第二の災害。 へー。
私がテレビゲームする時、そのゲームをクリアすることが最終目的というわけではない。 基本的にはそのゲームを楽しむことが目的であって、 クリアはゲームを味わうための要素であると言える。 ゲームは楽しむためにやるもんだ。 なので「クリアしたのだから次のゲーム」という感覚ではなく、 やり残しがあればそれをつぶす。
NHKの日本製テレビのシェアの話。 「超高機能テレビなんて誰が買うんだよ。低価格のものを低所得者に届けるのが勝負所だろう」 とは思うが、まあそれで勝負にならんのもわかる。
色んな意味で私が言うべきではないが、日本人の所得は高すぎるように思う。 もっと低所得雇用の形を作らないと社会全体としてあかんと思う。
『はなまる幼稚園』。大人の考えた幼児のニオイがきつくなってきた。
英会話スクールの最近の使い方。 homework サービスというのがあり、 何か文章を作って出すと次回くらいに添削されて返ってくる。 スクールに20分ほど早く着くようにして、添削された文書を返してもらい、 レッスンが始まる前にチェックする。 その修正ですぐ理解できる点はそのまま受け入れ、 理解できない点があれば、レッスン中にそのことについて議論する。 こんな感じ。
自分の言葉も多義的に解釈されうることを常に意識すること。 相手が意味を捉えそこねたときに「なんで分かってくれないんだ」と非難するのでなく、 「ああすまない、言葉が足りなかった、この意味で言った」と言えるかどうか。 意思疎通の齟齬は全部相手が悪いと無前提に思い込むのではなく、 自分の言葉を相手の立場に立って第三者的に聞きながら喋る。 相手の反応を見ながら随時言葉を補って行くということ。 真に体現するのは難しいことだが。
ブロッホの定理がようやく分かってきた。 物理ノートをもうちょっと整理しないとなあ。 その時学んだことを書き足していく感じなので近い位置に書くべき事項が散乱している。
卒業論文の最低水準ってどのくらいなんだろう。
物理ノートの整理について考えていて、 整理の一般論としてまず 3 つに分けることを考えれば良いように思った。 その数の根拠は、自然対数の底に近い整数だから。
現在のコンピュータは 0 と 1 の2通りの状態の区別を基本として設計されているが、 情報学的には 3 通りの状態を区別するのが最も効率が良いらしく、 その根拠がやはり自然対数の近い整数だからということらしい。 1回生のときに潜り込んだ講義では、 n 通りの状態を間違いなく区別するコスト(≒間違えるリスク)と m 個の桁で n^m の状態を区別するときの場合の総数とのバランスで証明していたように思う。
ブロッホの定理を理解した。 勉強楽しい。
久々に日本酒を買いに行く。 地下で落ち着いて試飲のできる店なのでヨメを誘ってみたいと2年前から思っていた店なのだが、 妊娠・授乳もあって果たせていなかった。 それもある程度一段落したようなので誘ってみたが、 どうもヨメは日本酒にトラウマがあるようだ。 まずい日本酒は本当にまずいから仕方ない。 つーか、かつてヨメにそんな飲ませ方をさせた奴が憎い。 憎すぎる。
ムスメ。 仰向けからの寝返りは打てないのだが、俯せから寝返りは頑張ればいけるようになってきた。 しかしまだ「どうやればそれができるか」が分かってなくて、 いろいろやったらたまたまいける、というのが多いようだ。 また、腹這い進みはできないが、腹這い後退はできるようになってきたみたい。
自作のファイル名変換系スクリプトの整理。 Do It Yourself 的な感じでファイル名変換スクリプトは自前で結構作ってあった。
こういうのを作っていたのだが、それぞれで重複チェックとかやっていて不便なので、 FileRenamer というクラスを作ってチェックやリネームなどの共通機構を括り出した。 正規表現文字列置換 のスクリプトは Perl で書いていたのだが、 これも Ruby で書いて統合した。 うん、我ながら綺麗な仕事をした。
計算機環境整備。 「学生でもインストールディスクの焼きができるように」と思って Free のライティングソフトを試してみたら、ドライブが死亡した。
