茅ケ崎市内(当院周辺)編2
 旧相模川橋脚・御霊神社・南湖院など


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地元散歩のなかでも特に当院周辺を見てみます。
(あくまで個人の趣味での選択ですので、大事なスポットが抜けておりましたら申し訳ございません)


まずは国指定史跡の「旧相模川橋脚」から。

国道一号線沿いの、ニトリの少し平塚寄りにこの看板があります。ここを左折してすぐ。
ちなみに上を横切る道路は新湘南バイパス(早く東名や中央高速につながってほしい)。



 何百年も地中に埋もれていた鎌倉時代の橋脚が、1923年の関東大震災でここにあった当時の水田に
顔を出し、突然遺跡になりました。
 この橋脚が現役だった頃は、相模川がこの辺りを流れていたんでしょう。今より数キロ東京寄りです。
治水していない大きな川は、ちゃんと押さえていない水撒きホースのように、海への注ぎ口が
グネグネ変化するので不思議ないことです。
ちなみに今の相模川は相模湾に真っすぐに流れ込みますが、昭和初期までは下のような河口でした。


伊能忠敬作成の江戸時代地図より。
少しわかりにくいですが、相模川が北から南に注いでいて、「南」の字が書いている所は相模湾海上です。
平塚の須賀村から東に向かって砂州が東西方向に伸びていて、北から流れてきた相模川は海に注ぐ寸前で
ほぼ直角に東に向きを変えていたんですね。
土砂を多く運んでくる川が、海流の速い海岸に注ぎこむと、上図のような砂州が出来やすいようです。
有名どころでは、旧横浜村もそうですね(下図)。

江戸の町自体そうですが、江戸時代は思い切った埋め立てをやっていたんですね。
今の関内とか、昔は完全に海上です。


話が変わってしまいました。旧相模川橋脚付近にはわかりやすい解説版がついています。

 今見えている杭はレプリカで、本物はその下に保管されているんですね。
 国道1号線が相模川を渡る橋の名は「馬入橋」といいますが、この名は鎌倉時代にこの橋ができ、
源頼朝が招かれて渡り初めをした際に、頼朝に滅ぼされた義経や弁慶の亡霊が突如出現し、
驚いた馬もろとも頼朝が相模川に落ちて重体となり、それが死因で亡くなったからという説があります。
その弁慶や義経の霊を慰めるため、一番上の地図からわかるように、橋脚の近くに「弁慶塚」や
義経の怨霊を祀った「御霊神社」があります。



これが鳥井戸橋交差点近くにある弁慶塚。チュースケ君に慰められているようです。
弁慶は私の実家の近くの、和歌山県田辺市の生まれという説もあり、親しみを感じていたので、
最初この塚を見た時はなぜ茅ケ崎に弁慶塚があるのか、とても不思議に思いました。



こちらが義経を祀った南湖にある御霊神社。
この真裏には浄土宗の西運寺があります。
(というより江戸時代末までは同じ敷地にあったのに、明治になって無理やり分離した)



とても立派なお寺です。西運寺には下のような興味深いものがあります。



有名な歌舞伎演題「白浪五人男」の一人、南湖(南郷)力丸のお墓。実在した方だったみたいですね。
「白波」は昔の中国で有名だった義賊の呼び名から採ったもの。
江戸時代では、石川五右衛門・鼠小僧と並ぶ3大義賊なのだとか。
ちなみにこの五人衆、現代の戦隊物(ゴレンジャーとか)のルーツという説も。
南湖力丸は、荒くれ漁師上がりの力自慢なので、黄色の原点でしょうか。


西運寺から五百メートルほど北東の、国道1号線沿いに「第六天神社」があるのも気になります。


織田信長が、自ら第六天魔王を名乗るなど、強く信奉した第六天神社。
秀吉が神威をおそれて廃社をすすめたため、西日本にはほとんど無く、今や貴重な神社です。
ちなみにwikiで調べると、今残っている第六天神社は以下9か所のみ。
  埼玉県   狭山市・飯能市・さいたま市岩槻区
  東京都   台東区・杉並区・世田谷区・目黒区
  神奈川県  茅ケ崎市・横浜市泉区和泉町
全て旧後北条家の領土。最後まで秀吉に従わなかった証拠ともいえますかね。
 それにしても秀吉はなぜこれほど第六天神社をおそれたのか?
「中国大返し」も手際が良すぎる気もしますし、やはり「本能寺の変」の黒幕は...。


明治以降の茅ケ崎を語る上で欠かせない、東洋一の結核療養所と言われた南湖院。
今は西浜高校や、高齢者向け入居所の「太陽の郷」などに生まれ変わっています。

かつての南湖院。明治初期のお雇い外国人の一人だったドイツ人医師ベルツから
東京帝国大学医学部で指導を受けた高田畊安氏が開設。高田畊安氏夫人は勝海舟の
孫娘だった縁で、南湖院最初の入院患者三人のうちの一人は勝海舟夫人だったそうです。

今でも手ごわい結核菌。咳や微熱・倦怠感などが持続したら病院を受診しましょう。
また赤ちゃんのBCG接種は生後0〜6か月は無料です。早期に接種してあげましょう。



「太陽の郷」敷地内に残る旧南湖院第一病舎(1899年建造)。補修されているとはいえ、お洒落です。
南湖院は国木田独歩や佐藤惣之助(タイガース応援歌「六甲おろし」も作詞)、八木重吉ら有名人も療養。
また女性解放運動で知られる平塚らいてうのお姉さんが入院していたので、ここで雑誌「青鞜」の編集も
されたことがあったとのこと。


こういうのが残されていると嬉しいです。



茅ケ崎駅から共恵を南西に貫く道。かつては「病院道」と呼ばれ、南湖院に向かう人や人力車が大勢行きかい、
商店や宿も大繁盛していたそうです。南湖院は第二次世界大戦中に海軍に接収され、1945年に高田畊安氏
が亡くなり、また結核菌に有効な抗生物質も開発され、役割を終えていきました。



病院道をさらに旧南湖院側に進んだ、現魚市場近くにある六叉路、「六道の辻」。
駅から南湖院に行くにはここを更に南西に進み、住吉大社を通過して到達したとのこと。
かつての名残を求めて駅から約2.5kmの道を散歩されるのも良いかもしれません。
茅ケ崎紹介の別ページに出てくる(予定)の佐々木卯之助さんの追悼記念碑は元々ここに建っていたそうです。


最後はサザンビーチから見た烏帽子岩。

南湖院は戦後米軍に接収されて宿泊所として使われました。米軍は占領時代、演習のために烏帽子岩を目標に
昭和34年まで砲撃訓練をしたため、本来もっと高かった帽子の先がとれて漁船の目印がなくなってしまい、
漁師さんは困ったとか。また今は周りの岩礁と一緒に見えますが、周りの岩礁は関東大震災で隆起して
水面上に出てきたものらしいです。
ちなみに茅ケ崎漁港から釣り人用の渡船が出ていて往復4200円で上陸できます(日の出〜13時)。


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