茅ケ崎市内3(当院から少し遠いスポット)

国道134号線・文化資料館・石神古墳・鉄砲通など


茅ケ崎市内でも、当院から少し離れた所にあるスポットをいくつかご紹介




まずはサザンの歌にも出てくる、箱根駅伝道路の海沿い国道134号線。

防砂林が特色。箱根駅伝をしていると年が明けたなあ、と実感します。

駅伝でない時の国道134号線はこんな感じです。


夕暮れ時

ピンボケでスミマセン。

国道134号線を市営球場の交差点で北側に折れて数百メートル進むと茅ケ崎市文化資料館があります。
(ちなみにサザンの茅ケ崎コンサートは市営球場で行われました)

規模は大きくありませんが、堅実な資料館です。自動車で行けるとベターなんですが...。

原則月曜休館。開館時間は9時〜16時です(詳しくは館のホームページを)。


館内をチラ見。
旧石器時代から現代までの資料が整理されています。西方貝塚や堤貝塚などからは立派な縄文土器も。

研究資料も面白いです。下図は一例。


現在は高台にある西方貝塚や堤貝塚も、縄文時代前期は海岸に近かったことがわかります。当院は当時は海の中(笑)。
今の温暖化が進むと左図のようになるわけですね。


茅ケ崎北稜高校の西隣にある西方貝塚の現状はこちら。




堤貝塚の現状は以下。今はテニスクラブ近くの斜面です。
私はここでテニスボール1個を発見しました。当時もテニスをしていたんですね(嘘)。
(ここに至る道は非常に狭いです。車幅の大きい車での訪問はお勧めいたしません)





話を文化資料館に戻すと、下寺尾には奈良時代頃からすごい寺社や役所があったそうです(詳細は資料館で)。

一度資料館に行ってみられると、茅ケ崎の見え方が変わる(かも知れません)。

貝塚2つ(堤・西方)を出したので、ついでに茅ケ崎駅内の古墳もアップ(石神古墳)。

手前の線路は相模線、車両がいくつか見える奥の線路は東海道線に並行な茅ケ崎駅の引き込み線。
そうです、茅ケ崎駅からほんの少し相模線に乗った脇にこの石神古墳はあります。
大正15年の線路工事中に古墳は整理されてしまい、今は石室に使われていた巨石だけが残されています。

いったいどんな人が葬られていたのか??
天皇家の東征に関わっているかも知れないですね。


さっきは国道134号線について記しましたので、次は茅ケ崎市民におなじみの「鉄砲通」に戻ってみましょう。
鉄砲通り沿いの「東海岸北5-15-20」付近、しながわこどもクリニックの隣に下のような碑があるのを御存知でしょうか。

南湖院紹介時、「病院道」の六道の辻に昔は置かれていたと書いた「佐々木卯之助」さんの追悼碑です。

江戸時代後期、次第に外国船の来日が目立ち始めた頃、今の鉄砲通り付近(松下政経塾や辻堂団地辺りも含め)に
海防のために大砲・鉄砲の調練所がつくられ、これが現在の鉄砲通りの由来といわれています。
 佐々木卯之助さんは文政7年(1824年)にこの調練所の責任者に就任。その頃、天保の大飢饉が発生して
当時の茅ケ崎住民は貧窮し、調練所内に畑作を進めてしまいましたが、佐々木氏は住民の生命のためにこの耕作を
黙認し、住民から心から感謝されていました。
 しかし運の悪いことに、この小旅行記の「韮山編」で登場する幕末の超キレ者代官江川太郎左衛門さんの巡視で
この調練所内での耕作が発覚してしまい、卯之助さんは問責され、青ヶ島への流刑となります(1836年)。

あまりに遠い青ヶ島...。
流刑後32年経った1868年、明治維新と共に佐々木卯之助さんの罪は許されますが、当時もう73歳。
とても本州まで帰ることはできず、81歳で青ヶ島にて失意の人生を終えてしまいます。
卯之助さんの死去を知った茅ケ崎住民はその恩を忘れないようにと、この追悼碑を建てたとのことです。
国防か住民の生活か?今の世でも問題になる選択ですが、卯之助さんの判断は人間として正しいと思います。


佐々木卯之助さんの追悼碑を過ぎてもう少し辻堂方面に行くと、ラチエン通りとの交差点「松が丘」。
このページもかなり長くなってきたのでラチエン通りは別ページへ。
予告編として、ラチエン通りを海に向かって下っていった風景を出してみます。

エボシ岩がやけに大きく見える、不思議なラチエン通り。詳細は別ページへ。


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