*桜染*
(黎深・絳攸)


【2】

吏部に奇跡が起こった後、絳攸が連れてこられたのは酒楼だった。
あのあと、黎深が神業的に瞬時にすべての決裁を終えたため、なんと定時よりも早くに上がることができた。それに吏部官たちは滂沱と涙を流して喜んだのだが、ただ一人絳攸だけは上司のあまりの変貌ぶりに首を傾げていた。
(何もないのに黎深様が仕事をしてくださるなんてありえない……。しかも何だか機嫌もいいし……。一体どうしちゃったんだろう)
絳攸はそう思いながら、勧められるまま菜に箸をつけ、酒を干していく。
黎深はといえば、自らも酒肴を楽しみつつ、ただうっすらと笑みを浮かべてそれを眺めていた。特に何かを語るでもなく、取り立てて目的がある訳でもなさそうだった。
黎深に勧められるまま盃を干していた絳攸は、ほんのりと酔いが回ったところで、思い切って聞いてみることにした。
「あの、黎深様?」
「何だ」
「どうして仕事をしてくださったんですか?」
「お前がしろと言ったのだろう?」
「ですが、いつもはいくら言ってもしてくださらないのに」
どうして今日に限って、と言った絳攸に、黎深はいささか考えてからこう口にした。
「――春だというのに、まだ……だからな」
「……はい? 仰る意味が分かりませんが……」
不思議そうに首を傾げた絳攸に、黎深はただ笑った。笑いながら、瓶子から自らの盃に酒を注ぐ。
「分からぬならいい。――ああ、もう酒がないな。……だが……」
チラと絳攸を見遣った黎深は、店の者を呼ぶと会計を申し付けた。
それに驚いたのは絳攸だ。
「え。黎深様、珍しいですね。いつももっと飲まれるのに」
紅一族は基本的に酒に強い。黎深は絳攸と同じかそれ以上飲んでも、いつもケロリとしていた。絳攸が泥酔し記憶をなくすほどであっても、だ。だから絳攸はいまだかつて養い親が酒に酔っぱらう様を見たことがなかった。せいぜいが「少々酔う」くらいである。
なので、今のように「絳攸がほろ酔い」程度の段階で酒を止めるということは滅多になかった。
「ああ。それ以上だと桜ではなく梅になるからな」
「は?」
「分からぬならいいと言ったはずだ。それ、帰るぞ」
「え、あ、はい!」
相変わらず解せない、といった表情のまま、絳攸はおとなしく黎深について軒に乗り込んだ。
ガタガタという心地よい振動に、日頃の疲れ、ほろ酔い加減なことも手伝って、絳攸は程なくして舟を漕ぎ出した。
それはまったく黎深の予想通りだった。それだからこそ彼は限界まで仕事を溜め、邸ではなくわざわざ酒楼へと絳攸を連れてきたのだ。
黎深は、こく、こく、と首を揺らす養い子の身体を、こてんと自分の膝上に転がす。
その寝顔を上から覗き込んで、黎深は微笑んだ。
「やはり本物よりもこちらの方がよほどいい。本物が咲いたら花見の宴などするのもおもしろそうだが……」
邸だとコレは飲みすぎるからな、と笑った黎深は、眠る養い子のほんのりと桜色に染まった頬をいとおしそうに撫でた。

END.
【←1】
ほっぺが桜色〜、の絳攸くんと、それを愛でる黎深様が書きたかったので、短いですがこんなお話に(笑) 今の季節ならではの時事ネタですね〜

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