ヨーロッパの古城とか、いつか見て歩きたいなあ。
手帳用カレンダーを Illustrator で作成。 「閏年であるか否か、1/1 が何曜日で始まるか」の高々 14通り作れば、 毎年どれかを選ぶだけでほとんどコストゼロで運用できるはず。 自分用のカレンダーなので、月曜開始のカレンダーにしてみた。 普段土日はセットで考えるので、慣れればその方が便利な筈。 普段目にする他のカレンダーは殆ど日曜開始なので頭の切り替えが少し必要だが、 両者のカレンダーは色付けの区別が明瞭なので、すぐ慣れるだろう。
プログラミングの授業は複数の教員分担で行っており、 テキストは他の先生の書いたものを使っている。 自分でテキストを書いて、授業を組み立てて行いたいなあ。
昨年度から学生と量子論の勉強をしているのだが、これが面白くて仕方がない。 フーリエ変換は工学の色んな場所に顔を出すんだなあ。 関数・ベクトル、というか内積空間の直交性・完備性は素晴らしい。 これが分かってないと量子論のブラ・ケットベクトルが理解できない。 学生の頃の俺が理解できてなくて当然だ。 教員になって、工業数学の演習を受け持ったことは本当に僥倖だ。
飲みに行った。 俺は同僚に恵まれてるなあ。 (cf. きづき:2009/02/03))
一から九までと同じく十が一文字なのは、5つ玉ソロバンと似たような考え方なのだと思った。
上記のようによく言われる。 しかし対象の他者が負のバイアスとして働くのならば、 前者の言い分も妥当だと言うことはできる。 たとえば他人が自分よりもレベルが低い仕事しかできないのならば、 成功したのはそれをカバーした自分だと言うことができるし、 自分一人の能力としては出来たことが他人のためにできなかったということもありうるだろう。 逆もまた然り。 まあ自他の能力をそのように一次元的に測ることは危険だし、 それを公に言うのはやっぱりすべからざることだけれども。
昔の研究室はそれなりにプログラミングできる人がいたので、 研究室共有のライブラリを一緒に作ったりしていた。 しかしそのライブラリの使い勝手が微妙に自分好みと異なったり、 欲しい機能がなかったりする。 その辺の書き換えをどの程度自分でやってしまってもいいものだろうか? 今日見てみたらライブラリを更新する人があらかた抜けてしまっているので 更新が2年以上止まっていた。 もう他の人のアップデートをもらうのは諦めて 自分用のカスタマイズを進めていった方が良いのだろうな。
subversion の標準的なスタイル、trunk, branch, tag の位置付けが分かった。 本来その用途には branch を切るのが正しいのだろうな。
トワイライトプリンセス。 ゼルダはやっぱり面白いなあ。
変な夢を見た。 なんか「無礼な」と理不尽に怒られて監禁、 今の仕事を辞めさせられて別の「真っ当な」仕事に就かさせられる、 それに対して私が憤るというような。
ライブラリの手入れ中。 仕事が回り切らん。
忘年会その1。 担当研究室ということで幹事。 酒屋に聞いて決めた店だったが、かなり良かった。
義兄は休日でもきちんと起きて料理するという。 姉に言わせると「たぶんお腹が減るんだと思う」とのこと。 しかし姉は私と同様、食べるより眠りたいと思う性質のようだ。 こういうのは個々人が自身の生命活動として何を重視しているかの反映のように思う。 他人が寝ているのを起こさないようにすることが気遣いだと私が思っているのは、 眠ることを生命活動として重視していることの反映なのかもしれない。
「自分にできることを他の人ができないとストレスに感じる」というのは、 決して良い性質とは言えない。
浦沢直樹の BILLY BAT を2巻まで。 これはギャグに近い。
ライブラリ手入れ。最低限のスクリプト実行まではなんとか。
来週大変。 月火出張、水木授業、金曜に講演。
