きづき(日記)

きづき、またかんがえたことをしるす (いっぺい)
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2009年06月01日(月)

これまで本のスキャンは解体してドキュメントスキャナを通してやっていた。 図書館から借りた英語の本が良い本だったが、これは解体するわけにはいかない。 期限内に読み切れるか分からなかったのもあり、 試しに手持ちのフラットベッドスキャナでスキャンして PDF にできるか調べてみると、 工夫すれば PDF を作成できることがわかった。 PDF にすると何がよいかというと、OCR と組み合わせてテキストデータにしやすいこと。 ……なのだが、OCR の精度が低かった。 最近の OCR ソフトだと違うんだろーなー。


2009年06月02日(火)

「酒は百薬の長」というのは酒飲みの言い訳だが、 「塩は食肴の将」というのは動物としての人体の特性に根差したものだと思う。 動物は長いこと高負荷の肉体労働を強いられてきて、 それによって失われるナトリウムを補給せねばならなかったのだから。 だから人間は塩味を好む。 しかし現代社会に生きる私は肉体労働はあまりしないため、 古い脳の感覚が美味いと思うのに任せて塩味を求めれば塩分過多で不健康になってしまう。

私の味覚には、強力な「健康的」補正がつく。 玄米やレバーは、私にとって「栄養価の高い=健康的」という位置付けの食材で、 玄米の方が白米より美味いと思うし、焼き肉ではレバーが好きだ。 もし「健康に良い」という知識がなかったならば、 これらを美味いと思ったかどうかは今となってはもう分からない。 分からないが、それでいい。 そういうものだと思う。 人間は味覚そのものだけでなく、情報も含めて味わうものだから。 私は基本的に薄味を好むが、この嗜好は「そうした方が健康的だ」という意識によって 形作られている。

鯖はにおいの強い食材なので醤油をつけることでにおい消しになる。 「鯖鮨には醤油」はこの効果を狙ったものだ。 カツオもにおいが強い食材だが、これはにんにくで打ち消す。 トマトソースのパスタには香り付けにバジル、オレガノを振る。 美味いものをより美味く食するためのこういった行動が、 濃い味好きだと思わせていたようだ。 しかし、違うのだ。 塩味と香りは味覚に及ぼす影響が違うし、健康に作用するメカニズムも違う。 「音楽が好きなんだったらマイケルジャクソンもクラシックもアニメソングも好きだよね」 と言われるのとたぶん似たような感じ。


2009年06月03日(水)

NHK のベネシアさんのやつを見た。 茶の木いいなあ。手摘み茶、やってみてえなあ。 ヨメ実家に植えさせてもらえないかなあ。


2009年06月04日(木)

たまに気がつくと白髪が1本、頭の右側に生えている。 白髪って透明で綺麗だから、ついっと抜いてじっと眺めてしまう。 最近気付いたのだが、頭の左側にも1本、2本と顔を出している。 これはあれか、始めて陰毛が生えた頃の陰部のように、 少しずつ、気がつけばわさわさと、白髪だらけになるのだろうか。


2009年06月05日(金)

脈の拍動が分かり易いのは手首と首筋。 私の場合は内くるぶしもそうで、座ってると目視で起伏が分かったりする。


2009年06月06日(土)

学者専用ブラウザとか作ったら売れるかもなあ。 論文のメタデータ取得したり、 論文の引用から雑誌社の該当ページに飛んだり、 こういう単純で煩雑な作業を自動化できたら。 いやそれやるんだったら Firefox プラグインか。 誰かやってねーかなー。


2009年06月07日(日)

シェルのコマンドラインをオブジェクト指向的にするのもおもしろいかもしれん。 ls file ではなく、file.ls。 cat file1 file2 ではなく、 file.cat file2 。 つかまあ興味深いだけで実用的じゃねえな。 パイプ、リダイレクトとか多々ある機能を全てオブジェクト指向で簡潔に まとめあげられるとも思えん。

日本語の語順はオブジェクト指向的なんかと思った。 たとえば、「そのファイルを読む」すなわち「file.read」。 ……とかおもったが、これは勘違いと気付いた。 命令文だから主語がぬけてそのように見えるだけで、 普通の文では「I.read.theBook」のようにオブジェクト指向っぽく見える。

