まず、質料因(つまり、肉体が原因で起こる)でこの病気になると考える人について。こういう人たちはまず、魂や霊といった目に見えないものは存在しないと考えている。しかし、それが誤りだということを次の二つの論によって証明しようと思う。
まず一つ目は「魂が存在する」ということ、二つ目は「神が存在する」ということである。
一つ目の証明は具体例で証明する。例えば、おなかが痛い時、何を思うかは自由だ。つまり、自発的行動ができる。また、自発的自由選択ができる。このことから、魂は質料(肉体)に関係なく存在する。
二つ目は論理で証明しようと思う。
そのために、まず、「動いているものは他のものによって動かされている」ということを証明したいと思う。
もし、自分で自分を動かすものが存在するとしたら、どうなるか。
ここで、「自分で自分を動かす」、または、「自分自身を動かす」によって普通、意味されることが何であるのかを見ていくことにする。普通、「自分で自分を動かす」、もしくは、「自分自身を動かす」によって意味されることは下の図の左のような状態、つまり、動かす部分と動かされる部分に分かれているもののことについて言う。これは可能である。
しかし、厳密な意味で「自分で自分を動かす」ということを解釈してみると、不可能なことが見えてくる。つまり、下の図の右のように、動かす部分と動かされる部分に分かれていない状態になる。この状態で、動かそうとしたら、動かす対象が自分自身なので、動かすことができない。それは、動かそうとしたまさにその瞬間、動かそうとする自分が変えられてしまうからである。これは、実際は動きが起こらないことを意味する。よって、「自分で自分を動かす」ということは不可能である。
よって、動いているものは他のものによって動かされていなければならない。

さあ、本題に戻ろう。まず、質料因によって魂が存在するとしてみよう。魂には心があって、理解したり、考えたり、体を動かして何かの目的を達成することができる。そういうことを否定する者はいないだろう。しかし、心の働きによって(あるいは、魂の働きによって)体、言い換えれば質料を動かすというのは、明らかに、心が原因で体を動かしている。もし、心も質料だと言うのなら、先ほど証明した命題に反する。つまり、質料が質料を動かしているという奇妙なことが起こるからである。これは不可能である。よって、心は質料とは区別されなければならず、質料を動かす原因として働いている。ここで、原因は結果よりも優っているので、心は肉体(質料)に優っている。しかし、ここで、最初に前提としたこと、つまり、「質料因によって魂が存在する」と矛盾する。よって、これは不可能である。よって、その反対である「質料因によって魂は存在しない」ということが真である。ということは、魂は質料(因)が無くても存在するとしなければならない。
よって、魂は存在する。しかも、それは目に見えない霊として存在すると言わなければならない。
このことを証明するために、「動いているもの(先の命題より「動かされているもの」)と動かしているものの連鎖は無限にたどることはできない」ということを証明しなければならない。
動かされているものと動かすもの、この連鎖が無限にあると想定してみる。すると、無限というのは端がないということを意味するから、初めに動かすものがなくなってしまう。そうすると、動かされるものもなくなってしまう。このことは世界に動いているものは存在しないことを意味する。しかし、これは現実とは異なる。よって、無限に遡っていくことは不可能である。ということは最初に動かす者が存在しなければならない。これが皆が神と呼んでいる者である。
ここで、誰かは円のようにつながっているのではないかと言うかもしれない。しかし、これも不可能である。というのは動かされているものを動かすものは原因であって、その原因が円のようにつながっているとすると、同じものが同時に「優れている」のと「優れていない」の両方になってしまうからだ。どういうことかというと、原因は結果よりも優れており、もし、原因と結果が円のようにつながっているとしたら、始点と終点がつながるところで、同じものが同時に「優れている」のと「優れていない」の両方になってしまうということである。これは矛盾であって不可能である。
よって、最初に動かす者が存在しなければならない。これが皆が神と呼んでいる者である。これも目に見えない霊として世界を包括するようにして存在していると言わざるを得ない。