英会話のレッスン開始まで10分。 普通に行けば問題なく間に合うが小腹が減って集中できなかったら 却って勿体無い。 100円ハンバーガーのマクドナルドは通りの向こうで時間的に不可能。 おにぎりを買おうとコンビニを探すが繁華街ですぐには見当たらず。 ロッテリアで100円コロッケがあるらしいので頼もうとすると 7分待ち。 カロリーメイトを買おうと薬局行くと中国人旅行者がクレジットカードで 支払えないかとか手間取っていた……。 なんとかカロリーメイト買っていくことはできたが、重なるもんだなあ。 メイプル味はけっこう美味かった。
英会話スクールのサービスで英文校正があるので、英語日記みたいなものを出してみた。 次回レッスン時に返却とのこと。
gcc + make で作ってきた研究用コードを Visual Studio でコーディングできるように してみよう。 今迄書いてきたコードのコメントを日本語から英語に直してみてる。
BEGIN のコンサート。 本来は母、姉、義兄で行く筈だったのだが義兄が行けなくなったそうでその代わり。 コンサートというものに行くのは 小学校低学年の頃に親と一緒に行ったスターライトエクスプレス以来の筈。
もともと BEGIN に対する感想としては、 「好きな曲は幾つかあるけど、 ボーカルの声がスカいて良い子ちゃんしてるように聞こえて好きでない曲もある」 という感じだった。 しかし今回コンサート行ってじっくり生の声を聞くと、 そういう感情がなくなって単純に好き度があがった。 この世に好きなものは多いほど良いだろう。 行って良かったと思う。
結婚式場のホテルから、結婚一周年記念ということで頂いた鉄板焼屋の招待券で、 ヨメと二人で夕食。 私は鉄板焼というのを知らなかったので、何となくお好み焼きの親戚かと思っていたが、 かなり違ったようだ。
歯と喉が痛くて目が覚める。 ひょっとして風邪か? 風邪だったら平山んところに遊びに行くのは諦めなければならない。 向こうには妊婦がいるので、彼女に感染してしまったら本当に申し訳なく 今後会わせる顔がなくなる。 しかし熱もないし、歯医者にいくと典型的な智歯周囲炎(だったと思う)とのこと。 まあ大丈夫だろう。
親不知をぬこう。 もしヨメが開業することになるのならそこの患者第一号になろうかとも思っていたが、 開業できたとしても数年〜数十年単位で先の話になるのでそれまで痛むこともあるだろう。
「手段と目的が入れ変わる」という表現があるが、これはまあ人間の性質上当たり前の事だ。 一般に、ある目的を達成するためにはそれを実現する手段が必要だ。 すると人はその手段を手に入れる算段を考える。 この時点で手段は小目的に変化する。 我々の住むこの世界では大抵の場合達成すべき事案は複雑で、 往々にして何段階かの小目的の達成が前提条件となっている。
私はしばしば「健康的であること」を理由に行動選択を行うが、 健康は私にとって最終目的ではない。 あくまで幸福になるための一つの小目的に過ぎない。 「健康のためなら死ねる」という文言(冗談)に矛盾を 感じる普通の人間なら理解は容易いだろう。 しかしどうやら「健康が私の最終目的」のように見られることがあるようだ。 どんなに健康に気遣っても 120歳までは生きられないし、 それまでに交通事故に遭うかもしれない。 美味い料理や美味い酒がこの世に数多存在し、健康を損わない程度にそれを楽しみたい。 何かの摂取でバランスが崩れても他の食事などでバランスを取り戻せるのなら それでいいと考える。 特定の料理で塩分が多いとか近視眼的なことを言って、 美味い筈のものを美味く食えずにいることは耐え難い。 刺身や寿司には醤油で味が整うし、ラーメンにはニンニク・胡椒の風味が映える。 バランスが崩れた分は日常作る味噌汁の濾さを味覚的な許容下限で作るとか、 水分を多めに取るとかで戻せば良いと思う。
8:00過ぎに出られるように動いていたが、イレギュラーな事象が生じて結局9:00頃になった。