プログラミングに限らない真のオブジェクト指向的な思考では、 「私」と「本」、あるいはその他の役者全てを書き出し一括りし、 その全ての一塊に対して動作を定義・限定するようなことを考えるべきなのだろう。 引数を先に示して関数名を記述するようなものだ。 このようなスキームは明らかにプログラミングに向かない。


2009年06月08日(月)

研究上、多数の計算機を稼動させる必要がある。 その稼動状況を取得するプログラムを学生のころに作って、今迄ずっと現役で使ってた。 そのプログラムは20〜30台程度を対象に作られており、1行1ホストで情報を表示していた。 現在では 計算機が 100 台規模に増えてきたため、 表示は 100行とか縦に長いリストになってターミナルの履歴を遡らなければならなくなる。 これに対する解決策は行列で表示すること。 複数台の計算機の情報を取得する部分はもともとスレッド化してあったが、 これの進捗表示も改善したい。 どうやったらいいかあ、というときに、ふとデザインパターンの本を見かけたので めくってみたら Observer パターンというのがその目的に使えそうだと気付いた。 なるほど、この本はこういう使い方をするのだな。

そういうことでプログラムを刷新した。 プログラムの耐用年数とか、ライフサイクルとかそういう感じ。


2009年06月09日(火)

計算機セットアップ。 ひたすら HDD を複製し、IPアドレスとホスト名を書き換える。

結婚式に来るかどうか・呼ぶかどうかで私は友情を測らないが、 結婚式第一主義とでもいうべきか、逆の価値観の人もいる。 というかフツーのオンナノコはそういうものなのかもしれない。

その人を信頼できるかどうかは価値観とは別の、 誠実さとかそういうところで見るべきだと思う。 ヨメは私とは異なる価値観を持っているが、 価値観を越えたところで誠実とか信頼できるとかという所が、 私がヨメのいい所だと思う点だ。

「アイツは価値観が違うから友達になれない」で人付き合いを切ってしまうのは勿体ない。 「価値観の同じ人間しか信頼しない」というのは思考が硬直しがちでよくないと思う。 それを極論すると、キリスト教徒やイスラム教徒とは友達になれないことになる。 キリスト教徒にもいい奴はきっといるし、イスラム教徒にもいい奴はきっといる。 結婚式第一主義者にもいい奴はいるし、それとは反対の価値観を持つ奴にもいい奴はいる。 価値観が似ていても、不誠実であるとか思い遣りが足りない奴の方が余程友たるに足らない。 価値観の相違というのは結局差異の部分だけに目がいくもので、 また自分と価値観が完全に合一する人間なんて自分以外には存在しないのだから、 その方針で行くと目についた差異に片端から、全ての人に「あいつとは付き合えん」と してしまいかねない。 『ドラえもん』の独裁スイッチのエピソードのように。

「俺とかお前とか生え抜きの寮生は価値観の相違に強すぎる」と某氏は言っていたが、 まさにその通りだ。 ヨメは実に普通の人間なんだなあ。


2009年06月10日(水)

ヨメは、「仕事をやっているかどうか」を朝起きる時刻で測る傾向がある。 26:30まで仕事してても、朝寝していたら「怠けるな」と言われる。 いや勿論半分冗談だが。 ヨメに言わせれば、「朝早く起きてやれば一緒でしょ」ということになるのだが、 それは違う。 24:00に寝て 8:00 に起きて10:00 に計算投げるのと、 24:00に始めて 2:00に計算投げて 10:00に起きるのとでは、 後者の方が 8時間分ほど計算機を有効に使用できる。 26:00 に寝て 8:00 に起きるのでは、私には睡眠不足になる。


2009年06月11日(木)

