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 玄関では、バスケットと大きな傘を持った17、8歳ほどの女性がきょろきょろと落ち着かない様子でホールを見回していた。かと思えば、傘からぽたぽたと滴が垂れているのをしきりに気にしている。

 彼女は僕たちが来たのに気づくと、慌ててぺこりと頭を下げた。同時に、手にしたバスケットから包帯を巻いた一匹の猫がひょっこりと顔を出す。彼女は慌ててその猫をバスケットに押し込んだ。

 
 
 

BSD物語外伝 その02
『来訪者(後編)』
 
 

「あ、あの、仔猫の事なんですけど……」

 何故か妙におどおどした様子で彼女はそう話しかけてくる。その視線は、ちらちらとティナの方に向けられていた。……ひょっとしてティナ、あの怒った顔のまま応対したんだろうか……? ちらりと視線を送ると、気まずそうにティナは顔をうつむけた。……予想的中、か。

 僕がとりあえず傘はあちらへどうぞ、と言うと、女性は慌てて傘を傘立てへと差し込んだ。

「ええと、トロンの元々の飼い主さんというお話ですけど……?」

「は、はい。あっ、済みません、わたし、ウェンディと言います。それでですね、実は……」

 ちらちらとティナを伺いつつ彼女が話した内容を要約すると、こうだ。

 彼女の家で、仔猫が5匹生まれた。母親にそっくりな可愛い仔猫だ。それがある日、ふと目を離した隙に悲痛なまでの鳴き声が聞こえ、慌てて見に行くと親猫は背中に酷い傷を負い、更に仔猫は4匹になっており……そして、そこには黒い羽が数枚落ちていたそうだ。

 彼女は慌てて部屋に引き返し、持ってきたエアガンでカラスを撃ち落とそうとしたらしいが、空しくBB弾は空を切ったらしい。

 てっきり殺されてしまったと思っていたが、しばらくして買い物に出たところ電柱に貼られたトロンの写真を見つけ、ここに来たと言うわけだ。

「……なるほど……それで……」

 カラスを撃ち落とそうとしたというくだりで一瞬耳を疑ったが、酷く衰弱した様子のトロンを思い出し、僕はなるほどとうなずいた。それにしても、その後カラスにどういう経緯があったのかは知らないが、トロンが殺されなかったどころか全く怪我も無く済んだのは奇跡としか言いようがない。

「ちょっ、あっ、トロン! 駄目だよ、どこ行くの!?」

「にゃ〜」

 突然後ろから聞こえた声に振り返ってみると、全力で走ってくるトロンと、その後を慌てて追いかけるメイルの姿があった。

 と、ウェンディさんの持っていたバスケットから、先ほどの包帯猫が飛び出す。あっと思う間もなく、猫族特有のしなやかさで着地しようとして……しかし、背中の傷が痛むのかバランスを崩してどうとばかりに倒れ込んだ。

「にゃあ……」

 そこに駆け寄ったトロンは、一生懸命にその猫の顔を舐めていた。包帯猫の方も、弱々しくトロンの顔を舐め返す。目を細めて体ごと母猫にすり寄るトロンは……本当に嬉しそうだった。

「……本当の……お母さん?」

 ぱたぱたと飛んできたメイルが、その様子を見ながら何度か瞬きをして、呆然と呟く。彼女がよろめきながら着地し、トロンにおずおずと手を伸ばそうとした途端……。

「ふぅぅぅぅぅぅぅっ!」

「……ッ!?」

 いきなり立ち上がり、全身の毛を逆立てて威嚇行動を取る母猫に、メイルはびくりと手を引っ込め、飛び上がった。メイルの身長から考えると、母猫の大きさは大虎にも等しい大きさだ。威嚇されて恐怖するのも無理はない。

「ご、ごめんなさい! こらっ、パステル! 駄目でしょ!」

 我に返ったウェンディさんが慌てて母猫を押さえようとするが、パステルと言うらしいその母猫はトロンの首筋をくわえると、とても怪我をしているとは思えない動きで彼女の手から逃れた。

「あっ、あの、ごめんなさい、普段は大人しい子なんですけど……」

 おろおろとウェンディさんはバスケット片手に母猫を追い回そうとするのを、僕は慌てて止めた。

「ちょ、ちょっとウェンディさん、そんなに追い回したら怪我にも悪いですよ」

「……あっ、そうですね」

「……何を騒いでいる?」

 ティーセットを乗せたお盆を両手に持ったミレイが、不思議そうにホールへとやってくる。

 その足下近くで母猫はトロンをくわえたまま、背中の毛を逆立てて精一杯の威嚇をしている。レイナは少しだけ首を傾げると、ふむと一つ頷いてティーセットを花瓶の置いてある小さなテーブルに置き、しゃがみ込んだ。

