ふと外を見れば、細い雨がほとんど音もなくしとしとと降っていた。これで連続何日目だろうか……。すでに片手で足りないくらいは太陽を見ていないことになる。 そんな憂鬱な日々の中……。
「んきゃーっ!? トロンがまたクッションの上でおしっこしたーっ!?」
「大変ですわ〜」
「ああっ! 染みないウチに早くっ! 雑巾っ、ぞーきんっ!」
……平和だねぇ。
冷蔵庫からオレンジジュースを取り出してコップに注ぎ、飲みながら……僕はそんな風に心の中で一人つぶやいた。
BSD物語外伝 その02
『来訪者(中編)』
トロンがウチにきてから、すでに一週間が経った。空腹と寒さでかなり衰弱していた仔猫も、ちゃんと栄養をつけてかなり元気になっていた。そして、その元気に比例してトロンは無類のやんちゃぶりを発揮し出したのだ。
あちこちで粗相をするのは日常茶飯事。段ボールに敷いて置いたタオルはすでにぼろぼろで、一緒に入れて置いた時計はプラスチックの表面が傷だらけ。
他にもティナの尻尾にかみついたりレイナの尻尾に噛みついたりメイルの尻尾に噛みついたり……。本人(猫)はじゃれついているつもりなのだが、噛まれる方にしたらたまったものではない。……とりあえず、僕には尻尾が無くて良かったと思う。
もっともこれは、半分はメイルのせい。自分の尻尾を猫じゃらし代わりに使って噛みつかれ、それ以来トロンは尻尾がオモチャであるという認識を得てしまったのだから。
だが同時に、特にトロンがお気に入りなのもメイルで、彼女を母猫か何かと勘違いしているらしく、その懐きようは半端ではない。まぁ、サイズ的にも確かに親猫くらいの大きさだし。ついでに言うと、彼女が餌やりからトイレの世話
まで、すべて担当している。
三日坊主どころか一日であきらめると言ったティナの言葉は、どうやらはずれたようだ。
「ううっ……臭いですぅ……」
「はぁ……また洗い物が増えますね……」
クッションを摘んでぱたぱたと洗い場に走っていくレイナと、その後を雑巾を持って追いかけるティナ。……猫のおしっこって、臭いが取れないんだよなぁ……。
「こらっ、トロン! ここでおしっこしちゃ駄目って言ったでしょ! ちゃんとあっちのトイレでやりなさい!」
「ぅな〜……」
騒ぎの張本人であるトロンは、メイルにぺしっと叩かれた上にきつく叱られて、しゅんとしている。怒られてることはちゃんとわかってるんだけどねぇ……。わかっててやってるのがタチが悪い。
……まぁ、生まれたてと言っても良いくらいの仔猫にそんなにしっかりトイレのしつけができるハズもないんだけどねぇ。
「……ところでティナ。里親探しは進んでる?」
「いえ。ネットでも探してはいるんですが、ここまで取りに来られる方がいなくて……」
戻ってきたティナにそう聞くと、彼女は片手に手を当ててほうっとため息をついてそう言った。
「ええっ!? マスター、うちで飼っていいんじゃなかったの!?」
「こらこら、いつからそうなったんだ」
「え、最初から……」
「違うって。里親が見つかるまで、って言っただろ?」
「えーっ!? やだっ、うちで飼うのー!」
腰に手を当てて僕が言うのに、メイルは不満たらたらな様子でトロンをぎゅっと抱きしめる。
「にゃ〜」
さっきまで怒られていた様子は微塵も感じさせず、トロンもすりすりとメイルに頬ずりする。くうっ……可愛いし。
「……マスター、駄目ですよ」
ティナが僕の心の動揺を見抜いて、ジト目で睨んでくる。ううっ……。
「まぁすたぁ〜 いいでしょ〜?」
と、ぱたぱたと飛んだメイルが、ぴとっと僕の後頭部にしがみついておねだりしに来た。うう、小さい(物理的に)ながらもぷにっとした柔らかい感触が……。
「にゃあ〜」
うっ、しかもトロンまで! 僕の足にすりすりしてから、こくんと小さく首を傾げて無垢な瞳で見上げてくる。こ、このコンビネーションは……。
「わ、わかった……」
「マスター!」
思わず機械人形のように頷いてそう言ってしまった僕の袖を、ティナが慌てて掴む。が、それは既に遅かったようだ。
「ぅわーい! 良かったね、トロン!」
僕の頭から離れ、メイルは無邪気にトロンとはしゃいでいる。
「ちょっとマスター! そんなこと言って、どうするんですか!」
「い、いや……だって……」
頭から角でも生やしそうな勢いでティナが僕に詰め寄る。……って、本当に頭の天辺から放電してるしっ!?