浴室の入口にバスタオルかけがあって、私はそこにくちゃっと汚くかけてしまうクセがあった。 なんでだろうと考えたところ、これは母との共同生活の間に身に付いたものだと気付いた。 そこにバスタオルを2つかけておき、先に風呂に入った方が片方を使う。 そこで「私が使った方のタオル」というサインをわざと掛け方を崩すことで 表現していたようだ。 今ヨメとの生活では、左がヨメ、右が私と左右で分けている。 こうしておけば、使ったタオルが乾きやすい。 確かにこのシステムの方が合理的だよな。


2009年06月12日(金)

計算屋は多くの計算を行ってその結果をチェックする必要がある。 どれだけラクに画像を生成できるかに、研究の進捗が依存する。 フリーのレイトレーシングプログラム (POV-Ray) を 結晶描画用にラッピングしたプログラムは以前に作成していた。 しかし、急造で拵えたものなのでやはり出来が甘い。 POV-Ray の入力ファイルでできることを勉強し、 最近ハマってる make を使っていろいろ改良。 実に美しい仕事をした。 これ、1000円くらいなら売れるんちゃうかなあ。


2009年06月13日(土)

出身中学校の同窓会総会があるという。 中学校の校舎内はなかなか入る機会がないので、ついでに守衛さんにでも一言断って 校舎内を撮影してみようかと、と思って行ってみたが、 今まさに校舎の建て替え工事中で立入禁止だった。 残念無念。 まあ引越しで住所不明になっていたところを連絡できたのでそれで良しとする。 駅から昔住んでた家、学校にかけてをぐるっと回ってきた。


2009年06月14日(日)

ヨメのために何かをするのは吝かではない。 だからヨメが「散歩に行きたい」と言ったのなら喜んで一緒に行く。 しかし「少し散歩くらいした方がいいんちゃう?」と言われても 私は自身に散歩が必要とは考えていないので、不要と答える。 昨日十分に歩いてきたし。

ヨメは食い物の美味い・不味いに執着しない性質で、 自分でも「味にこだわらない」と言っていた。 だからご飯を10時間以上保温とかするのだろうし、 「美味い」=「作ってくれてありがとう」だと解釈するのだろう。 「ちょっとくらい味を損ねたっていいでしょ。なに食通ぶってんの」 と見られているように思う。 そういうヨメが冷凍飯を「不味い」といって否定するのは、 ダブルスタンダードのように私には見える。 自分のこだわらない部分なら私の喜ぶようにしてほしいし、 私のこだわっている部分を譲らないのならばそれはこだわっているということだ。 自分がこだわらない部分なら相手の喜ぶものをしたいと私なんかは思う。 私が言うことはぜんぶ根拠ないわがままで、 それを認めることはヨメのプライドを傷つけることと捉えている気がする。

寿司飯は酢の殺菌力を利用した保存食だから1〜2日は冷蔵庫入れなくても保つ。 (cf. 『酢飯 - Wikipedia』) やったことないが、2〜3日くらいは大丈夫だろう。 冷蔵庫に入れた方が保存性という点では安心かもしれないが、 もともと2〜3日保つものが1週間保ったからといって、 翌日に食うのならばそれはメリットではない。 それよりごはんのデンプンが老化してボソボソして不味くなる方がデメリットだ。 また、βデンプンは消化も悪く胃腸に負担をかけそうだ。 翌日食いきれる程度の量なら冷蔵庫に入れない方が、私にとっては幸せの総量は大きい。

寮生活が長かったので、労力は対等に支払うべきだという習慣が染み付いている。 誰かが料理を作ってくれたら後片付けはそれ以外の人でやる。 できるだけ負担が偏らないように。 今、ヨメが料理をしてくれる。 全て任せるのは申し訳ないので自分が食器を洗うというが、結局ヨメが洗い物もしてくれる。 いつかこれに慣れてしまい、当然と思ってしまいそうで。それが怖い。


2009年06月15日(月)

仕事が一杯。 仕事で一杯一杯。 仕事で一杯。


2009年06月16日(火)

ヨメが弁当を作ってくれるのは、私が払うべき手間をヨメが肩代りしてくれたということで、 それだけで嬉しい。 それが美味くても、またたとえ美味くなくても同様に嬉しい。 美味さはそれとは別の評価で、それが美味いほど+αで嬉しさが増す。

