注)
にカーソルを合わせて0.5秒ほど待つと、Tipヘルプ(簡単な説明文)が出ます。
しとしとと細い雨が庭の紫陽花に降り注いでいる。窓の桟をのろのろとカタツムリが這っていた。
僕はレイナが音楽ファイルの整理をやっているのを横目で見ながら、オレンジペコー
を口に含んだ。さわやかな苦みと、ほの甘い香りが鼻孔をくすぐる。
メイルが目を閉じてほとんど寝ているかのように僕の目の前にぷかぷかと浮かんでいる。だが、その手にはしっかりクッキーが握られていて、時々かじってはもぐもぐやっていた。
Pi!
タンっとレイナがキー薬指でEnterキーを押すと、小さなビープ音が響く。彼女は椅子の背もたれに体重を預け、ふぅーっと長く息を吐いた。どうやらファイル整理は終わったようだ。
と、両手に洗濯物を抱えたティナが部屋に入ってくる。彼女は机の上に洗濯物を置きながら、ほうっとため息を付いた。
「こう雨が続くと、洗濯物がたまっていやですね。……まぁ、乾燥機があるからまだいいですけど」
「そうですねぇ。やっぱり乾燥機で乾かすより、お日様の匂いがするほうがいいですものねぇ」
「それは全面的に賛成。……あ、レイナ。紅茶のお代わり、頼める?」
「わかりましたわ」
僕が言うとレイナはこっくりと頷いてデスクから離れ、紅茶のお代わりを取りに行く。
「そういえば、明日は晴れるって天気予報では言ってたけど」
「晴れるといいですね」
「そうだねぇ」
「マスター、紅茶のお代わり、お持ちしましたわ」
「お、ありがと」
にゃ〜……。
窓の外からそんな弱々しい声が聞こえたのは、その時だった……。
BSD物語外伝 その02
『来訪者』
何だろうと窓を開けて下をのぞき込むと、そこではびしょびしょになった仔猫が弱々しく鳴いていた。ようやく目が開いたくらいの、生まれて間もない仔猫だ。アメリカンショートヘアーと、何かの混血だろう。全体的に灰色っぽい縞模様で、所々に焦げ茶が混じっている。
「あーっ! 猫さんだ!?」
「あらあら、あらあらあらあら、大変ですわ!」
止める間もなく、洗濯物の中からタオルを取って、慌ててレイナが走っていく。
「……あ〜。まあいいや」
僕はぽりぽりと頭を掻いてからタオルを2枚取り、おもむろにスリッパと靴下を脱いで無造作に窓の下に降りた。
「ああっ!?」
ティナが驚いた声をあげるが、構わず僕はひょいと仔猫を抱き上げた。腕の中で震える仔猫は本当に小さくて、その体は冷え切っている。このまま放っておいたら数時間も保たないだろう。
「ティナ、急いで湯たんぽとタライとをお風呂場に持ってきてくれる? ついでに温めた牛乳も」
「あ、あっ、はい」
僕が言うと、慌ててティナは台所へと向かう。その間に僕はもう一枚のタオルで足の裏を拭いて部屋に上がり込む。ちょっと肩口とかズボンの裾が濡れたけど……まあいいや。洗濯物が増えるってティナに怒られるだろうけど。
僕は椅子に腰掛け、仔猫を丁寧にタオルで拭いてやった。
「親猫とはぐれたのかな……まさか捨て猫ってことは無いだろうな」
「うわーっ、うわーっ! 見せて! 見せて見せてマスター!」
さっきまでぼけぼけしてたメイルが、目を輝かせて僕の周りを飛び回る。僕は思わずはたき落としたくなる衝動を堪え、仔猫をメイルに見せてやった。
仔猫はメイルを見て、弱々しく『にぃ〜』と鳴いた。
「ああ〜んっ、かわういよぅ〜」
メイルは仔猫の可愛さに撃沈され、両手を胸の前で組んで身悶えている。
「ああっ!? 仔猫ちゃんがいませんっ!?」
