身延(山梨県南巨摩郡)周辺


鳴沢(なるさわ)・本栖湖・木喰微笑館


身延は「みのぶ」と読みます。今はさほど有名でなくなってしまいましたが、
日蓮聖人が身延山に久遠寺(日蓮宗総本山)の元となる草庵をつくり、
武田氏の時代は金山や、かくし湯で知られ、
徳川家康が静岡に在住すると角倉了以(すみのくらのりょうい)に開削させた
甲斐と駿河を結ぶ富士川水運の中継点となって商業的に繁栄するとともに全国各地から
久遠寺(くおんじ)に詣でる身延講の目的地になるなど様々な歴史が刻まれた土地です。
その他、微笑仏で有名な木喰上人(もくじきしょうにん)の生誕地でもあり、
地学的にはフォッサマグナに伊豆小笠原弧が衝突してきた地域で、大陸が新生するモデルともいわれ、
また富士山や本栖湖も近く、私的にはとても興味深いです。





山梨県身延町(みのぶちょう)は茅ケ崎から車で約3時間かかり、やや遠い場所です。
アクセスは富士山の北を通過する、鳴沢・本栖湖通過ルートと、
富士山の西を富士川に沿って北上する富士川北上ルートがありますが、
どちらも通過点に面白いものがあり、両方おすすめです。


とりあえず鳴沢・本栖湖通過ルートで身延探訪。

鳴沢村や青木ヶ原周辺は、864年に富士山の寄生火山の長尾山が噴火し、
その溶岩流が湖や村々を埋めてできあがったと言われています。
溶岩流が森を覆った名残として鳴沢村には「溶岩樹形」や「氷穴」などが見られます。


実際の溶岩樹形はこんな感じです。

5m位の深さはありました。何も知らずに落ちて怪我をした人が過去かなりいたでしょうねえ。
溶岩樹形の周辺は富士山特有の多孔性の黒っぽい玄武岩だらけ。

一体どれくらいの量の溶岩が流れたのでしょうか...。


ついでに鳴沢氷穴も。

この日の氷穴内温は0度。


もっと氷がありましたが、暗くていい写真が取れず、これが精いっぱいでした。
高さ90cmの部分の穴道はかなり狭くてきつかったですが、私でも何とか通過できました。
昔はここの氷を江戸の将軍まで届けていたとのこと。


氷穴近くにある富士山博物館もアップ。

道の駅「なるさわ」内にあります。「鉱石ミュージアム」の文字が目立ちますが、ここが富士山博物館。


一時間くらい見ていたいです。これだけ調べつくすのはものすごい労力だったでしょうねえ。

各地の火山岩の標本もあります。例えば下の二つは富士山と昭和新山の火山岩。



富士山の火山岩は黒い玄武岩。昭和新山のは赤い安山岩。マグマの成分などで変わるとのこと。
他にも日本各地の有名な火山の岩が展示されています。


現在の富士山のでき方もわかりやすく説明してくれています。

数十万年前は、愛鷹山とほぼ同規模の小御岳(こみたけ)山でした(小御岳山頂は現在の富士五合目)。

1万年前頃に古富士山の火山活動が活発になり、小御岳山がだんだん覆われてきます。

上の方でふれた「せの湖」も見えています(一番大きな湖)。

更にこの2000年位で新富士活動が活発化して小御岳山・古富士山ともほぼ覆われて、現在の形に。


つまり現在の富士は次のような内部構造とのこと。


もっと単純化すると、

こんな3重構造だったんですね。

今の富士山と愛鷹山を富士宮市から(西側から)見たのが下の写真です。

数十万年前は同じような規模だったのにかなり差がついてしまいましたね。


鳴沢からもう少し西に行くと本栖湖があり、有難いことに道沿い湖畔に「富士撮影用ゾーン」があります。
このゾーンから撮った富士山がこれです。

もしお手元に千円札があったら、その中の富士山の絵をご覧になってみて下さい。
実は千円札の富士は本栖湖畔からみた姿だったんです。
(このページの一番上の地図の「千円富士撮影点」から撮りました。)