ヨメに「作ってくれて本当にありがとう。だけどこの品はもう少しこうしてくれると嬉しい」 というようなことを言うと、全ての評価がネガティブだと認識される。 「相手の指摘があった=改善点がある=まずかった」と短絡するようだ。 ヨメにとって、出された料理は全て「美味い」と言わなければならないものらしい。 ヨメの料理はそんな非の打ち所のないものではなく、 もうちょっとスキのあるものだと思うのだが。

無限の労力を払えと言うのではない。 ちょっとの労力や意識で相手がより大きく喜んでくれるのならば、 私ならばそう努力したいと思う。 だから相手の嗜好を知ったり、知識不足が補われるのは私にとっては喜ばしいことだ。

料理をするときに、腕を誇示するという意味合いがある。 「自分の料理は美味いでしょう?凄いと言って!」という奴である。 ヨメの姿勢にそういう感じを強く受けるが、 こう偉そうなことを言うてる私自身もその側面が強い。 カレーとか自分の得意料理は「どや?すごいやろ?」という気持ちが満載になるからな。 ヨメが「甘口が好き」といっても、自分の好きな味にどうしても近付けてしまうし。

相手の意見を封殺する姿勢はよくない。進歩がなくなる。 組織では、多様な意見が得られなければその組織自体が腐っていくため、 下々の意見を吸い上げるシステム作りには注意が払われる。 個人においても同様であるべきだろう。


2009年06月17日(水)

相手の意見を受け入れたら負けみたいな風潮はどうして出来上がるのだろうか。 たぶん、喧嘩・口喧嘩の延長の意識なんだろう。 相手と価値観の違いがあらわになったときは、自身の価値観を見直す良い機会だと思う。 自分と相手とで価値観が異なれば、自分もしくは他人かの少なくとも一方は 「最善の立ち所」にはないと考えられる。 「最善の立ち所」に近いのは自分かもしれないし、相手かもしれない。 私は自身の在り方が常に正しいとは思っておらず、 異なる価値観があれば、まずその差異がどこに起因するかを探る。 だから私は言葉を尽くして自分の価値観を説明しようとし、 相手の価値観の根拠を聞こうとする。 そうやって自身の新しい立ち位置を探ろうとする。 おそらく、こういう姿勢は多くの人が持っている性質ではない。 それを持たざる者から見れば「自分の立場を固持するために相手を論破しようとしている」 ように見えるのだろう。 私にはそういう意図はないのだが、 言葉遣いで緩和できるのならばそれに注意すべきなのだろう。

納得できたら私は相手の意見を喜んで受け入れる。 私が頑固だとか言う人は、私を説得する言葉や納得するための材料が足りていない だけだと思う。 「理屈は言わない。とにかく私を信じてこうやりなさい」なんていうのは宗教と同じだろう。 仮に私がこのように言ったら、どう感じるだろうか。

「科学的な議論では敗者こそが勝者である。なぜなら敗者こそが多くを学んだからである」 という言葉もある。 しかしまあ、これは言葉遊びに近いだろう。 学ぶということは、本質的に個人的なものだ。 それの多寡で他人との勝敗を論じるのはおかしい。

名古屋出張の帰り道。 熱田神宮の中を通って行こう、どう歩けば面白かろうかと入口でじっくり地図を見てたら、 そばに停めてた黒塗りの車のおっさんに軽くからまれた。 背後でエンジンがかかった時にチラっと見たのが気にさわったのか、 「お前が一生乗れる車じゃない」とかなんとか。 ヤクザさんやなあ。 まあ向こうも本気じゃなくて牽制っぽかったけど。 なんか我々庶民の日常と、非日常がこんな形で接点を持つというのが不思議だった。 非日常な世界もいつも存在してるんだとか、行動圏は重なっているんだとか、 無数の人間が活動するこの世界は一つなんだとか。 今回 私に一切の非はないが、なんかトラブっても嫌なので、 今後ああいう人見かけたら近付かないようにより一層注意しよう。 君子危うきに近寄らず。