「ちょ、ちょっと、ミレイ……」

 今は母猫は気が立っているのだから、と伝えようとしたが、それより先に彼女は唇にほんの微かな笑みを浮かべて右手を差し出した。

「怯えることはない……ここにお前を傷つける存在はいないのだから」

 あくまでもぶっきらぼうな言葉遣いとは裏腹に、唇に浮かんだ笑みは、そして眼鏡の奥の瞳はとても優しい。

 母猫はしばらくの間背なの毛を逆立てていたが、やがてトロンをくわえたまま彼女の足下に歩み寄り、我が子をそっと床に下ろす。

「……うそ……」

 呆然と呟くウェンディさんの目の前で、パステルはミレイの指先の匂いをふんふんと嗅ぎ、そして安心したように頬を擦りつけた。トロンはそんな母猫にすり寄り、思う存分に甘えているようだ。

「捕まえようと焦っては駄目だ……猫は敏感にそれを感じるのだから」

「…………」

 何やら考え込んだようにミレイとパステルを見遣っていたウェンディさんが、ついとその視線を僕に向ける。

「……あの、仔猫のことですけど……」

「ああ、大丈夫ですよ……お返しします。……メイルも、わかるでしょ?」

 僕の言葉に唇を噛みしめ、メイルは俯いたまま何も言わない。

「いえ、もし何だったら……彼女たちなら、信頼できる気がするんです。そちらで引き取って頂いても……構わないんですが……」

 目を細めるミレイや、落ち込むメイルを見遣り、そう言いながらも彼女の瞳はトロンに向けられ、寂しそうだった。この人は本当に猫が好きなんだろうなぁ、と僕は心の中で呟く。

「……いえ、ですけど……ウチは精密機械もありますし……生き物は、ちょっと……」

そう。ウチには、サーバルームというものがある。以前、ティナたちの肉球グローブの抜け毛が問題になった事があったが、もちろんそれはトロンについても言える事だ。それに、今はまだ小さいから大丈夫だが、もう少し成長すればサーバに登る事などたやすい。バックアップはこまめにしているとはいえ、不意に配線を抜かれたり、万が一にでも粗相されたら……。

 それに、そう言った「物」による金銭的な被害もそうだが、最悪ティナ達自身に被害が及ぶ事もある。それを考えると……そのリスクだけは、できうる限り減らして置きたかった。メイルには辛い選択をさせてしまうのだろうが……。

「……ボク、我慢する」

「メイル?」

 歯の隙間から絞り出すようにしたメイルの呟きに、僕は彼女の方に視線を向けた。そこでは、ぎゅっと拳を握りしめたメイルが力無くうなだれていた。

「あの子、本当のお母さんに会えて……嬉しそうだもん。ボクもトロンの事は好きだけど……あんな風に甘えて貰ったこと、無い……。だから……」

 今にも泣きそうなメイルの言葉に、僕は何も言うことができなかった。確かに、母猫と暮らしたほうがトロンには良いのだろう……。確かに、そう思えるから。

「……あの、メイルちゃん?」

 しばらくそんなメイルを見つめていたウェンディさんは、おずおずと彼女に声を掛けた。

「あのね、ウチ、ここからそんなに遠くないから……メイルちゃんがうちの子……トロンに会いたくなったら、いつでも遊びに来ていいのよ?」

「……本当?」

「ええ、本当よ。こんな事で嘘言ったりしないわ」

 その言葉を聞いて、メイルの表情がぱっと明るくなる。「マスター!」と振り向く彼女に僕は微かに苦笑を浮かべ、

「ああ、いいよ」

 と頷いた。

 

 そして……。

「まぁすたー! 行って来まぁす!」

「あっ、こら! メイル! あなた、またトロンの所へ……!」

「マスターが良いって言ったもんねー!」

「待ちなさい! そんなこと言って、ここの所毎日じゃないの! 自分の仕事もしないで、まったくあなたはっ……!」

 嬉しそうに飛んでいくメイルと、それを角でも生やしそうな勢いで追いかけるティナ。

 こりゃ、近所にも丸聞こえだろうなぁ……。苦笑しながら僕は紅茶を口に含む。

「こう言うのも……悪くは無いな?」

 ……ミレイ?

 後ろから掛けられた声に驚いて振り向くと、「どうかしましたかぁ?」と、ほんわかレイナがお盆を持って首を傾げていた。

 僕は「何でもない」と小さく笑うと、ディスプレイから目を離す。さすがにずっとディスプレイの前に座りっぱなしでは肩が凝る……。

 まだ追いかけっこを続けるティナやメイルたちのそのやり取りを横目で見ながら、僕はもう一度紅茶を口に含み……これまでの雨
天がまるで嘘のように晴れた青空を見上げて呟いた。

「……今日も……平和だねぇ……」

 ……再び見上げた空は、抜けるように青かった。そう、まるで、台風一過の空のように……。

 
 
 

BSD物語外伝 その032 『来訪者』 完