〈ルネッサンス薫るヴィチェンツァ−その2

<バシリカのスケッチ>

ミラノ駅からES(ユーロスター)に乗り、おおよそ二時間で

ヴィチェンツァ(VICENZA)に到着した。

 この町は、「黄金の三角地帯」の一角を占めている。「黄金の三角地帯」とは、

このベニスに近いヴィチェンツァ、ミラノ近郊のヴァレンツァそしてトスカーナ州の

アレッツォという三つの町によって三角形に囲まれた地域を指す。

この三つの町は、イタリアにおける三大金細工産業の町として知られている。

また、この人口約12万人ほどの小都市ヴィチェンツァは、「パラデイオの町」とも呼ばれており、

彼と彼の弟子によって設計された建物が多く残る町でもある。

ヴィチェンツァの町もまた他のイタリアの町と同じく、市街地は駅から少し離れたところにある。

駅からローマ通りを北に10分ほど歩くと、右手に中心街の入り口見えてくる。

入り口から少し中に入るとガスペリ広場があり、ここから

パラデイオ通り(CORSO ANDREA PALLADIO)が始まる。

その名のとおり、この通りにはパラデイオの建築が立ち並んでいる。もちろん、彼以外の

建築家の手による建物も多いわけであるが、不思議なことにパラデイオの建築は

すぐにそれと分るのである。他の建物もそれなりに良いのだが、彼の作品は

そのバランス、斬新な表現、細部の意匠等どれをとっても他の建物より突出したものに仕上がって

いるからである。

 

文豪ゲーテもイタリア旅行の際、このヴィチェンツァを訪れ、

建築家パラデイオの作品に深い感銘を受けたことが彼の著書『イタリア紀行』の中で

見ることができる。彼がイタリアを旅した際の有名な三大体験は、古代ギリシャの彫刻、

ラファエロの絵画そしてパラデイオの建築とされている。

ゲーテは、彼の有名な作品の一つであるオリンピコ劇場についてこう述べている。

 『つまり、それらはその実際の大きさと具体性とによって眼をみたすべきものであり、
 抽象的な正面図においてだけではなく、全体にわたる遠近法上の前進と後退とをともな
 い、その三次元の美しい調和によってこそ見る人の精神を満足させるべきものである。
 だからぼくはパラデイオについて言う、彼は真に内面的に偉大な、そして内部から偉大
 さを発揮した人間であった、と。』(高木久雄訳 ゲーテ全集イタリア紀行 潮出版社)

ゲーテらしく格調の高い文章であるが、

簡単に言えば『建物図面だけでは建物の良さは決して分らない。実際にその建物を見て、

また建物の中を歩き、三次元の空間そのものを体全体で感じることが大事で、

そこで深い精神的な感銘を受けることができるのがよい建築である』と彼は言いたいのであろう。

そしてこの意味において、パラデイオの作品には高い精神性が表現されており、

それはまさに彼自身の内面に根ざす精神の具象に他ならないとゲーテは感じ取ったのであろう。

なぜなら、人間は自身の中に存在する以上のものを決して表現し得ないと彼は見抜いていたからである。

 <オリンピコ劇場中庭を望む>

 僕が訪れたとき、残念ながら劇場は閉まっていて中に入ることができなかった。

アンドレア・パラデイオ(Andrea Palladio 1508-1580)は庶民の家に生まれ、

石工となるためパドヴァ、ヴィチェンツァで修行を積んだ。そして、21歳で石工親方として

独立し、自分の工房を持つまでになる。彼の人生を大きく変えたのは、人文主義者である

ジャンジョルジョ・トリッシノとの出会いであった。彼は、トリッシノから古典研究について

学んだ。1541年、彼はトリッシノに連れられて初めてローマを訪問し、そして1545年から

47年にかけて何回となくローマを訪れ、古代ローマの建物の調査研究、同時代の

建築家ブラマンテなどの作品研究を精力的行った。

彼が建築家として脚光を浴びたのは、1546年、通称バシリカと呼ばれる市の建物の改修に

彼の案が採用されてからである。1549年から工事が始まったこの建物の成功で、彼の名前は

一躍有名となり、数多くの仕事の依頼を受けるようになった。

 パラデイオが手を加えたのは、建物外周の回廊部分(ロッジアと呼ばれている)などであるが、

これがすべて完成したのは1617年のことであり、また装飾は17世紀の半ばまで続けられていた。

パラデイオが亡くなったのが1580年のことであるから、建物の最終的な完成は

彼の死後150年以上も年数が経ってからのことになる。なんとも気の長い話ではあるが、

過去の公共性の高い建築はほとんどそういった数百年というスタンスで建設されていた訳である。

それゆえ当時の建築家たちは、歴史の流れに耐える建築を作ることに懸命であったのであろう。

建物が完成する時分には、もうその建物を設計した建築家はこの世には存在しない。

本当の意味での評価は後世の人がすれば良い。自分はただ建築家として、ただ美しいものを、

ただ高貴な精神性にあふれた作品を世に残そうと彼らは精進したのであろう。

 

1月の北イタリアは本当に寒い。

 かじかむ手をこすりながら、僕はバシリカのスケッチを続けた。

 今、この瞬間に向かって僕は心の中でつぶやいた。

 『とどまれ、お前はじつに美しい』