が、ふとティナの視線が足下へと向けられる。つられて見てみると、トロンがちょいちょいと彼女のスカートを引っ張っていた。
「ぅにゃあ〜……」
大きな瞳に一杯の涙をため、うるうるとした目でトロンはティナを見上げている。ふにっと上げられた右手が……くうぅっ!
「はうっ」
額に手を当て、ふらりとティナがよろめく。……さしものティナも、これには撃墜されたようだ。最初に怒られたのが効いたのか、これまでの1週間はトロンもあんまり彼女には近寄らなかったのだが……どうやら自分の魅力の使いどころはわきまえているようだ。……トロン、仔猫のくせに賢いなぁ……。
「どうしたんですかぁ?」
後ろからのんびりとレイナが声を掛けてくる。
「にゃ〜」
今度はレイナを落とそうというのか、トロンがてふてふと彼女に近づいていく。……が、レイナはそれに気が付かずに、ずんずんと……って!
「れっ、レイナっ! 足下っ!」
「ほえ?」
持ち上げた足下には、きょとんとしたトロンの姿がっ!
「んきゃっ!?」
「あっ!?」
慌てて避けたレイナはバランスを崩して……。
ごすっ!
「うぁ……痛そ……」
「だっ、大丈夫ですかっ!?」
「レイナっ!?」
机の角に力一杯おでこをぶつけたレイナに、慌てて僕らは駆け寄る。トロンは大きな音にびっくりしたのか、部屋の隅っこまで一直線に逃げていった。
抱き起こしてみると、レイナは完全に気絶してしまっているようだ。おでこからは、血が出ている。
「メイルっ、冷蔵庫からアイ●ノンを! ティナは救急箱取ってきて!」
「わ、わかったっ」
「わかりましたわっ!」
僕の指示に、慌てて二人はすっ飛んでいく。怪我は……さほど大した事はなさそうだけど、場所が場所だけにちょっと怖い。まぁ、頭の怪我は血が出ないより出た方が安心とは言うけれど。内出血するよりもマシだからね。
額にガーゼと包帯を巻いて、アイ●ノンで冷やすことしばし……。
「う……ううん……」
「お、起きたみたいだね」
「大丈夫ですか?」
「レイナ、大丈夫?」
「にぁ〜」
みな、口々にレイナの事を心配して声をかける。隅っこにすっ飛んで行ったトロンも、いつの間やら近づいてきて心配げにレイナの顔をぺろりとなめた。くぅ……ちょっとうらやましい。……この場合、「どっちが?」とか言うツッコミは無しだ。
「scandisk実行……記憶野に異常無し。Boot成功。レイナ(Linux)との記憶差分を吸収中……」
「……って、レイナじゃなくてミレイか……」
「そうだ。帽子(ブートディスク) が取れていたからな」
くっ、とずれていた眼鏡を中指で押し上げながら、ぶっきらぼうにミレイはそう答える。
「ふむ……この仔猫がトロンか」
「にゃ〜」
ついと伸ばされたレイナの手に、すりすりとトロンは頬を擦り付ける。ヒゲがこすれて、こそばゆそうにレイナは目を細める。……と、ふと彼女が顎を上げ、空中を見たまましばらく固まった。……まさか一般保護エラーとかじゃないだろーなぁ。
「マスター、メールが届いたようだ。……ふむ、題名から察するに、仔猫の里親の……」
「たーっ!」
ミレイがなにやら言いかけた瞬間、メイルがどこからともなく取り出したフォークを振り回す。……フォークと言っても食事の時に使うアレではない。農作業などに使う、バカでかい(つまり、僕たちから見れば普通よりちょっと大きいサイズの)フォークだ。先端は結構凶悪な感じに尖っている。と、顔をしかめ、頭に手を遣りながらミレイがやや辛そうに言う。
「……くっ……! マスター、ヘッダ及び本文がメイルによって破壊された。解読及び復元は不可能なようだ」
「ふふ〜ん♪ ボクを誰だと思ってるの? メイル・デーモン
だよ? そのくらいは朝飯前だよん♪」
「……メ〜イ〜ル〜! 『ふふ〜ん♪』じゃ、ありません!」
「ひっ!?」
だ、大魔神!?
