確かに、最初から英語で書けるようになるというのが理想的な状態であることは認めるが、 多くの学生はそれに挑むべき段階にない。 英語力の乏しい人に無理矢理最初から英文で論文を書かせると 今の自分に書ける表現で書こうとしてしまい、 本当に書くべき内容からずれてしまうことがある。 それを避けるためにまず日本語で書かせるべきだ。 学生に文章を書かせると日本語ですら論理が通ってない物が散見される。 日本語ですら論理が通っていないものを英語で論理が通った文章になるわけがない。 明確な論理こそが論文の命なのだから、論理が通っていない場合には まず論理について精細なディスカッションが必要だ。 また、私は彼ではないので彼が本当は何をどう書きたいのかを十全に知っているわけではない。 そういう状態の英語力に乏しい読み手(私)が、 英語力に乏しい書き手が書いた英文だけから本当に書きたかったことを 正確に読み取り、また正確に指摘するできたとすれば、それは奇跡と言う他ないだろう。
『すうがく博物誌』(森毅)の天邪鬼の問。
三途の川を渡ったところに、地獄と極楽との分かれ道がある。そこに鬼がいて、質問に答えてくれる。 たとえば、「こっちが極楽へ行く道ですか」と聞くと、正直鬼の場合なら、正しい答えを教えてくれる。ところが、正直鬼にそっくりな天邪鬼の場合には、かならず反対に嘘をつく。でも、であった鬼がどちらであるかは、外から見分けがつかない。 うまい質問を1回だけして、正しい答えを引きだす方法はあるだろうか?
(略)
質問の例:「こちらが極楽へ行く道かと人にきかれたら、あなたはイエスと答えますか?」
よくある「正直者と嘘吐き」の問題なのだが、 正直村と嘘吐き村の問題と異なり、相手に自分の村の方向を聞くことができない。 さて、引用した「質問の例」で正しい答えは導き出せるだろうか? なるほど、天邪鬼に天国への道を指して普通に聞いた場合ノーと答えるから、そこに「イエスと答えますか?」という質問を重ねることで正しい答えを導けるという理屈だ。 しかし本当にそうだろうか? 真である命題を天邪鬼に聞いたならば、天邪鬼はノーと答えようとするだろう。 しかし、質問の主節は「イエスと答えますか?」なので、 「ノーと答えようとする天邪鬼」はイエスと答えようとするだろう。 さて、もう一度質問の主節を確認しよう。 「イエスと答えますか?」なので、「イエスと答えようとする天邪鬼」はノーと答えようとするだろう。 結果、誠実な天邪鬼は確実な嘘をつくことができないため何も返答できなくなる。 これは偽である命題を聞いたときも同様。 この質問では相手が天邪鬼の場合、相手が天邪鬼であるということしか分からない。 さて、どう質問したものだろうか。 私も、もう暫く考えてみよう。
『すうがく博物誌』(森毅)に天秤パズルが出ていた。 考えてみれば私は天秤パズルに挑んだことがあまりなく、定石的な思考方法というものを はっきりとは掴んでいないことに気付いた。 ということで暫く考えてみることにする。
『CHANGE』第5話。 安定してつまらんくなった。 もう見なくていいや。
まんがスキャン中。 スキャンが間違いなく行えたかを確認するために、またスキャンによって得られたJPG画像ページ番号が書かれているページを探す必要がある。 そういう風に見ると、いろいろ漫画によって流儀があって面白い。
風車小屋は表紙を1ページ、表紙めくったところを2ページ目と数えるけれど、 多くの漫画は表紙を除いて1枚目を1ページ目と数えている。 ある漫画はカバーの表裏、表紙の表裏で普通の漫画の1ページ目が5ページ目になってたり。 折り込みピンナップを数えない流儀もあれば、1枚=2ページとして数える流儀、折り返して重なった紙の分だけ数える流儀(2回折り目があれば、3枚重なって6ページ分)もある。
あと目につくのがタチキリの濫用。 描き手の資質や話の盛り上がりでアクションが連続している巻であるということもあるが、広い面積に描きたいからという浅薄な動機によると思われる漫画が多数。 メリハリがわかってない。 ハレばっかりでケがないというか。
そして鬼才唐沢なをきは scanner(スキャンする人)泣かせ。 折り込みページとか、袋綴じネタとか。
