南紀(和歌山県南部)めぐり1
出身地 串本町田並編


小さな旅ではありませんが、二河田の生まれ育った地域なので資料が多くあり
おそらく大半の方は一生行かない可能性が高いでしょうからアップしてみます。


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地図(グーグルマップ)


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私の出身地の「串本町田並」の紹介です。


JR紀勢本線の駅がありますが、ザ・無人駅。駅があることに感謝しましょう。。



電車好きの貴兄のために...特急「くろしお」。 田並駅はなぜか通過していきます。



むかし芝居小屋だった建物。今は寒村となってしまった田並ですが、明治大正〜昭和40年頃は
オーストラリアの木曜島で潜って真珠貝を採ったり、ハワイ・カリフォルニアなどに移民したりして
ひと儲けする人が多く、周辺からは「アメリカ村」と言われ賑わいをみせていました。
私が小学生だった時は、長年ダイバーをしていて潜水病から大腿骨骨頭壊死となって、
杖をついて歩くお年寄りが何人もいました。また、道を歩いているとよく知らないおばあちゃんが
急に「お茶でもどう?」と家に入れてくれて、「うちのケチン(kitchen)が...」とか「ケトル(kettle)を...」
とか、ポンポン英語を使いながら、とても洒落たティーカップにおいしいミルクティーを入れて
飲ませてくれたりしたこともありました。お年寄りのほうが英語をしゃべれる不思議な地域でした。



この2冊には、田並の先人の話がかなり紹介されています。特に左の小川平さんの本は
内容がとても生々しく、木曜島に密航するための大変な苦労や潜水夫の危険さなど
ここでは紹介できない激しさで、どなたか映画化して下さらないものかと密かに願っていますが...。
”密航”を肯定したり、”グロ映像”も多く、まあ無理でしょうねえ。



司馬遼太郎さんは田並から5kmほど離れた所に別荘をお持ちだったので、南紀の歴史もよく
ご存知だったようで、この短編にはやはり木曜島ダイバーの話が出てきます。
先人の苦労を文章に残して下さって有難うございます。


かなり脱線してしまいました。もう少し田並の写真を出します。



奥に見える山が「ちのと」と言われる、田並小学校校歌にも出てくる田並人の心の故郷。
私も2回登りました。ちなみに田並小は数年前に「合併→閉校」となってしまいました...。トホホ。


田並川の東側の源流をたどっていくと「才助の滝」があります。河口から約5km。
自転車で向かってみました。

「庚申橋」を東側に曲がって坂道を進んでいきます。


林道なので、途中までは軽自動車でも行けます。


最後1kmくらいは軽自動車でも入れません。


林道終点。あの黒い岩はもしかして...。


水量は少ないですが、30年ぶりに見る「才助の滝」。
記憶よりも滝口は高く、落差40メートルくらいでしょうか。

実は「才助の滝」は2本あり、こちらは雄滝。
この写真の右に小さな社がたっている台地があり、その更に右に雌滝があります。

こちらが雌滝。

雄滝より水流はさらに少なかったです。

雄滝・雌滝間の台地に立つ社の内部。

水が空になっていたので、川の水で満たしてきました。

社の前にはこんな石碑もあります。


雄滝雌滝を両親に見立てているのでしょう。
下の「荒行場」は昔の修験者が彫ったと言われています。
沢登りをしたりしていたのでしょうか?こんな田舎の、さらに奥地で籠っていたとは畏れ入ります。
ちなみにこの滝を越えていくと、別ページに紹介予定の、古座川一枚岩近くに出ます。