ごごごごご、とでも効果音が付きそうな感じでゆらりと立ち上がるティナに、メイルの顔が一気に引きつり、青ざめる。
「なっ、だっ、だって、ティナだってさっき飼っていいって言ったじゃない!」
「言ってません! それに、そういう問題でもありません! 第一、もしウチで飼うとしても、断りのメールも出せないじゃないですか! あなたはそれでもメールの守護プログラムとしての自覚があるんですか!? そもそもあなたはっ……!」
……ティナのお説教はまだまだ続くようだ……。
「マスター、お茶を淹れてこよう」
「え、あ、ああ。頼むよ」
ついと立って、ミレイはさっさと台所へ歩いていく。……って、逃げたな、ミレイ……。
と、そのとき玄関の呼び鈴が鳴り、その途端にぱっとメイルの顔が明るくなった。
「ほ、ほらほらティナっ、お客様だよっ! 迎えに出なきゃっ!」
満面の笑みを浮かべ、だがどこかひきつったようなメイルの台詞に、ティナは一瞬顔をしかめ、ぎろりと彼女を睨み付けてからぱたぱたと玄関へ走っていった。
「命拾いしたね、メイル」
「酷いよぅ、マスター。助けてくれても良いじゃない」
ふーっと大きくため息をつくメイルに苦笑しながら言うと、彼女はぷっと頬を膨らませ、唇を尖らせてそう答える。
「あのね……どう考えても、今のはメイルが全面的に悪いからね。今後はこう言うことがないように。メールが届かなくて迷惑するのは僕だけじゃないんだからね」
「うう〜、それはわかってるけどぅ」
「口答え禁止。rootとしての命令だよ、これは」
「ぅ……わかりました。ゴメンなさい、マスター」
びっと指を立て、身をかがめてメイルを叱ると、彼女は空中できちんと正座し、しゅんと俯いてそう謝った。ふと見れば、足下のトロンも同じようにしゅんとしている。
「よしよし、トロンは悪くないぞ」
「にゃ〜?」
しゃがみ込んで頭を優しく撫でてやると、トロンは上目遣いに僕を見上げ、弱々しく鳴く。その様子が、あまりメイルを叱らないでやって欲しいとでも言っているようで、思わず僕は苦笑した。
「あの、マスター?」
と、いつの間に戻ってきたのか、ティナがおずおずと僕の背後から声を掛ける。うん? と振り向くと、彼女は、
「あの、トロンを引き取りたいという方が……」
と、目を細めてトロンを撫でている僕に、少し申し訳なさそうにそう告げた。
「ええーっ!? やだやだっ! ウチで飼うのっ!」
メイルはぎゅっとトロンを抱きしめ、幼子のようにぶんぶんと頭を振り、そう叫んだ。ぎゅっと閉じた目の端には涙が浮かんでいる。
「……メイル……トロンの、本当の飼い主の方が来たのよ」
「え? 本当の飼い主?」
ティナの言葉に、メイルの顔が引きつる。僕も顔をしかめ、そう聞き返した。
「はい……。ネット上でトロンの里親を探していましたよね? ですけど、それとは別にプリントアウトしたこの子の写真も電柱に貼ったりして、探していたんですけど……それを見た飼い主の方が、自分の家の猫が産んだ子猫に違いないと……」
「……とにかく、会って話を聞いてみようか。……メイル、ちょっとトロンを見ててくれよ」
泣きそうな顔でこちらを見上げてくるメイルの視線をなんとか振り切り、僕は玄関へと向かった……。