幼少の頃、ようやく幾つかのひらがなを覚えたころ。 母に連れられて行った近所のスーパーの2階に上がると「おもちや」と書かれた看板があった。 わたしはおもちが好きだった。そっちに行けば、お餅屋さんがおもちを売っているのだと信じていた。 だからいつもそっちに向かった。 しかしいつも餅屋に着く手前にもっと興味を引く物があり、餅屋に辿り着けたことはなかった。
長じて分かった。 あれは「おもちや」ではなく「おもちゃ」だったんだと。 私は毎回、前回餅屋に行こうとして行きつけなかったことを忘れ、 しかしなんとなく良い経験だったということを覚えており 何度もその行動を繰り返したんだろうなあ。 馬鹿だから。 母はきっと、私がお餅が欲しいからではなく、単純に「おもちゃ」が見たいからそっちに行っていたのだと思っていたのだろうなあ。
結納とかいうもの。
結婚をゴールインという表現をすることがあるのに対し、 いやいや結婚はゴールではなくスタート地点なのだと言う人がいる。 私も後者の考えが妥当だと思う。 だけれども、結婚式は一つのゴールだとも思うんだ。 もう、ゴールしてもいいよね……?
『オイラーの贈り物』読了。 実によくまとまってる。 内容は大学数学に足を踏み入れているが、あれは高校のころに理解できる部分だけ読むと最も効果的ではないだろうか。 いや勿論今読んでも面白かったが。
仕事柄使用する部分だけ数学のノートを作っている。 勿論 TeX で subversion で管理して、だが。 時間があれば『オイラーの贈り物』で使える部分もマージしたいなあ。
私がこの世で最も尊敬する人の一人が「忙しいことを自慢する人間ではないつもり」とか言っていた。 ああ、そうだ。そうならなくてはならない。 するべき事しない言い訳を忙しさにしてはいけない。 本当にするべき事は、忙しくてもするべき事なのだ。
車の運転が下手だ下手だと言われるのだが、果たしてその通りかどうか、という話。 何事もある程度上手くなると、自分なりのやり方というのが出来てくる。 絶対値として自分と同程度の能力があったとしても、 その作法に合致していない部分の分だけ「あいつは下手だ」と感じられる。 茶道において表千家から見れば裏千家のやり方は無作法に見えるものだろう。 車の運転においては例えば周囲の状況把握、安全確保の優先順位、同乗者の乗り心地、周囲の車への配慮、エコドライビングといった観点がある。 ドライバーの持つ有限のリソースをこれらのどれにどの程度割り振るかという作法は、それこそドライバーの数だけあるし、よほど的を外したやり方でない限りそのどれもが正解の一つだ。 私の車の運転は自分では特に下手だとは思わないが、 ある程度自分のやり方を確立した人から見れば下手に見える、そういうことだろう。
阪神が2位中日と13ゲーム差で独走。 13ゲーム差ってことはオールスター前にマジック点灯するかもしれんなーと思ったが、実は2日前の順位表で CM55 というマークがついていた。 CM て何やろと思ったが、どうやらクライマックスマジックナンバーということらしい。 3位まではクライマックスシリーズに出られるからそういうことか。
採血の後や注射の後に「針を刺した部分を揉むな」と念を押される。 昔は揉んでいたとかそういう背景がなければわざわざ揉む人はいないと思うのだが、 その上で言われるのは何故だろう? 献血の時に聞いてみると、筋肉注射の場合には揉んで薬剤を広げるらしい。 なるほど、ならば過去に筋肉注射を受けたことがある人は特に念を押して注意を告げなければ揉んでしまうものだろう。
上記は私なりに得てきた学習に対する要点だ。 教員というのは教科書の伝道師たるべきではなく、自らが学んできたことを伝えるのが仕事だと思う。 教科書のみを信奉し それを学べというだけなら、教員は人ではなく石碑でも事足りる。 よって私は、ある教科書を使って学生とともに学習するとき しばしばその教科書を盲信すべきでないと言うだろう。 「この教科書の説明では理解できない」。 「この箇所はこういう風に説明した方が理解し易い」。 理解できてない部分をその重要性を把握しないまま放置してはいけないし、 理解できるのならば理解のたすけになることを言うことが教員の役目だからだ。
なお、さらにもう1点補足すべきかもしれない。
