「風邪引いてるんですか?」「春一番ですわ」というやりとりを聞いた。 しばらくしてから風と風邪をかけていることに気付き、妙に納得した。
「はがね」の件、 あとから気付いたが「汞(みずがね、水銀)」もそうだな。 調べてみて初めて知ったのは、青銅を「からかね」、鉱を「あらがね」、鉛を「あおがね」と呼ぶということ。
FreeBSD 7.0-RELEASE が出ましたね。 しかし今はちょっと作業できんなあ。
生け花の展示会を見に行った。 漫画も芸術の一つと考えれば、それなりに芸術を志した者としてそれなりに理解はできるつもり。 バランスとか配色とか、色の統一感とコントラスト、アクセントなど。 まあ私の持っている知識は中学校の美術の教科書レベル+αくらいだけれども。 それなりに面白かった。
生け花はどうやら「自然に生えているかのように見せる」と「美しく見せる」という対立する2つの概念が軸になっているらしい。 ならばその間のどこに自身を置くかということで流派は幾らでもできるわな。 幹や葉を、例えば銀色に塗ることを行う流派もある。 それは「自然に」という観点は大きく損なわれているかもしれんが、美しければそれでいいというわけだ。
生け花と茶の湯、すなわち華道と茶道はともに日本の芸術を極める伝統的な道だけど、その両者の基本的な指針というか、ストラテジーは大きく異なる。 華道は芸術性が強く、今迄にない新規な美を生み出すことが高く評価されうるだろう。 対して茶道は元々が客をもてなす事を目的としたものであり、完全に定まり決まり切った作法を習得してその通りに所作を繰ることが道となっている。 その有様が、様式美としての美しさを醸すのだと。 茶道ではきっと、新たなものを生み出すことについての評価はあまり高くなされないのだと思う。 この対比は絵画・彫刻などの普通の芸術品に対する、工芸品が持つ美しさというイメージ。
ブロッコリーっぽい植物を使ったものがあって、何というか、学術的に興味深かった。 というのはその表面の紋様が自己相似的でフラクタルな図形になっていたから。 帰って調べてみると、ロマネスコというものらしい。 等比数列で生体を作ると「このパターンを形作れ→大きくなれ」と、成長のルールを極めて簡潔に記述することができるため、原始植物相とかでは生育に有利だったのかもしれんとか考えた。 シダの葉っぱなんかも自己相似的な形状だわな。 ひょっとしたら、石炭紀のシダ植物が巨大になったことは、その成長を止めるルールがなかったからかもしれんな。 「このパターンを形作れ→大きくなれ」だけだと際限なく大きくなってしまうから。 重力のあるこの地上では実際上無限に大きくなることはできないわけで、そのために番兵が必要になるだろう。 しかし、原始植物相ではそこまで遺伝子は発達していなかったとか。 そんなことを漠然と考えた。
私自身は外食せず美味い店を見つけられないけど、母姉がしばしば近所で外食して美味い店を選んでくれるので、私は労せず美味い店だけに行けるという理屈。 素晴らしい。
桃の節句は何故休日じゃないのだろう。 というかたまに休日と勘違いする。
発注の仕方が上手くなってきた。 少し探せば2割3割安いところや安上がりの方法は見つかるもんだ。 ここ数週間で代金引き換え + 立替払 で選択肢は大きく広がるということを知った。 俺は良い事務屋になれるんじゃないかな。 こういうノウハウを共有化するシステムを作ればいいのにと思う。 同じ予算から多くのものを購入してアウトプットを最大化するというのは、大学運営側から見ても重要なことだと思うんだけど。
明らかに日記が追い付いてない。 日々思ったことのキーワードだけメモしておいて後日それについて思ったことをキチンと文章にするという形態でこの日記は書かれているのだが、それも1ヶ月前のことになったりするとその後に考えたこととかと干渉したり、その時点の正確な状況はどうだったかを思い出せない。 もう毎日書くという形式をやめることにした方がある意味誠実だとは思うのだが、そうすると今以上に書かなくなるだろう。 自分では書くことの意味はそれなりに見出しているので、自分に対する強制の意味を込めてこの形式を続行することにしようと思う。
骨髄ドナーの件、患者さんの都合により終了とのこと。 不幸なことになっていなければ良いのだが。 顔も名前も知らぬ人ではあるが、お祈り申し上げる次第。
