罪の原因は全て十字架不足。
無意味な忍耐の欠如が原因。
隣人愛とは「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」ということであるが、これは何よりも大事である。
三食の飯よりも大事。夢を追い求めることよりも大事。生きることよりも大事。教育を受けることよりも大事。医者になることよりも大事。学校の先生になることよりも大事。
人間関係の基礎中の基礎。
生きていくために人は人にすがりつく。これが憑依となり多少すがりつかれた方は精神的に病になる。さらにすがりつかれた方は生きていくためにまた誰かにすがりつく。
このようにして人は少しだけ何かを間違えた気になる。
人生に答えがほしいのなら、生きるためのすがりつきをやめることだ。これが十字架になる。
人は邪魔しあって生きているし、人はいじめあっても生きている。
隣人愛はこう言う。「自分にしてもらいたいことを人にもしなさい」またこうも言う。「自分にしてほしくないことは人にはするな」と。いじめや憑依や妬みや恨みは上記のことに反する。
ノーベル平和賞を頂いた人が教育が大事と言ってはいるが、隣人愛を教えないと日本みたいになるよ。
罪とは生きていくために選択したこと。人生の答えがほしいなら、十字架しかない。
悟った人は自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分の命までも捨てている。さらに家、財産、畑も捨てている。
これが仏陀の究極の悟り、諸法無我である。
また、諸法無我を悟り、これに生きれば、仏教でいうニルバーナ(涅槃)を得ることができる。ニルバーナ(涅槃)とは平安の境地のことで、迷いの世界から解脱して彼岸に渡ったときに起こる。
この彼岸とは「真理の世界」でキリスト教では「神の国」、ギリシャ哲学では「イデア」と呼ばれている。
迷いの世界から解脱して彼岸に渡るには上で述べたこと、つまり捨てるものを捨てることである。この「捨てること」を仏教では「執着から離れる」と言っている。
執着がこの世の本当の真理を見えなくさせている。執着を無くせば自ずと真理は見えてくる。
諸法無我を悟るには執着を無くすしかない。
なぜなら、諸法無我は執着を無くした時に実現するからだ。
つまり、心を空にすること、この状態こそが諸法無我を生きる状態なのだ。
このとき、人は全ての真理を悟れる。

所詮この世は悪強天弱。
悪魔なら生き、天使ならば死ぬ。
この小さな者の一人にしたのは私にしたことなのである。
最後の審判ではそう言われる。