家具を見に行った。 桐箪笥が格好良かった。 高い工作精度からくる気密性の高さのため、一つの抽斗を閉じると他の引き出しがピストン運動で押し出される。 実にドリフだ。 そういえばサイエンスチャンネルの The Making で『箪笥(たんす)ができるまで』というのがあったなあ、とか思い出した。 あとやはり私は金属スキーなので金具細工の美しさにやはり心を奪われる。
献血すると血液採取の速度が速いといつも言われる。 普通の人は1〜2目盛ずつ減っていくところが私は 4目盛ずつ減っていくとのこと。 (おそらく、1目盛 = 1ml/s なのだろう。) これが体質的に良いことなのか悪いことなのかは聞きそびれた。
mixi に結婚のことをかきこんだ。 墓穴に入らずんば嫁を得ず、です。
POV-Ray というのを使って図面を作成。 かなりいい。
スレイヤーズの新しいの。 わからないのでいいや。 まあ古いのも見てないし。
『ギャラクシークエスト』 仕事しながらナナメに見てたが思ったより見れた。 人間、先入観に比してどうだったかというのが最終的な評価に一番効くので、 やっぱり C級だと思って見始める方が有利だよなあ、と思った。
家のトイレにウォシュレットがついていたが使わなかった。 特に理由はない。 いや、ウォシュレットを使わなかったのは、紙からそれに切り替える理由がなかったからか。 小さいとはいえ活性化障壁があるからな。 ふと思い立って使ってみたところ、ペーパーの使用量が半分程度で済むことが分かった。 水と電気の使用量から考えても、そこにあるのならばウォシュレットを使った方が環境負荷が低そうだ。 ということで今後は積極的に使うようにしてみよう。
研究用に用意してある計算機だが、最近その研究にかけられる時間が足りなくなってきた。 そこでかなり力技の計算をすることにした。 計算コストがかかるけど頭を使わずできることをさせておいて、その間に別の頭を使うことをしておこうという戦略だ。 ということで600近い入力ファイルを作った。 これで単純計算でも1ヶ月くらいは計算機が回っている筈。 その間に動力学プログラミングを進めよう。
草野球の大会に向けての野球の練習。 先日の雨でグラウンドはところどころぬかるんでいたが、それでも外野ノック。 2人で受けてたら死ぬほど走り周る破目になった。 暫く起き上がれなかった。
そのグラウンドの売りは、屋根付きの練習場があって、さらに硬球のバッティングセンターがあるということ。 普通の町のバッティングセンターとかは大抵軟球で、スピードボールだと球の回転でホップとか不自然な変化をするので試合のための練習にはなりにくい。 しかし硬球だと重量があるので比較的自然な球が来るのが良い。 それにやっぱり硬球を打つのは段違いに気持ち良い。
ピッチングについて高校〜大学と本職で投手やってた人に指導をもらった。
連れられて美容院。 眉カットというものを勧められ、ついでだし折角なので頼んでみた。 そして眉を調えるというのは眉の形だけでなく、長さ方向も調えるのだということを知った。 「形だけだったら眉カットじゃなくて眉剃りですよー」。 なるほど、と膝を打った。
「状況は常に悪化する」という言葉を思いついた。 組織やシステムは常に変化する。 その改変されたルールは良くなるものもあれば、悪くなるものもあるだろう。 通常人間は良くなった点より悪くなった点が気になる。 そして悪くなった点についてばかり議論する傾向がある。 だから人間にとって、「状況は常に悪化する」ように見える、と。 ついでに言うと良くなる点についてはそれ以上議論する必要がないということもある。
トラックボールのホイールが壊れた。 そらまあ酒こぼしたりしてたから壊れて当然なんだろう。 しかし保証書見てみても液体をこぼすなとか書いてなかったのでとりあえずショップに持っていってみた。 結果はまあ輸入代理店に直接問い合わせた方が早いですよ、という結論になったのだが、そのショップ(日本橋 Faith)のサポートデスクが実に良かった。 すこぶる良かった。 親切、丁寧、的確、迅速。 もうちょっとあそこで買うようにしてもいいかもしれんと思った。