まあ、「その車に乗ること」を人生の目的に据えたら乗れるだろうとは思う。 だが私はそれを選ばない。 あと「お前がそんなに情けない人生を歩んでいるのは親の所為ではなく、 お前が情けないからだ」とか言われたのだが、 ヤクザが見知らぬ相手に適当に言ったわりには的を射たことを言うもんだと感心した。 親の所為にされたら私は怒るべきだし。 いや怖くて怒れないが。


2009年06月18日(木)

学生実験がどうにも時間がかかりすぎる。 光学顕微鏡の受像システムは去年までデジカメ→映像端子でテレビだったのが 今年は PC 接続になり、この PC がやけに重くて操作が鈍重。 これが学生の人数分だけかかる。


2009年06月19日(金)

京都出張。


2009年06月20日(土)

出身高校に行って、現役生と混じって野球の練習。 早めに行って外周を走る。 私はやっぱり走ることが結構好きなのだろう。 いやどちらかというと、十分な準備をすることが結構好きだからやってるぽいかな。

バッティングはまあそこそこ。 守備はメタメタ。 走るスピードは高校時代からそれほど速くなかったが、さらに鈍ってる。 足腰がくにゃくにゃで捕球の際によほど気をつけないと腰が落ちない。

送球のコントロールが悪いというのが私の悩みの一つだったのだが、 これは投げるモーションで軸足の挙動が不安定だからだと気付いた。 横着して軸足を伸ばしっぱなしで投げようとし、 その変化を腕の挙動を調整することで制御しようとしていた。 そんな難しい制御をするよりも、毎回全身が一連・一定の動作をトレースするように 足の挙動もキッチリ意識して動作を行った方が良い。

投手に限らず野手も、野球する人間は全員ピッチング練習すべきだと思う。 野球の基本は投げることであり、その動作をつきつめて考えることができるようになる筈。


2009年06月21日(日)

激しく筋肉痛。

『やる夫が徳川家康になるようです』を見た。 戦国時代すげー。 本能寺前後のヒデヨシのチート感すげー。

天下を統一して「今から江戸幕府の下につきなさい」とか言われても、 その時点の諸国の大名は直前の戦国時代からの「戦うのが当たり前」の感覚を持っている わけで、いかにして新しいシステムを作るかが肝。 秀吉はそのシステムを作れなかった。 天下統一後、内政に力を注ぐべきところを朝鮮出兵に向けてしまった。 男児になかなか恵まれなかったという不運はあるが、 それでも弟・秀次を処分するのは愚策であったろう。 自分の直径にこだわらず家という視点でそれを守ろうと考えていれば、色々変わったと思う。 秀吉の大きな武器の一つがその人物としての魅力らしいが、 これは代が変わればなくなるもの。 これを豊臣家への忠誠というシステムにまで昇華しきれていなかったように思う。

家康が長寿であったこと、男児に恵まれたこと。 江戸幕府設立が上手く行ったのはこれが最も大きいと思う。 本当、封建制が上手く行くかどうかは運任せだ。 つか家康は内政上手、外交上手、戦上手で、その上長命で、男児に恵まれるって、 ゲームだったらひどいチートキャラだ。 秀忠という跡継ぎも良かったのだろう。 秀忠は軍事には凡庸だったらしく軍事好きには評価が辛いようだが、 内政には十分な才能を発揮したとのこと。 2代目には好適だろう。 だんだん、徳川による江戸の泰平の時代というのが非常に特異な現象に思えてきた。 家康すげー。 日本史的上に家康がいたことは、日本にとって幸運だったのではなかろうか。


2009年06月22日(月)

計算機の整備。


2009年06月23日(火)

学生実験で「鉄と鋼の違いは?」みたいなことをやってるわけだが、 その例の一つに日本刀の話を持ち出している。 学生の反応によって毎回話の流れが変化したりするのだが、 今日やった班では刀に使われる鉄と鋼の特性から 「刀の反りは何故あるのか」みたいな実に趣味的な内容へと流れていった。

