を寝袋状に折りたたみ、ミノムシのようになって寝ます。
当然、寝返りも打てませんし、隣からどすんと腕が降ってくることも…。
起きているときの人口密度もかなりのもので、
私は寝るときにだけ部屋に帰っていました。
ガスなどの調理器具はありませんが、
考えた中国人たちは、 電気鍋やカセットコンロを持ち込み始め、
それで簡単なものを作っていました。
一方私は、学校で誰かに会えば一緒に外へ食べに行き、
それができないとき(圧倒的多数)は、
日文科の研究室に蓄えた食糧を食べて生きていました。
外気が氷点下であるため、研究室の二重窓を利用して「自然冷蔵庫」にし、
この時期が来ることを見越して、食糧を計画的に貯めこんでいたのです。
研究室には人が全く来ず、私の越冬基地になっていました。
 
不便なことこの上ない客員室ぐらしでしたが、
それでも、夜にテレビを見ながら、
狭い部屋で5人でぶつかりあいつつエアロビクスをしたり、
中国語を教わったりと、ささやかな楽しさもありました。
そして、この期間、何より私の支えになってくれたのが、
文化人類学の大学院生カップル。
学校に人がいなくて話し相手もないときに、
「人類学の研究室で一緒に勉強しよう」と言ってくれただけでなく、
お姉さんの下宿やお兄さんの家に呼んでくれたのです。
あたたかい食事と手足を伸ばせる寝床は、最高のぜいたくでした。
お兄さんの父親は大学教授なのだそうで、
アパートのリビングには木の幹の形をそのままにした座卓がでーんと置いてあり、
その上には本格的な茶道具が。
食事をダイニングで食べた後は、その座卓でお茶を飲みながら話をするのです。
お父さんの、日本人に対する興味は尽きることがなく、
また私に韓国を理解してもらいたい気持も強く、
いろいろ質問してきたり、
家の位牌を出してきてその説明をしてくれたりしました。
 
今まで女友達の家には何度も行ったことがありましたが、
男友達の家は初めてで、
男の子の、父親に対する接し方を初めて目の当たりにしたと言えます。
女の子は、母親に対しては敬語を使わず
父親に対しては敬語を使う、というひとが多く、
中には父親に対しても敬語を使わないひともいるのですが、
男同士の関係というのは厳格なもので、
そのお兄さんは父親に対して最高敬語を使っていました。
例えば、食後の果物を勧めるときは、
「お父さん、果物をお召し上がりになりますか?」
というように。
私はそれを見て緊張したのですが、
「気楽に過ごしていきなさい」
と言われ、
その言葉どおり、実にくつろいだ気持で過ごさせてもらいました。
私の好物がチャプチェというおかずだと知ると、
お母さんが方法を私に教えつつ作ってくれたりもしました。
何件もの家を訪れてみて感じるのですが、
経済的に豊かな家ほど接客がうまいようです。
それは物質的な面を言っているのではなく、
家の人たちに精神的な余裕があるというか、
なぜだかよくわからないけれど客に窮屈な思いをさせないのです。
これは本当に不思議です。
 
セマングムの地域調査にもまた同行してきました。
ある村を訪れたときは、道端に住民が集まっていて、
これからお正月用の豚をつぶすとのこと。
そうこうしているうちに豚が連れてこられ、道端で解体が始まりました。
誰に教わらなくとも獣のカンで察知するのか、
檻から出るのを嫌がる豚を引っ張り出し、
失神させ、首の頚動脈を切って血を出し・・・
と記述するとあまりにも生々しいのでここで止めておきますが、
豚(に限らず大きな生き物)の解体を見たのはこれが初めてだったので、
本当に衝撃的でした。
パック詰めで売られている肉だけでなく、
いつかは解体も見ておかなければと思っていたのですが、
まさか韓国の道端で見ることになるとは思いもしませんでした。
地元住民のおじさんたちの慣れた手つきも鮮やかで印象的でした。
 
