*衣替え*
(黎深・絳攸・邵可)
【1】
かさ、という僅かな音を捉えて、邵可は注意をそちらへと向けた。
常人の耳には到底届かないであろうそのごくごく微かな音は、どうやら衣擦れのようだ。しかもその発信源は、壁一つ隔てた書棚の向こうからそぉっとこちらの出入り口へと近づいてきている。
(おや、この気配は……)
そのとてもよく知った動きと気配に、邵可は、本当にしょうがないなぁ、と苦笑を洩らした。もちろん彼はそう分析する間にも蔵書を分類する手は止めていない。
(来るなと言っても来るのだから……)
音の発信源が扉に手をかけようとした瞬間を計って、邵可は声を上げた。
「こちらの室は現在立ち入り禁止ですよ、紅尚書」
途端、びくっと動きを止めて立ち尽くしたその人物に、邵可はくすくすと笑みを浮かべる。
「でもどうしても用があるなら入っておいで、黎深」
「あにうえぇ……」
しゅんとしつつ、でもどこか少し嬉しそうな顔をして室に入ってきた弟に、邵可は仕事の手を止めた。
「そろそろお茶休憩にしようかと思っていたのだけれど、きみも飲んでいくかい?」
「飲みます!!!」
即答した黎深は、目にも止まらぬ早さでちゃっかりと卓子に着いた。
お行儀良く座った弟に、邵可は言葉通りに茶を淹れてやる。
「はい、どうぞ。でもこれを飲んだらすぐに吏部へ帰るんだよ。また絳攸殿を困らせているのだろう?」
「そんなことはありません。――でも兄上、どうして私だと分かったのですか」
黎深はもちろん、どうして誰か来るのが分かったのですか、とは問わなかった。
兄が気配を読めるのは黎深とて熟知しているし、それは黎深自身も同じことだった。だが、"誰かがいる"のが分かることと"誰がいる"のかが分かるのとでは、大きな違いだ。さすがの黎深でも後者は無理だった。
だが邵可は弟の問いにあっさりと答える。
「いや、なんとなく、黎深かな、って」
そう言った兄に、黎深はほのかな期待をもって訊ねる。
「あ、兄上、それは、わ、わ、私だからでしょうか!? 兄上は、わ、私のことを……!」
「ううん。大抵の人は分かるよ。主上でも絳攸殿でも分かるし、藍将軍も……。――あれ、どうしたんだい、黎深?」
ほのかな期待をサクッと消されてしまった黎深は、そうですか、と暗い声で呟いた。
「あのハナタレや藍家の小僧まで……」
暗い声でブツブツと呟く弟に、邵可はとりあえず慌てて補足を入れた。
もしこのままの弟を吏部へと返したら、彼の養い子がやつ当たられるのは目に見えている。
「だって黎深、ここに来る人間なんて限られているだろう? 衣擦れの違いなんかでなんとなく区別がつくんだよ。主上や藍将軍は武具の音をさせてらっしゃるしね。そして重い衣を引き摺りながらこっそりと扉に近づいてくる音が、きみ。きみの気配はすぐに分かるよー」
絳攸殿は歩き回って荒い息をしているか、もしくは疲れ切ってぽてぽてとした足取りをしている……、とまでは義理の甥っ子の名誉のため、邵可は言わなかった。
「…………そうですか」
「うん。――おや黎深、もうお茶がないね。そろそろ帰りなさい。絳攸殿が待ってる」
「……はい」
少々不満げな顔をして室を出て行こうとする弟の背中に、邵可はちゃんと仕事をするんだよ、と声を掛けた。
【2→】
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