計算機構築。 実験室に計算機を置いているのだが、 その実験室で学生がやってる実験は低温環境で行う必要がある。 計算機を稼動すると室温が上がるが、冬場はエアコンを暖房にしか使えない。 ということで移設した。 ついでに FreeBSD で組み立てていたものだったので、Debian に乗せ替え。
ASUS マザーのコンピュータが10台ほどあるが、これはもう諦めてパーツ取りにしよう。 トラブルが多すぎてその対応に食われる私の時間が痛すぎる。
休日出勤。
ミーム(文化遺伝子)を残したい人がいるとする。 彼にとってはロボットを作って自分の情報を全て記録するのが最も効率的だ。 ロボットが自分と同じロボットを幾つでもコピーできるとすれば、最高だ。 しかしそう考える人が多数いたらどうだろう。 ロボットが無限の情報を蓄えられるとしても、 その中で検索する必要はあるので、無限の情報に埋もれてロボットは機能しなくなりそうだ。 やはり何らかの淘汰機能が働かなくてはならないような気がする。
ポニョを最初から最後まで見る機会を得た。 開始20分で実に見せるなあ。 宮崎駿は子供の描写が変態的で、実に良いと思う。 小さな港町感が良かった。 あと魔術師の生活って研究者だよな。
子供が言う「女の子がおちた」という言葉を信じて車をとめるリサすげえいい人。 頼りになりすぎ。すげえ、かっこいい。対応力半端ねえ。 幼児だけ残して職場に行くってどんだけ強いんだよ。 どう考えてもリサが主人公だろ。
このストーリーは、人魚姫に救いを与えた。 我々の知る物語で人魚姫は最後に泡になって海に溶けたが、 「私達は元々泡から生まれたのよ」と。 それは元ある姿に戻っただけのことであり、悲しまなくてもいいと。 さて、あのおばちゃんは人魚姫その人だったのだろうか。
ハートキャッチプリキュア。 面白いじゃないか。 これはおそらく「お父さんもプリキュアです」ですよ。
研究室ネットワークの基幹ファイルサーバの root を 学生に渡していたことの重大性を思い知らされた。 学生が俺のホームディレクトリでいろいろやってた。 破壊的に何かをしていたわけではないが、 そういうことはそもそもできるようにすべきではない。 あな、おそろしや。
最近やけに腹が減る。 マクドナルドのチーズバーガーで小腹をおさえる。
『バカとテストと召喚獣』。 つらいなあ。 「僕の考えた楽しい学園生活」という感じ。 「僕の楽しいシステム」を考えるのに精一杯で、何故そのシステムが存在するのかとか、 そのシステムを維持するために管理者にどういう努力が必要で、 それにどういう感情を抱いているだろうとか、そういうバックグラウンドが浅い。 特殊ルール戦闘に戦略が必要なら、その戦略を鍛えることで受験に有利であるとか、 体制に何らかの利点があるとか、そのルールを敷く学園側に何らかの理由付けが欲しい。
『トップをねらえ』は結構見れた。 というか、仕事しながらで殆ど画面見てなかったので、「聞けた」というのが正確か。
年度末に向けての発注おわった。
最速降下線問題とか、汎関数とか、変分法とか。 物理楽しい。
卒論おわらない。 今年はどう間違ったのか、全然時間が足りてない。 設定した目標が大きすぎたからか。
風呂に入り忘れたので今日は何としても帰って風呂に入らねば。 でもって、終電までにはまた出勤せんとなあ。 ということで、21:30 に帰宅、23:00 に出勤。
6:30 まで学生の面倒を見て、それから4時間ほど寝て仕事。 しんどい。
厚意で行われることを当然と思うべきではない。
寝足りない。
Ruby でのプログラミング。 コマンドラインオプションを普段グローバルな定数ハッシュにつっこんで、 クラスの中からそれを見ていたのだが、 この方針ではクラスを再利用するときにオプションの取り方がややこしくなる。 またクラスが内部で閉じておらず、外の環境に依存するのもよくなかろう。 ということで全ての情報は new するときに引数で渡すなどすべきだが、 そうすると今度は引数の数が膨大になったり順序をどう決めるかが面倒になる。 というところで、「情報をハッシュにまとめて、そのハッシュを渡せば良いじゃないか」 と思い付いた。 これで良さそうだ。 美しいかも。
しんどいなー。 先週から今週にかけて、木、土が泊まり、 日曜は一時帰宅するものの、21:30帰宅の23:00出勤と慌ただしく、 月曜6:00まで学生の卒論を見た。 月曜20:30からの英会話レッスンのあと帰宅で、ここで一息。 でも世間の仕事に、デスマーチっぽい職場比べればまだまだマシなんだろう、きっと。 22:00就寝。