これは雄滝を真下から見上げて撮った写真。水流が少しわかります。
滝の岩肌に生えているのは大文字草だと聞いたことがあります。

雄滝左端。

滝の岩肌は黒い泥岩ですが、断層があり左の岩は砂岩です(雌滝右端も同様な断層あり)。

模式的に表現するとこんな感じです。

黒い泥岩が滝の岩肌。紅葉の葉は左右滝間に立つ社のつもりです。

田並川上流を見た後は、河口に移動。

3歳の時ここに落ちて溺れそうになり父に助けてもらいました。今は亡き父に感謝。
小学校4年頃から友達とよく釣りに来ました。小さいグレ(関東ではメジナ)・ボラ・ウナギなどよく
釣れました。今でも潮のいい時はおかずくらいは必ず釣れます。(ウナギは減ったようですが)



これが15cm位の小さいグレです(カサゴもいますが)。
煮付けてもフライにしても美味です。(ちなみにカサゴは関西ではガシラといいます)



2つ上の写真撮影点から90度右を撮った所。この浜が田並の子の水泳練習所でした。
昔はバイ貝やトコブシが良く採れて水泳がてら夕食のおかずを採って帰ったものです。
でもある日ウエットスーツを着た商業漁師が根こそぎ取り去ってしまい、
以後ほとんどいなくなってしまいました。
生き物の数に限りはあるけどお金に上限はないですからね。
節度を持つことの大切さを子供心に刻みました。
 右に突き出ている半島が「田の崎」、左奥の磯は「ヒナグラ」と言います。
小中高と10年近く、3日に1日は釣りに出かけていたので、田並中のどの磯にも岩場にも思い出や
愛着があります。12月でも沖の岩場に泳いで渡って釣りをしていたので周囲から呆れられていました。
釣果の方は......結構良かったです。まずそっと泳いで観察し、魚のいる所に糸を垂らしてましたからね。
 父母からよく聞かされた昭和21年の南海大地震の津波の時は、地震の後、海から岩がゴロゴロ
転がる轟音が響き渡り、一旦は「田の崎」の先端まで海底が見えるくらい潮が引き、その後
ものすごい勢いで潮が向かってきたそうです。周期的にはそろそろまた起こる頃でしょう。
どうか被害ができるだけ出ませんように。



田並川河口で「ハリセンボン」発見。ワタリガニとかウツボ、ミノカサゴなどもよく遊びに来てます。




2つ上の写真の「ヒナグラ」で遊ぶ子供。よく焼けてます。
後ろには「四万十帯」からなる堆積岩の岩場がくっきり。
ちなみにこの辺りから南と北で地層の年代がかなり違うとのこと(日本地質図より)。

これもヒナグラの磯。

きれいに見えなくもない感じです。


同様な傾きは対岸の田の崎にまで見えます。


田並の磯では以前より金色や銀色の貝化石が採れると言われてきました。
どうやら磯の近くに銅や鉄の鉱脈があり、それらが温泉水に混じって化石表面に沈着し、
珍しい化石になるようです。
先日帰省した時に少し化石さがしに行ってきました。

砂岩と泥岩が交互に層をなす中、断層も見えます。

このようなノデュールの中に化石が多いとのこと。

でももうかなり探しつくされているようで、なかなか見つかりません。

これは??

こんど機会があったらプロに聞いてみます。

ところで、明らかな化石は簡単には見つかりませんが、下のようなキラキラが含まれる石は多数あります。

写真では伝わりにくいですが、実際には金属的な輝きがあります。

磯をよく見ていたら鉱脈発見 (といっても、小さいですが(笑))

岩の裂け目から金属がこのように約10メートル露出していました。

一部はがしてみたところです。

後日学芸員の方に見てもらったところ、黄鉄鉱とのことでした(結晶の特徴から)。
金でなくて残念(笑)。
ちなみにアメリカのゴールドラッシュの時に黄鉄鉱を金だと勘違いしてぬか喜びする人が多かったので
黄鉄鉱は「fool's gold」と言われることもあるそうです(foolかあ)。
でも初めて自分で鉱脈を見つけることができて感動しました(立直り早いです)。


田並の浜には下のような物が多数あります。何かわかりますか?