窓の外から聞こえた悲鳴に振り向いてみれば、そこには呆然とした様子のレイナ。今の彼女にタイトルを付けるとすれば、「がび〜ん!」以外の何ものでもない。……ちょっと古いか。
「レイナ、こっちこっち」
「……ええっ!?」
僕が呼ぶと、彼女は幽霊でも見たかのような顔でこちらに振り向いた。
「いっ、いつの間に?」
「いいから、早く戻っておいで、そんなトコじゃ傘さしてても濡れちゃうよ。僕らは風呂場に行くから」
「わ、わかりましたぁ……」
とぼとぼと肩を落としてレイナが戻っていく。僕とメイルは仔猫を抱えて風呂場へと向かった。と、ティナがタライその他もろもろを持って風呂場に入ってくる。さすがに運びきれなかったのだろう、でっかいワゴンに載せて持って来た……って、何処にあったんだろう、そんなもの……。
「だいぶ弱ってるから、早く暖めてやらないとね」
タライに少しぬるめのお湯をざっと張り、仔猫をそこに浸す。
「に゛ゃあ゛〜」
水をいやがって仔猫は抵抗するが、衰弱してるだけにその力は弱々しく、ほとんど意味はない。しばらく洗って泥を落としてやると仔猫はだいぶキレイになった。
「マスター、仔猫ちゃんはどうです?」
と、レイナがタオルで自分の服を拭きながら風呂場にやってくる。
「うん、だいぶキレイになったよ。これからミルクをやらなきゃね」
タオルでしっかり水気を取って、ドライヤーを直接当てないようにして優しく乾かしてやる。暖かいのが気持ちいいのか、仔猫は目を閉じておとなしくしていた。やがて完全に水気が乾くと、仔猫はふかふかの毛に包まれて初めに見たときの1.5倍ほどのサイズになっていた。
僕はティナが持ってきたミルクをお湯で薄めて
小皿に入れ、仔猫の前に置いてやる。仔猫はしばらくふんふんと匂いをかいでいたが、やがて小さく「ぅな〜」と鳴いて、ぴちゃぴちゃと無心にミルクを舐め始めた。
「はうぅっ!? かっ、かわういぃ〜 ね、ねっ、マスター! ボク、この猫飼いたい! いいでしょ!? ボクが世話するから!」
「駄目ですよ、メイル。自分が世話するって言って、結局は誰が世話すると思ってるんですか!」
「そうですよぉ、それに生き物を飼うのは大変なんですよ? 仕草が可愛いだとか、喉の下の毛がふかふかだとか、にくきうがぷにぷにだとか、そんな生半可な理由じゃ駄目なんですよぅ?」
「ヤダ! 飼いたいって言ったら飼いたいのっ! 絶対に飼うんだもんっ!」
柳眉を逆立てるティナと、のんびり諭すレイナ。だが、メイルはくるくるとアクロバティックな飛行を繰り返して体全体で駄々をこねる。
「駄目って言ったら駄目ですっ!」
「まあまあ、ティナ。そう目くじら立てなくてもいいだろ?」
「でっ、でも!」
「やったー! マスターがいいって言ったもんね〜! 『su
』だもんね〜」
いや、さすがにroot権限
まで使ってないって。鬼の首でも取ったように勝ち誇るメイルに、僕は苦笑する。
「マスター! 簡単に決めないで下さい! 絶対に私が世話することになるんですよ!? メイルが世話するなんて、三日坊主どころか一日坊主に決まってます!」
「メイルってば、何にでも飽きやすいですからねぇ」
「そんなことないもん! ちゃんと世話するもん!」
「メイル……あんまり聞き分けの無い子には……」
ぎろっと上目にメイルを睨んだティナの頭の天辺、ぴょこんと跳ねたアンテナのような髪の毛の先にぱちっと一瞬青白い火花が弾ける。それを見たメイルはまともに顔を引きつらせ、慌てて僕の背中に隠れた。仔猫は我関せずと言った感じにミルクを舐め続けている。