高校の授業とかでは往々にして授業の本筋よりも脱線が面白かった。 これは別の話題になることで頭がリフレッシュされるという効果もあるだろうが、 講師自身にとって面白い趣味的な内容を喋っているので話がイキイキするし、 学生がつまらなさそうにしてたら本筋に戻る必要があることから 話しながらも学生の反応を見るようになり、 結果としてフィードバックを感じながら話を進めることになるという効果もあると思う。


2009年06月24日(水)

授業の手伝いで学生と一緒に講義を聞いたのだが、イマイチ面白くなかった。 そのあとはかなり集中して仕事してた。 18:00 から集会が予定されていたことに、23:00 前に気付くくらい。

計算ファイルは多数のディレクトリに分割整理されている。 そのそれぞれの階層で直接計算を実行すると、 どこでどの計算が実行されているのか、また終わったのかを忘れてしまいがち。 そしてバッチ処理のスクリプトが使いにくい(使えない)。 ということで今迄は計算を投げるための専用ディレクトリを用意し、 そこに移動して置いていた。 しかしこうすると、途中経過を他の終了した計算と突き合わせて確認することが面倒になる。 今日ふと思いついて試してみたら、シムリンクで問題なかった。 また一つ、作業の効率を上げることができた。

問題。 蝶番で繋がった2枚の鏡があるとする。 この2つの鏡の間の角度を 120 度にするにはどのようしたら良いだろうか?


2009年06月25日(木)

鏡の問題。 右の鏡に映る左の鏡と、左の鏡に映る右の鏡が重なって見える角度に設定すれば良い。

譲歩した分だけ新しく要求されると、全体のやる気がなくなる。


2009年06月26日(金)

ソフトボール大会。 4打数2安打2本塁打。 今年の反省は準備されたバットが重かったこと。 ここ2〜3年で筋力が劇的に落ちており、重いバットが十分にコントロールできない。 自分の体に合ったバットを買っておいてもいいかもしれん。 軽いバットに変えてから2打席連続本塁打だった。

つくづく、草ソフトボールは人数が 10人くらいが最強になると思った。 親睦が大会の目的なので参加者全員打順に入れるようにすべきだろう。 すると15人くらい回らないと2打席目が回ってこない。 打てる実力を持つ奴が同じ人数なら、人数が少ない方が有利だ。

職場の同僚と飲み。


2009年06月27日(土)

私はお酒が大好きだ。 酒の味も好きだし、好きな人と好きな時間を共有するツールとしても好きだ。 これが人生の楽しみの少なくない部分を占めている。 結婚してから、ヨメの許可なく酒を飲むなと約束させられた。 ヨメがいないときに「羽をのばしていいよ」と言われたので、 「それは酒を飲んでもいいということだろう」と解釈して飲んだら人非人のごとく罵られた。 ヨメの「羽をのばして」というのは「何もせずに寝てろ」ということなのだろうか。 結局、約1年間ヨメの許可なしに酒を飲まないことを約束する破目になった。

煙草が愚行であることは知っているが、リスクを自覚してその範囲内で楽しんでいた。 しかし、煙草を飲むなと約束させられた。

好きなものを無理矢理抑えつけるということがどれほどのストレスを生むか、 好きなものがない人には分からないのだろうか。 それらやヨメの高圧的な態度のストレスに耐えかねて煙草を飲んだ。 それをヨメが見つけて激怒した。 禁酒の約束を3年間に延長しようと言い出した。 ヨメには、こちらが譲歩すればその分同じだけ踏み込んでまた新しく要求する傾向がある。 私が人生の楽しみの大きな部分を犠牲にしてヨメの要求を守っているのに、 「それは当然のこと。今できてるんだからできるでしょ。もう2年くらいやっちゃいなさい」 と考えているようだ。 今やっていることがどれだけのストレスに耐えて努力している事なのか、 ヨメは考えもしない。 今日できたので、明日も、1年後までも簡単にできるだろうと言う。 その差 2年の期間が短いものだと言う。 おそらくヨメは、自分が常にストレスをかけ続けていることを常には意識していない のだろう。 とにかく、このような苦しい生活がさらに2年も続くのは耐えられないので、 新たな約束はしなかったと私は記憶している。 その時の思考・感情も覚えているので私の中では結構確とした記憶だ。 しかしヨメの記憶では3年間に延長したことになっていた。 たとえヨメの脳内事実の通りだったとしても、 高圧的・強制的に相手に約束を強制する姿勢はどうかと思う。 少なくとも私はヨメにそのような態度を取ったことはない。 私がそのような態度を取らないのは、決してヨメが非の打ちどころのない 完璧な人間だからではない。 たとえヨメの行為が愚行であると思っても、ヨメの意思を尊重しているからだ。