ひらやま邸でプチクリスマス会的な何か。 ひらやま&ひつじこさんの両名での料理にまじってお手伝い。 のじりも来た。 ピザ作って食って、ごぼうこんにゃくの煮付け食って、鳥はむ、ケーキ食って、 麻婆豆腐と豆玄米ごはんを食べて、学生のころみたくダラダラした。 BRAINIAC のアルカリ金属とか清水ミチコのピアノ芸とか。 あの空気に馴染めるひつじこさんはすごいと思う。 いい家庭だ。 26:00くらいまでだべって、それから寝た。 土産として持ってった乾燥納豆、みたらし小餅は喜ばれた。
人間、素材が良くても他の意見を聞けなければ腐る。 自分に足りないものを素直に認めて相手が指摘してくれたら受け入れるというのは 稀有の才能だと思う。 無知の知というか。
プログラマとしての稽古を付けてもらえるかも。 やってもらえたら、すごい価値があることだ。 近いうちに3日くらい空けよう。
人間自分の正当性を主張したがるものだが、 論拠が足りない場合などに否定してくれる友人は本当に得難いものだ。
8:00くらいに起きて、豆玄米ごはんと納豆卵、昆布の煮付け、キムチ。 あまりに楽しかったので結構ギリギリまで粘ってしまった。 そこから茨城出張。 のじりと一緒に出て上野まで一緒に行った。
JR に乗っていると「ウールは何故温かいのか?」という映像が液晶ディスプレイに流れていた。 まず木綿や麻に比べて伝熱係数が低いという点があるとのこと。 あと最近流行りのヒートテックと同様、水があると熱を生じるという話。 曰く、水蒸気は気体であり分子の運動エネルギーが大きく 固体にトラップされるとそのエネルギーを放出するということらしい。 だが詳しくはわからんかった。 のじりと話しながら以下の仮説を立てた。
仮説3が継続的に熱を取り出す仕組みとして機能しうるのではないだろうか。
ぐだぐだ考えてみたが分からんな。 内部エネルギーと自由エネルギーは別物のはずだし。 もうちょっと調べてみるか。
帰ってググル先生に聞いてみると、どうも仮説1の潜熱らしい。 聞けば聞くほど蒸散するときに気化熱が奪われる気がするんだが……。 ひょっとしたら、セーターの断熱性が高いため、 セーター表面では気化熱もあいまって外気温より低くなり、 すなわち外気からの熱の流入が起きて収支としてプラスになる、 ということかもしれん。
英会話スクールで 「『クレジットカードで支払う』は pay by credit card が natural。with は使わない。」 というようなことを指摘された。 「手段は with だという感覚が強いのだけれど」と私が言うと、 「with だと手渡して戻ってこないイメージ」と先生。 「ならば紙幣の場合は pay with bills でいいのか?」と聞くとそれは OK とのこと。 これは大事な情報でこちらが聞かなくても言って欲しかった。 どういう表現が natural かというのは確かに重要な情報でそれを正してくれるのは有難いが、 出てきた「natural なフレーズ」を全て丸暗記するのは無理がある。 「ネイティブスピーカーにはどういう感覚が働いて、どういうルールでその表現が 選ばれるのか」を論理的に解釈・説明することが 教える者には必要だ。 我々自身の職業を省みて、文章を書くことを教える際にも 「こういう時に使う装置はこの名詞を使う」だけでなく、 それぞれの言葉の定義を教えて何故その名詞が選ばれるのかを説明すべきだ。
料理の勘所というのはレシピではなく考え方にあると私は思う。 たとえば物の切り方には幾つも方法があるが、それぞれに特徴がある。 その特徴を捉え、「どういう効果を狙う時にどの切り方をするか」といった法則を 掴み取ることが上達ということだ。 歯応えを活かしたければ繊維の方向に切るとか、 カレー・シチューなどの煮込み系では根菜は少し崩れることを見越して大きめに乱切りとか。 タレの味をからませたければ薄く切るとか。 百のレシピを習ったとして、 「この料理にはこうする」という場当たり的な一つ一つ別個の知識として覚えても 他への応用が効かないし、 そもそも百の知識を覚えること自体に無理がある。 料理教室をレシピを習うところだと思っている人も多くいるだろう。 しかしレシピなんてのは今日日ネットで5分で検索できるので、 そういう使い方のみであれば、料理教室の価値は低い。 料理教室に行って、勘所を身に付けることができるのなら、 その学校は非常に有意義なものになると思う。