下はマイナス2度の外気の中で撮った日の出です。

残念ながらこの撮影点からでは、日の出が山頂に重なる「ダイヤモンド富士」は撮れないとのこと。


この「千円富士撮影点」を更に西に進むと身延町に入ります(ようやく身延の話スタート)。
いきなり険しい峠道ですが、遠くに南アルプスも見えてきます。

遠くに白く見える山が南アルプス。真ん中付近の山が赤石岳、その右が荒川岳。ともに3000m超です。
少しわかりにくいですが、写真の左下部分の、手前の山の裾野に見える集落が、木喰上人生誕地です。


道の駅「しもべ(下部)」の近くに木喰微笑館がありますが、直前数キロは相当狭い道です...。

んー、対向車が来ませんように。


この山道の崖の岩。この地域だと、おそらく2〜3千万年前の海底火山の堆積物のはず。
実は記念にかけらをもらってきて、今は院の入口外灯付近に飾っています。

ようやく目的地「木喰の里微笑館」(もくじきのさと みしょうかん)に到着。



木喰上人は仏像を彫るだけでなく、多数の句も残されたので、それにあやかって
いろいろな方が句を贈っています。

とても空気のよい場所です。


展示物は撮影禁止なのでパンフレットで雰囲気を。

木喰上人(もくじきしょうにん)は身延の丸畑地区(微笑館のある所)で生まれ、22歳から丹沢の大山で出家修行し、
45歳から木食修行(もくじきしゅぎょう、穀物や肉魚などは食べずひたすら木の実だけを食べて生きていく修行)を始め、
61歳から93歳まで(1778〜1810年)日本中を歩きまわって仏像彫りと句作を続けたとのことです。
61歳からの約30年間で彫った仏像は約1400体。

ちなみ木食上人というだけでは木食修行をした僧全般を指してしまうので、ここではこの身延生まれの上人は
「木喰」上人として特に漢字を変えて記しています(本人がこの「喰」で記録を残していたので)。

没後100年は埋もれた存在でしたが1924年に民芸運動で著名な柳宗悦によって見出され、日本中で大騒ぎになりました。
かなりの数の彫像がコレクターに収集されましたが、今も真作が日本各地の”無名”の寺社に供えられていたり、
丸畑地区の住人の家に保存されていたり、意外に身近に見ることもできます。

余談ですが、平成23年1月末に隣の富士川町で「なんでも鑑定団」の収録があると書いていたので、
きっと木喰関連の品も出るのではないでしょうか。個人的には録画してみようと思っています。



生木の幹に直接彫られた仏像も全国各地に。これを盗んだら人じゃないですね。
しかしこのタイプのものは年月とともに木が隙間を覆うように成長して彫像が「木の扉」奥に見えなくなってしまうことも。
でもその方が何となく有難い気もします。


木喰上人の彫像の特徴は、記念館名にも使われている「微笑」です。



ほっぺが膨らみ目を細めた素朴な微笑。特に晩年の作では毘沙門天や不動明王のような
「怒り顔」専門のような方まで柔和な顔に彫られています。
「どんな境遇にあっても生を受けたことを喜びましょう」というメッセージが伝わる気がして、
些細なことにすぐカッカしてしまう自分の浅はかさが恥ずかしくなります。


有志の方が、木喰上人の句に自身の版画を入れて廉価で売っています。

木喰上人の句の中で最も知られる句。


私はこれが好きですねえ。


プロの彫刻家によるレプリカも購入できます。

「仏好き」で有名な「みうらじゅん」氏のサインも飾っていたりして。


...。迫力です。


自刻像。
晩年はヒョウタンがよく彫られます。長寿の願いを込めているのだとか。


館の方はとても良い方でお茶まで出してくださり、ゆっくり木喰上人の世界を堪能させてもらいました。
有難うございました。


帰りは近くの「道の駅しもべ」でお土産を買って帰宅。

別の回で信玄かくし湯「下部(しもべ)温泉」もアップします(予定)。


手作りみそ美味しかったです。


これは...、また次の機会にチャレンジかな。


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