ヨメから見れば「残りの人生のうち、たった3年」に見えるのだろう。 母の命数を数えるのは嫌なことだが、母と一緒に飲める時間はあと何年あるだろうか。 病状によってはその3年のうちに逝くことも考えられる。 5年生存率 3割とのこと、母と同じ時期に同じ病の見つかった知り合いが既に亡くなっている。 母は私が見つけてきた酒の味を喜んでくれていたし、 母と姉・義兄と好きな時間を共有するツールとしての酒が私は好きだ。 かけがえのない人とのかけがえのない時間、限られた時間を 少なくとも私は犠牲にしている。 そんな約束を私は守っている。

私の体のためをいうのならば、1年間禁酒するよりも、 1年のうち1ヶ月禁酒を12年間続ける方が効果が高かろう。 リスクを許容内に抑えつつ、人生の楽しみを最大化するにはそうした方が良い。 しかしヨメは禁酒を続けることだけが目的のようで、 私が人生を楽しく過ごすことについてはビタ一文の価値も認めていないように見える。 ヨメの意図としては、一生酒を飲ませないことが目標なのではないだろうか。 私が譲歩して 3年に延ばすことを許容したら、 何かと理由をつけて5年10年とさらに延ばそうとするのではないだろうか。 そういう懸念を抱かせられる。

ヨメは「こうするべきだ」と自分が思い込んだことをぶつけるだけ。 「他人の意思との関係の中でどのように擦り合わせていくべきか」、 「相手がどう感じるかを考え、相手が約束を守ることに意義を感じさせるにはどうすべきか」 という点に思慮が足りない。 システム作りが下手だと思う。 頑張って、苦労して約束を守ってもそれが基準レベルになって次の要求が高くなるだけ。 二度とヨメと約束はしたくないと思わせられる。 私の頑張りに応じて次の要求を加減するとか、 ヨメが私の要求に譲歩するとか見せてくれたのなら更改も検討できたと思うのだが。

経緯は暴力的だが一応約束は約束だ。 法的には脅迫のもとでの契約は無効になるはずだが、 まあ一応私にも(「羽を伸ばす」の意味を確認していなかった)責任はある。 1年は約束を守る。 それで(私の記憶では)約束は完遂されたことになる。 その後も勿論家では飲まない。 ヨメがいるところで飲んでも不味いだけだから。 量を減らすという観点ではヨメの願い通りになるのではなかろうか。 勿論私の本当の望みとしては、ヨメと楽しく美味しい酒を飲みたいと思う。 だけどヨメがそこまで嫌悪するのなら仕方ないじゃないか。

私は、「自分の都合の悪いところだけを都合良く忘れる」人間らしい。 そのように断じられるのは不愉快だが、私も人間なので忘れることはあるし、 それがたまたま私の都合の悪いところかもしれない。 だが「言った・言わない」の水掛け論で自分の記憶のみが絶対に正しいと信じるのは どうかと思う。 私から見ればヨメの方が「自分の都合の良いように覚えている」人間のように見えかねない。 私にも自分の記憶が正しい筈だという思いはあるが、 強く主張しないのは自分の記憶に自信がないからではない。 2人の会話の水掛け論は双方が対等な立場なので、 2人の間だけでは事実を確定することができない。 人間の記憶やコミュニケーションはそれほど完全なものじゃない。 このことが分かってない人だけが 「あなたは自分の都合の良いところだけを/都合の良いように覚えている」と断じることができる。

記憶が誤っていることが確定すれば、私はそれを素直に受け入れられる。 たまにテレコで録音したくなるが、それをするようになったら本当にお仕舞いだ。


2009年06月28日(日)