吾子の歯 生え初むる。 下の歯が先に生えるんだな。
quizgame なスクリプト、公開に向けての作業中。 かなり整ってきたがもう少し。 まず分割ファイルに対応し、いろいろ調整した。 つぎはディレクトリ構造をどう仮定するかだな。
早めに大学に着かなければならないので急いでメールチェックとかしてたら、 無視するなとヨメに怒られた。 勿論私は無視したのではなく気付かなかっただけだが。 まあヨメは私が急いでいたことを知らなかったのだから仕方ない事ではある。
「〜してくれる?」の語尾の抑揚がなってないと怒られる。 曰く、語尾が上がるのなら依頼として何とか認められなくもないが、 下がるのなら厳然とした命令だ、とのこと。 私はそうは思わないが、そう思う人もいるということは取り敢えず事実なのだろう。 まあとりあえず言うとおりに「〜してもらえない?(語尾上がる)」以外の言葉は 禁止ワードとなった。
ことあるごとに禁止条項を増やして行くようなシステム運営は不健全だ。 100の禁止条項がある中で生活することを考えれば、その窮屈さが分かるだろう。 何か1つ行動しようとする度に、そのどれかに違反していないか全検索しなければならない。 「100は極端だ。実際はもっと少数で、1つ2つくらいなら大したことない」 などと思うようでは、20〜30くらいにはあっという間に膨れ上がる。 「1つ2つでは大したことない」を繰り返した結果、そうなるのだ。
発言の際の分解能と、聞く際の分解能は、お互い強い相関性があるように思う。 すなわち、 「〜〜してもらえない?」 「〜〜してくれる?」 「〜〜して欲しい」 「〜〜してくれると嬉しい」 といった言葉遣いの機微を理解せず全て「〜〜しなさい」と同じく命令だと 思うような人は、 これらの言葉を使わずに常に「〜〜しなさい」で済ませているような気がする。
「いつでも正しい答えを、瞬間的に出せ」というのは能力を超える。 もしそれを完全に体現できている存在がいれば、 彼にはそれを言う権利くらいはあるとは言えるかもしれない。 しかし間違いを許容しないというのは相手に人間でないことを強要するようなものだ。
180cm強、70kg強、元高校球児で骨太、筋肉質。 これくらいの体格を持っていると他人にぶつからないように気をつけるようになる。 ちょっとぶつかっただけでも人は簡単に怪我をする。 「ぶつかっても大したことないだろう、だから簡単にスッと通ればいい」 とか言うような人は大抵小柄で、自分が他人にぶつかって怪我を負わせたことがない、 だからそう言えるのだ。 彼らはこの体が不用意に自分に当たることの怖ろしさを、 これだけの質量が運動エネルギーを持つことの怖ろしさを知らない。 そのことを私が怖いと思っていることを知らない。 そのリスクを避けつつ、この体で狭いところを他人に迷惑をかけないように通ることの 面倒さが分かってない。 私は万一にも他人にぶつかって怪我をさせないように、 かなり余裕をもって通る癖がついている。 1mの幅にすでに1人いれば、基本的にはそこを通ることを忌避する気持ちが働く。 相手が何か作業をしていたり、手に何か壊れ易い物を持っていたりするとなおさらだ。
自分が怪我を負わされても同じことが言えたら、その人は大したものだと思う。 しかし そこまで人間ができてる人は世の中でごく少数だし、 相手の人間ができていたとしてもそもそもリスクは最小におさえるべきだ。 だから私はやはり、余裕をもって体が当たらないように行動すべきだ。
現代の漢字の書き順は縦書きに便利なように作られたのだろう。 書き順に注目すると横書きには向いていないことが分かる。
中高レベルの英文法で、I wonder 構文とか記憶が少しあやしいのがある。 「そうだ、ぐぐればいいじゃないか」と思い付いた。 たぶん誰か何かしら書いているだろう。
変分法が分かってきた。
ガス抜き超重要。
私だったら後者の人間になりたいと思う。