この観点は一言で言えば「応用力を身に付ける」と言える。 大学での教育も同様だろう。 「最近の学生は授業でやったのと全く同じ問題しか解けない」と他の教員が言うのを聞くが、 これと全く同じ問題と言える。
ファイル・ディレクトリ整理は複合的な属性で行われうるが、 まずはパーミッションでの分類を最優先にするのが便利だろうと思った。
音叉を叩くと固有振動数の音波が生じる。 音叉を叩いたパルス衝撃はあらゆる波の合成と見れるので、 固有振動数成分が残ると見ることができるのだと思う。
我慢の限界を越えれば、我慢はしない。 というかできない。
最良の努力の結果なら失敗しても責められるべきではないし、 厚意でやってくれたのならその労力に対して感謝すべきだろう。 しかし、成功であったと褒められなければ全てが否定されたと感じる人もいるようだ。 そういう人は他人が自分のためにしてくれることでも、成功でなければ評価しないのだろうか。
ヨメは玄米を炊くことが本気で嫌なようだ。 ならば私が炊けば良いと私は思うのだが、それは別の問題で認められないらしい。 数日間米をザルに置く発芽玄米はますます無理だなあ。 友人に職場で炊くことを提案され、なるほどと思った。 ありだよな。
授業2コマ。 あー Mathematica いやだなあ。
学生実験。 明日の講演の準備もしなきゃ……。
『宅配寿司 銀の皿 CM(you tube)』。 毎度のことながら銀の皿の CM は凄い。
講演。 準備は以前のスライドを使い回してかなり手を抜いたが、60分あるというだけで結構しんどい。 界面を扱うことが必要になってくるなあ。
昨日まで我慢できたんだから今日も我慢しろというのは、イジメと同じニオイがする。 耐え続けた子供がある日限界を越えてキレることもあるだろう。
上手くなるためには正当な評価が必要だ。 「上手、上手」とおだて上げられても、裸の王様になるのがオチだ。
自分以外の人間とは、必ずどこかに差がある。 相手と自分の文化に差があれば、 まず相手の立ち位置がどういうものかをキチンと知ろうとするのが相互理解の第一歩だ。 そこで「相手のことを教えてもらったら、必ずそれに自らを改めるべき」という人がいる。 その人は「自分を変えなければならないので、相手の事は知りたくない」と考えているようだ。 まあダブスタにならないのである意味立派な考え方だとはいえるが、 知ることと立ち位置を変えることは基本的に別個として扱うべきだと私は思う。
ムスメは寝ている横に置いているものを拾えるようになった。
回転体がここにあるとする。 その回転軸の方向を変えるように力を加えると、それと垂直な方向に力が働く。 垂直な方向は正負2つの方向があるが、物理的にどちらに向かうかというのは当然決まっている。 これを「左手の法則だ」というように考えるのは試験勉強的には高速で良いのだが、 こういう丸暗記は日常的に使ってないとどちらか間違え易い。 これがどっち向きなのかというのを考えるのに、 私はいつも車輪を転がすイメージを頭に浮かべる。 キリコの絵の子供の影のように、棒で自転車のホイールを転がすと 力をかけなくても暫くは自然にホイールは転がり続ける。 転がり続けるということは復元力が働いているということだ。 ホイールは前方に回転している。 ということは右ネジで表した回転モーメントは進行方向向きに視線を置いて左向きになる。 もし外力がホイールを右に傾けるように働いたとしよう。 