そのサポートデスクの人にちょっと教わった。 故障品を郵送するときは、レシートの現物を添付するのではなくそのコピーにした方が良いらしい。 というのも先方で紛失されることもないことではないから。 ショップでは預けられた故障品の保証書やレシートは、コピーをメーカーに送るとのこと。
『百鬼夜行抄』(今市子)を久々に読んだ。 1巻の箱庭の話が白眉。 すげえ。
出勤。 ふと、今自分が履いているのが、サンダルであることに気がついた。 気にせずそのまま出勤。
『我が家のお稲荷さま』アニメ第1話。 これを見るくらいだったら原作読んだ方が良さそうだ。 あとは見ない。 ……いや結局3話までダラダラと横目で見た。 そこでやめた。
『RD 潜脳調査室』を2話まで視聴。 長く感じた。 それが全て。 なんか古臭い SF のニオイ。 機械物理的なもんはもういいよ。 いやそれでも演出的な面白さがあればいいんだけど。 殺陣も格闘としては正しいんだろうけど、エンターテインメントとしてはどうだろう。 山本貴嗣とか菅野博士の漫画の「正しさ」という感じ。
『理科系の作文技術』(木下是雄)読了。 私もさすがに毎日(ではないけど)日記として文章を書いてるだけあって話の大半は意識していることだった。 しかし4回生とかに読ませるとおそらくかなり効果的な図書だろう。 ということで機会があれば読書会用図書として推薦してみよう。
パラグラフの考え方は、私の方が進んでいると思う。 この本の著者は意味的な区切りで段落にすべきと主張しているが、 その区切りの大きさはどのくらいの落差があれば良いかの目安は提示されていないし、 それは提示しようがないものだ。 またその方針に従うのならば全文のあらすじをまとめる概要(abstract)は一つ一つの文がそれぞれ一つの段落を構成していて然るべきだろう。 私が提示するアイデアは、文章に含まれる文の数が a ならば、段落の数は √a を目安にすべき、というものだ。
薬師寺なにがしとかいうアニメを15分くらい見た。
『スタートレック』第3話。 「医者」と「石屋」が英語でどのような単語だったのかが気になる。
野球の試合。 イニングが始まり5番、6番が出塁して無死 1,3 塁で 7番打者が打席に入った。 8番打者の俺は激しく wktk しながら打席を待っていたのだが、 次の7番打者が併殺打で 3塁ランナー生還、結果2死ランナーなしで俺の打席が回ってきた。 wktk してたのに途端にすることなくなった。 あー、俺8番だから、俺が出たら9番でこの回が終わって次の回が1番からの好打順になるなあとか。 そういう状況で四球を選び、まー責任は果たした。 ということで今年の成績は 1打席 0打数 1四球。 チームは負け。
投手はせずに済んだ。 昨年からやってきた練習と投手に対する憧れからすると正直少し残念だが、 ストライクが入らんかもしれんという恐怖はそれに勝る。
野球は本当に、試合より練習の方がしんどいスポーツだ。
中島みゆきの『時代』に「いつか故郷に出会う日を」というフレーズがあるが、 これは「生まれ故郷に帰る」という意味ではなく、「故郷となるべき場所に巡り会う」という意味なのかもしれない、とふと思った。
論文作業。 困ったことに穴が見つかった。 おそろしいことに、論理に狂いが出る可能性が万に一つある。 ……と思ったが、あとで勘違いと分かって心底ホッとした。
何年かぶりに Emacs で文書を書いてみた。 TeX を書くにはやっぱり yaTeX on Emacs もいいな。 skk の入力モードがカーソルの色で分かるのもいい。
FF の海外版では、名前が変えられているモンスターがある。例えば、
といったところ。 ここで思ったのは、日本語ではカタカナ文字列という外来語を表す表現があり、 外来語をそのままに受け入れることに慣れている。 だから「ゴブリンってのはよくわからんけどまあ怪物なんだな」と華麗にスルーしつつプレイを進めることに日本人は抵抗がないが、英語民は自分の知らない単語に対する抵抗が大きく 自分の文化圏で知られているものに置き換えてしまうのではないかと。 つか DQ のギラが fireball になっているとかいうのは、明らかに DQ の良さをスポイルしている。
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