菊目石と呼ぶ、サンゴの死骸です。
昭和初期まではこれを杉檜などと一緒に窯に入れて高温で焼いて石灰を採り出し、田並の重要な産業になっていました。
「灰地地区」という地区名も残っています。
石灰岩から採った石灰よりもひび割れにくく、品質が良かったとのことです。


これは田並の近くの串本の町に現存する「なまこ壁」の蔵。
この漆喰の原料として田並の石灰がよく使われたそうです。


これはやはり田並近くの大島にある、樫野崎灯台。
明治初めに、日本初の石造り洋式灯台がここ樫野に英国人技師の手によって建造されましたが、
その時の壁塗りの材料にも田並の石灰が重用されました。
際立つ白が遠くからでもよく見えたそうです。

脱線してきたので、田並の海の少し違う場所に移動。

田の崎側の浜からヒナグラ方面を見た所。
遠くにかすんで見えるのが本州最南端の潮岬(しおのみさき)です。
こんな浅い小さな岩場でもカサゴやウツボが良く釣れました。
(和歌山県南部ではウツボを食べます)



これがカサゴ。フエフキダイの稚魚や小グレも見えます。
刺身でもフライでも煮付けでもおいしいですが、本当のおすすめは味噌汁に入れること。



串本に来られることがあったら是非ウツボの佃煮を食べてみて下さい。結構おいしいですよ。
ちなみに下に写っている指は私の左手中指。第一〜第二関節の間に見える白く薄い2本の線は、
小6の時に、釣り上げたウツボに噛まれてできた傷跡です(笑)。動脈を噛まれたみたいで、
マンガのように血がピューピュー噴き出してあせりました。
まあ、噛みちぎられなくて良かったです。


少し歴史の話も。

近年、熊野古道が世界遺産に登録されました。平安時代頃に京都などから熊野三山
(最上図の本宮・新宮・那智)に詣でることが流行し、主には最上図の「中辺路」が使われたのですが、
時には海岸沿いの道「大辺路(おおへじ)」を通ることもあったそうです。
この写真は、田並の中学生が熊野古道(大辺路)を探ってイラスト看板にしてくれたものです。
田並から小さな山を越えて隣村の有田(有田みかんの有田とは違います)に抜ける道を示しています。
ちなみに上で紹介した司馬遼太郎さんの「木曜島の夜会」の主人公「藤井さん」は有田出身の方です。
もっとちなむと私の母も有田出身です。


せっかくなので最初の1/5くらい、大辺路を歩いてみました。

田並川東岸の入り口付近


1760年頃の作でしょうか。


私が小学生の頃は、この辺りに猿が飼われていたのですが、さすがにもういませんでした。


今も農道として使われているので、歩きやすい道です。でも春〜秋はマムシにご注意。


旧国道に合流。車が見えている場所は「十首(じゅうくび)」という、ミステリースポット。




ここが「十首(じゅうくび)」です。
地名からして嫌な感じがしますが、大体予想通りの場所です。
地名のいわれはいくつかあるようですが、私が知っているのは2つで、
昔お上に背いた人が斬首されてここに10の首が見せしめに並べられた(畑に行く時に皆が見る)、
というものと、もう一つは鎌倉時代、和田義盛の乱で北条に敗れた和田の家来が船でどんどん西に逃げ
この近くの磯(大岩という)に難破して上陸して田並に土着したが、航海中に亡くなった10人を
ここに埋葬した、という話です。
2つ目の話は「和田軍記」か「吾妻鏡」に出てくると聞いたことがあるので、時々読んでいますが
まだよくわかりません。お詳しい方がいらしましたら是非メール等でお教え下さいませんでしょうか。



たまには地学的話も。
十首付近の崖の写真ですが、注目点は、よく研磨された楕球形の5cm前後の小石が
沢山見える点。
これは川原で見られる石の特徴です。
地殻変動による隆起や海水面の変動により、昔の川が今は海抜30m位の所にきています。


まだまだ書きたいことは尽きませんが、また後日にとっておきます。
ここまでお付き合い下さった方、有難うございました。


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