「マスター。どいてください」
普段よりオクターブ低い声でティナが言って、ずいと一歩前に出る。……って、メイル、隠れるのはいいけど……シャツを引っ張るのはやめてくれないかな。首が苦しいし、襟が伸びるから。
「まあまあ、ちょっと落ち着きなさいってば」
むぎゅ。
「ぃきゃっ!?」
僕がむんずと無造作にティナの尻尾を掴むと、彼女は素っ頓狂な声をあげてのけぞった。同時に、彼女に集まり始めていたデンパのカタマリが雲散霧消す……って、痛っ、ちょっと感電した……。
「ティナ、この子を今放り出したって、すぐに死んじゃうだろ? だから、せめて里親が見つかるまでウチで飼ってもいいじゃないか」
ぴりぴりする右手を振りながら、僕は諭すようにそう説得する。
「それは……そうですけど……。うーっ……ああっ、もうっ! わかりましたっ! メイル! 里親が見つかるまでですからねっ!」
「うわーいっ! やったー!」
「って聞いてるんですかっ!?」
「猫さん〜♪ 猫さん〜♪ あっ、そうだ、名前考えなきゃ!」
「……聞いてないみたいだね」
「はぅ……」
がっくりとうなだれるティナの肩を、僕はぽんぽんと軽く叩いた。
しばらくして……。
「うーん、可愛い名前……可愛い名前〜」
腕を組んで逆さまになりながら、メイルは先ほどからずっとうんうんとうなっている。
すっかり暖まってお腹もくちくなった仔猫は、バスタオルを敷いて湯たんぽと小さい時計を入れた段ボールの小屋で、びろーんと体を伸ばした状態で
ぐっすりと眠っている。時計を入れるのは、かちかちという秒針の音を親猫の心音だと思って仔猫が安心するからだ。
「可愛い名前ですかぁ〜。じゃあ、見た目でシマシマとかどうですか〜?」
「ヤダ。可愛くない」
レイナがのほほんと言うのを、メイルは速攻で却下する。……まぁ、確かにシマシマだけど……それはちょっとセンス無いと僕も思う。
「じゃあ、チャトラとかはどうです?」
「……ずいぶん古いのを知ってるね。でも、この子は茶色じゃないよ?」
懐かしい某動物映画――仔猫を段ボールに入れて川に流すアレだ――の主人公
だった仔猫の名前を挙げるティナに、僕は苦笑してみせる。
「それに、大事なことを忘れてるよ」
「なぁに、マスター?」
「この子がオスかメスかってこと」
言って、僕は人差し指で仔猫をころんと転がして仰向けにする。仔猫はそれでも気持ちよさそうに眠ったままだ。
ティナにレイナ、メイルが一斉にのぞき込みに来る。
「……あ……オトコノコ……ですね」
口元に手をやって、ティナがぽっと頬を赤らめる。……はて、猫耳メイドはオス猫をどう感じるんだろうか?
「じゃあ〜、トロンというのはどうでしょう?」
「トロン? ……ああ、TRON
ね。なるほど」
レイナの間延びした言葉に、僕しばらく考え込んでその単語を頭の中で変換する。何が「じゃあ」なのかわからなくて時間がかかったが、どうもメイルの「可愛くない」に対してのせりふらしい。
メイルは何度かその名前を舌の上で転がすと、目を輝かせて大きく頷いた。
「うん! いい! それいい! トロン〜♪ おまえの名前はトロンだよ〜♪」
メイルは言いながら、ごろりと寝転がってトロンのにくきうをぷにぷにする。仔猫は寝苦しそうにもぞもぞと動いてうつぶせになると、再び静かな寝息を立て始めた。
こうして、我が家に家族がもう一人(一匹)増えたのだった……。