すなわち進行方向向きに視線を置いて時計回りの力が働いている。 この力の回転モーメントは、右ネジなので進行方向向きということになる。 ホイールが元々持っていた回転モーメントは左向き、外力は進行方向向き、 それらの両方に垂直な向きは上下の2方向になり、このどちらか見掛け上表れる力になる。 さて、どちらだろう? 右ネジなので、 上向きのベクトルで表される回転モーメントは上方から見ると左回り。 下向きのベクトルで表される回転モーメントは上方から見ると右回り。 もし前者の力が働くとしたら、車輪は左方向を向き、 進行方向が左にシフトしてますます車輪が倒れる方向に状況が推移する。 すなわち復元力として働かない。 もし後者の力が働くとしたら、車輪は右方向を向き、 進行方向が右にシフトして車輪の傾きを立て直す方向に状況が推移する。 ということで物理的な経験として下向きのベクトルで表される回転モーメントが 働くことが分かる。
「この見掛けの力が何に由来するのだろうか?」 そういうことを疑問としてずっと持っていたわけだが、 これは要は回転モーメントの保存則に由来するのだろうと気付いた。 回転モーメント v_1 の回転体があるとする。 外力によって 回転モーメント v_2 に変化した。 この回転モーメントの変化分を v_add とする。 回転モーメントが保存則に従うとすると、
v_1 + v_add = v_2 v_1 = v_2 - v_add
すなわち保存則を満たすために -v_add というベクトルが同時に生じる。 このベクトルに相当するモーメントの回転が回転体に生じると言える。
次の疑問は、回転モーメントの保存則がどのくらいの強さの法則なのか、ということだが。 これは運動量保存則ほどには強力な要請には思えない。 水車は位置エネルギーを回転力に変換するが、 水車が回転する前と後では回転モーメントが保存していないように思う。 ある瞬間に歯車Aがフリーで回転しているとする。 同じ規格の歯車Bを噛み合わせると、Aの持っている運動エネルギーがBに移り、 Bは逆向きに回転する。 この全体の回転モーメントは0になる。 すなわち回転モーメントは保存しない。 古典力学をもっと詳しく掘り下げて勉強したいなあ、と思った。
数日ほどして、ふと「回転モーメントは慣性的にふるまう」と考えれば良さそうだと気付いた。 それまで物体が持っている回転モーメントは瞬間的には変化せず、 与えられた力に応じてじわじわと変化する。 瞬間的に与えられた力に瞬間的に応じるのではなく、 一瞬前の状況を保持しようと粘るようなイメージ。
トワイライトプリンセス。 少しずつ進めて今天空都市。
人間責任の所在を曖昧にしたがる傾向がある。 現状維持を選ぶということは選択しなかったことではない。 変更をしないという選択をしたということだ。
MS-Word は本当どうにかならんかな。 バージョンの差でレイアウトが狂って困る。
くっ、画力が足りない! ……ということで、年賀状作成中。 虎を真っ向から描くには相応の画力が必要。 2年後も苦しむことになるだろう。 今年はヘタ絵に逃げた。 まあメインのネタは文字だからいいのだ。
ムスメが寝返りを打ったらしい。
ノートPC NB100 の無線LAN化。 この機械は ubuntu で戦うことを決めたので無線LAN の設定をした。 持ち運びの ノートPC なので家や職場で立ち上げることが日に1〜2回あるけれど、 この時にLANケーブルを結線する手間を省けるのが地味に嬉しい。 またケーブルの絡まりの複雑さはケーブル本数の2乗に比例するので、 デスク回りのケーブル1本を減らすことはこんがらがりを軽減するのに有効だ。
交渉時に常に最大限の譲歩を求めようとする人がいる。 こういう人を見ていると重要度が低い時に限界一杯までやってしまっていて、 いざ重要な事案のときに相手の姿勢を硬化させてしまっているように見える。 実にゲーム理論的な構図だ。