韓国では陽暦よりも陰暦のお正月(2005年は2月9日)を重視するのですが、
このお正月に、私は手土産の酒セットを持って友達のおばあさんの家に行きました。
その集落は、
全羅北道スンチャンのバスターミナルから路線バスでガタガタ揺られて40分。
本当に田舎田舎したところですが、お正月とお盆だけは人口が一気に増加します。
おばあさんの家も例外ではなく、普段は2人で暮らしている小さな家に、
孫8人と犬1匹が居座り、息子夫婦2組や娘夫婦が入れ代わり立ち代わりやってきて、
もうてんやわんやです。
家は古い農家で、台所と大部屋、小部屋から成り立っていました。
お正月の朝は、大部屋に祭壇を準備して、「茶礼」という祖先祭祀を行います。
祭壇の上に供えるものは、煮魚、ナムル類、果物類、干菓子、酒、お雑煮など20品目。
女性たちが祭壇を整え終わると、
男性たちが最も改まった礼(土下座に近いもの)を3回繰り返します。
そしてそのあと、お供え物をみんなでいただくのです。
朝食後は、「歳拝」。
年上の人に新年の挨拶をして、今年の教訓とお年玉をもらうというものです。
まずは長男夫婦がおばあさんに、続いて孫たちがおばあさんに、そして長男夫婦に。
そのあと男たちが山へお墓参りに出かけるのですが、
女性は行ってはいけないとのこと。
仕方なく私も家に留まり、友達や親戚の女性たちと花札をしていました。
「花札が日帝時代に日本から入ってきた」ということはよく知られており、
「日本でもよくやるんでしょう?」と聞かれるのですが、
私は韓国に来るまで花札に触れたこともなかったのです。
韓国では、今や花札は老若男女に親しまれている遊びです。
この家には花札とテレビ以外の娯楽道具が何もなく、
外へ出ても、この村には娯楽施設が何もありません。
そんなわけで、花札をしつくすと、テレビ、犬いじり、花火、そして昼寝。
私はみんなが昼寝をしている間、一人で集落をうろうろ散歩しました。
集落を見渡そうと段々畑を上り、下るときに反対側の道なき竹やぶを下ってみたら、
そこは民家の庭先!!
あわてて庭先を突っ切り、表の門から出ようとするも、
門が固く閉まっていてなかなか開きません。
ギギギーと大きな音を立てるのに冷や冷やしながら、
なんとか体が通るぐらいの隙間を空け、脱出成功。
ホッと一息ついて振り返ると、門には「売家」の紙が貼られていました。
 
2月の第3週は、小中高の卒業式シーズン。
連日どこかの学校で卒業式が行われていましたが、
私は毎日のように足を運び、
私立女子中高、私立共学高、公立機械工業高、公立中、公立小
のものを見てきました。
式の前後の時間を利用して(というか、どさくさに紛れて)、
可能な範囲で教室や職員室にも入ってみましたが、
教室も職員室も、
黒板の上に国旗が掲げられている以外は日本と変わりありませんでした。
小学校の展示物に「わたしたちがしらべた北韓(北朝鮮)のせいかつ」
というのがあったりしましたが・・・。
そして校庭には必ず、世宗と李舜臣の銅像が立っていました。
すべての卒業式に共通していたのが、
式の最初にある「国民の誓い」「愛国歌」「戦没者追悼」。
これらはすべてテープで流されました。
このときは会場にいる全員が起立し、
「国民の誓い」では誓いが終わるまで右手を胸に当て、
「愛国歌」では国旗のほうを向いて歌い、
「戦没者追悼」では音楽が終わるまで頭を垂れます。
「国民の誓い」の内容を直訳すると、
「私は、誇り高き太極旗の前で、
祖国と民族の無窮の栄光のために、
体と心を捧げて忠誠を尽くすことを誓います」
というものでした。
卒業式そのものよりも、式の後が本番なのは、男ばかりの機械工業高。
式が終わった後、校門の外で後輩たちが先輩を待ち構えています。
後輩たちの手には生卵や小麦粉・・・。
それらを、校門から出てきた知り合いの先輩に投げつけるのです。
顔が広くて人気のある先輩は、全身ぐしゃぐしゃ。
なかなか壮絶な光景でありました。
 
2月下旬には、韓国のインチョンから船で一晩かかって1人で中国の青島へ渡り、
中国人の友達の家を目指して莱州へ。
その家でしばらく過ごさせてもらったあと、
28日の韓国行きの船に友達と2人で乗り込んで、一緒に木浦へ戻ってきました。
友達の、お母さんの思いがたっぷり詰まった重いスーツケースを2人で引っ張り、
他の中国人留学生に頼まれて買ってきたひまわりの種(食用)5kgを背負い、
よたよたと学校に到着したのが3月1日の午後9時。
次の日の朝から新学期が始まりました。
 
新学期が始まってしばらくは、変な気分でした。
あれだけ閑散として吹雪だけが暴走していたキャンパスに、
客員室だけ灯りがともってあとは真っ暗ながらんどうだった寄宿舎に、
こんなにひとがあふれているとは・・・。
日文科の研究室も、私が中国へ行っている間に美化(!)され、
越冬していた痕跡も偲べなくなっていました。
そんな中で、なにかなじめない、居心地の悪さを感じたのです。
 
それでも、授業が始まり、懐かしい顔に次々出会ううちに、
そのような思いは雲散霧消。
ルームメイトも変わり、新たな気分でスタートです。
残る半年、思い残すことのないよう一日一日を大切に過ごそうと思います。



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