姉夫婦の友人というのが実家に遊びに来て軽いパーティみたいなの。 そこにお邪魔してカタンとか。

ひらやま改めておめ。 末永く幸多からんことを。

「カトリック神父の真剣な話を聞きにいっても良いかもしれん」と、 ひらやまの話を聞いて思った。 私にとってキリスト教そのものは比較的どうでも良いのだけれど、 「夫婦とは何か?愛とは何か?」ということをヨメと神父さんと一緒になって 真剣にディスカッションする機会があったら夫婦レベルが一つ二つ上がる気がする。 まあ教師に相性や当たり外れがあるように、聖職者も同様だろうけれど。

話し合いができる人がいい、と私は言った。 ヨメのために 3ヶ月という短い時間で無理して決断した。 その無理を後悔させないで欲しい。

この日記だけ見てるとウチは「どんだけ夫婦仲悪いんだ」とか思われるかも しんないけど、 特にそういうことはないと思う。 普通に仲良いと思う。 仲良くやってる部分は書く必要がないだけのことだ。 私がワケワカランこと言われたときに (勿論ヨメから見れば私がワケワカランこと言うてるわけだが)、 私がヨメに直接言ってもヨメは自分の立っていた位置に固執して機嫌を損ね、 より固執するという泥沼スパイラルへの突入する、 そういうルートが見えるようになってきた。 それを避けるために私は何も言うべきではないという場面があることを学習した。 そしてそのはけ口がここになってる。 この日記の読者には犬も食わない夫婦喧嘩につきあわせてる形になるが、それは勘弁だ。 どこかで誰かに言わんと私がストレスで死んでしまう。 あとヨメは自分と異なる立場の意見を言われると感情的になるので、 後日冷静になったときに私の言い分を見る機会があっても良いかと思う。


2009年06月29日(月)

義兄がカレーを作るのにミキサーを使って具材を細かく砕いており、 そのカレーが美味かった。 カレーは野菜や肉のダシを取る煮物で、 1日経ったカレーの方が美味いというのは、そのダシがよく出るのが理由の一つだ。 ダシ材が小さいほどダシが出るのが早くなるので実に合理的な手段だと感心した。 ダシという感覚がよくわからないのならば、 具材を入れずにルーだけをお湯に溶いた汁と比較してみればよく分かるだろう。

……ということをヨメに話そうとしてみたら「ミキサーを使っていた」という所で 話を遮られ、自分は大きな具材が好きなのでそれはしたくない、と言われた。 ダシがどうのという話は聞いてもらえなかった。 さすがに学習した。 このモードのヨメは自分の中で結論が決まってしまっているので、 他の意見はノーサンキューなのだ。 私ならばそれを取り入れるかどうかは別にして、相手の考えを聞いて知ることは 好きなのだが、ヨメは他の考え方が存在するだけで不機嫌になる。 大きな具材が好きな向きには、「ダシ取り用にミキサーで細かく砕いた具材」と 「咀嚼用の大きな具材」を両方用意すれば良いと思うのだけれど。 まあ人によって最適なやり方は異なるだろうし、 ダシの旨みを知覚できなければ2つに分けるメリットも 感じられないから仕方ないか。


2009年06月30日(火)

私と私の友人が相談してベストだと判断したことを、 第三者のヨメがどうして好き勝手に覆すことができるのだろう。 私は親しい友が一番喜ぶ方法で贈りたいだけなのに。 ヨメの行動原理は「どうしたら相手が喜ぶか」ではなく、 「どうしたら自分の仕事が早く片付くか」という、ただそれだけのように見える。 私と彼との関係なんだから本来ヨメが責任を負う仕事ではないのに、 ヨメは自分の仕事にしてしまい、自分が片付けようとする。 私と友人との友情の在り方に干渉する。 自分が友情にヒビを入れるような真似をしていることに気付いていないのだろうか。

自分の立場が結婚式至上主義にあって「来てくれると嬉しい」という感情を 持つのならば、他人にも施してやる精神性はあるべきだろう。 「あいつは来なかったから行く必要ない」という報復の精神は少々気味が悪い。


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