センター試験面倒だなあ。
未明、お腹がずしーんと重くなって目が覚めた。 食欲なし。 掃除して布団干しすると寝る布団がなくなった。
午後、発熱。 ヨメに連れられて救急病院。 インフルエンザ検査では陰性だったが発熱して間もなかったためまだ断定できないとのこと。 1歳未満の乳幼児が我が家にはいるので、一応タミフルを処方してもらって帰った。
自己責任・自己管理とかいうのは、自分の裁量でできる範囲があればこそ。 「自由には責任が伴う」とよく言われるが、責任を持つためにはそのための自由度が必要だ。 自由度もないのに責任とか言われると、 フランチャイズの雇われ店長の悲劇みたいになりそうだ。
体を休めることと怠けることは、他人には見分けがつかない。
『クォーク』(南部洋一郎・ブルーバックス)。 素粒子物理というものの立ち位置というのを考える素材になった。 もうちょっとちゃんと登場人物(素粒子)のどれがどれだったかを覚えながら読まないと あかんかもだが、所詮ブルーバックスなのでザラリとナナメに読むのが良かろう。 次はちゃんとした教科書を読もう。
刈田という名前を手書きする。 その時頭の中で「メリタ」と音を読みながら書き、書き上がると「カリタ」と確認する。 「メリタ」なのに「カリタ」なのだな、とかふと思った。 いやなに、コーヒーのメーカー名にそういうのがある、という話。
私は生来寝付きが悪く、従って寝起きも悪いので苦労しているのだが、 その起床時刻が喧嘩の火種になりうる。 そのことを母に相談してみたら睡眠薬を使ってみてはどうかとのこと。 曰く、昔と異なって危険性がほとんどなくなり、 病院では結構ポンポン睡眠薬が処方されるらしい。 なんとなく薬に依存するのは良くないイメージを持っていたが、 肉体的な害がなければ喧嘩に対する良い処方かもしれない。 ということで、1錠もらって試してみたところ、すげー快眠だった。
知人宅にて餅つき。
ここんところ移動時の空き時間とかに、 手持ち武器の取り回しの運動を物理的に捉えることを考えていた。 回転モーメントの取り扱いが肝になりそうだ。 んで今日杵を持って餅を搗いたのだが、そういう意識を持って振ってみると面白かった。 脇を締めて回転半径を小さくした方が杵の速度が上がってよく搗ける。 速度が上がりすぎて餅が少し飛散した。
元々焚き火とか火を管理するのが好きなので、 餅米を蒸す火の番もずーっとやってた。 軍手をしていて熱いものに直接触れていないのに、右手人差し指を火傷していた。 輻射熱の仕業だ。
『獣の奏者エリン』終わった。 完全に惰性だった。
手間がかからず簡単に作った料理を美味いと言われた時、人によって2種類の反応がある。 「これは本当に簡単なんだ」と誇るのと、 「私は何もしてないのでこんなので美味いと言われても困る」と申し訳なさそうにするのと。 料理の上手下手には美味いものを作る能力の他に、 手間をかけずに簡単にそれなりのものを作る能力というのがあると思う。 思うに後者の人は料理に幻想を抱いているというか、 手間をかけた料理が本当の料理だと思っていそう。
高校野球部同窓会のゴルフコンペ。 75-70 の145と 9人中ダントツの最下位。 2年半前に行ってからずっと練習せず、1ヶ月前に1度だけだからそらまあ酷いもんだ。 夜の同窓会宴会はパス。
義実家が実家に来訪してカキ鍋とゲーム大会。 今年は『Wii sports Resort』をした。
内科医である義父に聞くと、やはり睡眠薬に依存するのは良くないとのこと。 元々私が持っていた感覚が妥当だったということだ。
少しトワイライトプリンセス。 今、プレイ時間が60時間くらいでたぶん終盤付近。 今年クリアできんかったけど、まあ近いうちだな。
カキ鍋とそのあとの蕎麦。 今年最後のカタンは勝利で締め括った。
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