「ゴメンナサイ」すれば、 全てがなかったことになって元の状態に戻るのだと思う人もいる。 赦されたとしても、本来は償いの責任があるということを知らないのかもしれない。 「ゴメンナサイ」が言えない人というのもいる。 知ってて無視してるのかもしれない。 「ゴメンナサイ」を勝ち負けや上下関係を決めるものだと思っているのかもしれない。 私はそれが人間関係を正常に保つ潤滑油としての機能を持つと思う。 他人が我慢するのが当然と思う人、「我慢しなさいよ」と言い放つ人。 すごいな、その傲岸さは。 嗤ってしまった。
母と一緒に鍋を囲み、ゲームをするという機会はあと何回取れるだろう。 母は今のところ元気だが、1〜2年のうちに亡くなることも十分にありうることだと思っている。 今の元気な状況が日常になっているので忘れがちだが。
22:00 に職場へ。
変分法は興味深いツールだ。 解析力学、ラグランジアンあたりを勉強してみたい。
帰宅。
立ち聞きしたこと。 英英辞書の使い方は、「これって英語でどう表現するのかなー」という立場で 見るのが良いらしい。 なるほど。
京都と札幌は両方計画都市で町が道で碁盤目のように区切られている。 土地を示す名前としては、京都では道を基準として烏丸丸太町の北東角とかいうが、 札幌では道に区切られたブロックに基準を置いて北1西2 のように示す。 さて、これらの違いはどういうことか? どちらが「妥当」だろうか?
町の単位というのは、そもそも人の交流速度で決まった。 たとえば近世以前、川や山で隔てられて交通が遮られていればそこで人の交流速度が滞り、 その前後の地域がそれぞれよく話をする人の集団になる。 現在の市境、県境の多くが川や山の峰で定義されるのはこのような事情に因るのだと私は思う。
さて、人の交流に道はどのように働くか? それは道の様子に依る。 たとえば高速道路やそれに沿った国道のような往来の激しい道では、 その道を横切るのは困難だ。 このような道は人の流れを遮断する機能を持つ。 これは先述の川のような働きをし、このような道があれば町区はそこで区切られるべきだ。 しかし住宅地の細い道のようなところではどうか。 その道を挟んだ両隣、向かい3軒とコミュニケーションの場に、その道自体がなる。 そのような場合、道で囲まれたブロック内で背中合わせの家の同士より、 玄関を突き合わせている方がよく話をして「お隣さん」感覚が強くなるだろう。 このような場合、町区は道を挟んだ家同士を同じ括りにすべきだろう。
京都は古い町で、交通手段が徒歩と少しの馬という時代に作られたもの。 札幌は新しい町で、交通手段としての車が広まりつつある時代に作られたもの。 京都では道を挟んだ町区、札幌では道で区切られた町区というやり方は、 歴史を踏まえると尤もであるように思える。 ……という風に、自分で勝手に納得した。
試験監督。 複素関数の描画についてと、天秤パズルについてずっと考えていた。 天秤パズルはかなり考察が進んだ。
異常コインは1枚であるとする。 コインは全て「重い可能性」と「軽い可能性」を持っているのだと考える (初期条件で重いか軽いかが分かっていれば、その可能性の片方が最初から消える)。 天秤が釣り合えば、両方の皿に乗っていたコインの「両方の可能性」が消え、 皿に乗せなかったコインの可能性は両方そのまま残る。 天秤が傾けば、上がった皿に乗っていたコインの「重い可能性」が消え、 下がった皿に乗っていたコインの「軽い可能性」が消え、 皿に乗せなかったコインの「両方の可能性」が消える。 この考え方に従って最悪の状況を想定した最善の手順では、 1手につき可能性を約 1/3 に減じていくことができる。 他にもいろいろ考えたけど、どういう形でまとめるかはまだ決めていない。 少し TeX でも打ってみた。
時間がいくらあっても足りない。
京都へ。
寮を出て下宿していた時期によく酒を買っていた酒屋に5年ぶりに寄ってみたところ、 奇遇なことに今日を以って閉店というところだった。 向こうも私の顔を覚えていて、少し立ち話した。
農学部の寮生に、農学部の研究室とか農場とかを見せてもらった。 面白かった。 てゆーか広いよ! 学生が使ってないデスクが部屋にあるって凄く贅沢だよ。 自分が学生のときの環境もそうだったんだなあ。
帰宅。 ビィヤントのカレーはやはりうまい。 が、少し油がしんどくなってきた気がする。 いや、まだまだいける。
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