大阪市営地下鉄のドア横の広告・情報スペースに「知っとく小窓/地下鉄・市バスにチョットえぇコトありますネン!」というのがある。 そのスペースのイラストは男女のキャラクターで描かれ、彼らの名前は「チカちゃん、テツくん」というこれまたベタベタな設定。 「♪二人合わせてチカテツだー、君と僕とでチカテツだー」とか勝手に脳内で歌っていたりした。 でも何となく暖かい感じのイラストが実は結構気に入っていた。 この3月、イラスト上で彼らは結婚していた。 よく見ると Vol.36 で fin とあるので3年間の企画で今回で終了だったということなんだろう。 いや本当に何でもないことなんだけど、「google: チカ テツ」なんかで検索しても全然引っかからないのでせめて俺だけでも、と書いてみた。
『軽い気持ちで萌え萌え言うよ』。 ドラクエ1〜3世界についていろいろ好意的に妄想を働かせて脳内補完している人。 この妄想力はすごい。
プレゼンテーションする際には、その聴衆に合わせた話をすることが最も大切だと思う。 自分が行ったことが真に先進的であり そのことについて話をするとしても、聴衆によって話し方は異なるべきだと思う。 たとえば「知らない人はいない」と見做せるような同じ領域を研究している人が多数である会ではまさに先端部分だけを詳細に示すべきだが、 そうでない人が多数である会ではもっと噛み砕く必要がある。
仕事の順番を間違えた。 いやそんなに致命的でもないんだが、論文作成より締切のあるプレゼン資料作成を優先すべきだった。 結構ギリギリ。
ネクタイしめて、コート着て、革靴履いて家を出ること20分、地下鉄の中で気付いた。 スーツの上着着てねえ。 忘れるもんなんだなあ。 なんつーか、びっくりだ。
発表で上着なくても大した問題じゃないということが分かった。 なんか経験値が上がった気がする。 決して必要ではない経験だが。
京都川端二条のジャスコで売っていた『有機百倍納豆』という納豆が美味かった。 しそ風味のたれが絶品。 大阪に来てその納豆探したが見つからずに諦めていたのだが、出張先の朝食でその姉妹品と思しき納豆(『有機畑のおくりもの』ヤマダフーズ)に出会った。 大丸とか探したらあるかもな。 今度見に行ってみよう。
予算残額を使い切るために物品選定とか見積り依頼とか書類処理とか。 出張が終わったら論文にかかれると思っていたのに……。
単年度決済のバカヤロー。 会計処理の関係上3月半ばまでに全ての予算を使い切らなければならない。 いや勿論必要性の高いものから購入してどこに買う/買わないの線を引くかという問題であって無駄に買っている物は何一つないんだけどさ、年度会計を丁度ゼロにするために神経を使ってそのために浪費している作業コストがバカにならないと思うんだ。 そのために教員の研究に割ける労力が減ってスループットが落ちると思うんだ。
処理が遅れると事務とか方々に迷惑をかけかねない。 そういうプレッシャーが一番しんどい。 他の作業している時でも脳に頻繁に割り込みがかかってしまい、処理能力の低下を招いてしまう。 来年から予算は早めに使い切るようにバイアスをかけよう。 あと こういう情報を整理するのは私が向いてそうだから、研究室全体の予算の情報を私が管理して、さらにもしかすると使途を主導していってもいいかもしれん。
『るぷぷキューブ ルプ☆さらだ DS』。 山歩きモード以外を踏破。 このゲームのパズルはよく出来すぎていて、やっている間解けると信じられないような面もざらにある。 パズルゲームを根気良く続けるのには、最も大事なことは「必ず解がある」と信じられることだと思う。 そして山歩きモードのよくないところは解けない面が生成される可能性があるということ。 このモードよりは、既にクリアしたどれかの面をランダムで出してくれた方が絶対良いと私は思うのだ。
プレイ時間を見ると 72時間。 発売が 1/31なので、大雑把に平均すると1日2時間くらいやってたことになるのか。 そら日記書けんわ。
1ヶ月分の日記を書いたよー。
去年 PS版ルプ・さらだ を借りた時の交換条件がレビューを書くということだった。 著作物としての扱いがどうとか言うてなかったし、相手にとってはそういうシステムが成立するかのテストのようだったらしいので、まあ公開してもいいだろう。 送ってから1年近く経つし。 ということで以下はその時書いたレビュー。
竹本泉の漫画(ルプ・さらだ)をモチーフとしたパズルゲーム。 単純なルールでも多彩なトリックを作ることができるという好例で、面ごとに目新しいトリックが現れプレイヤーを飽きさせない。 一つのトリックをクリアした達成感に気を抜いてしまうと、別のトラップに引っかかりクリア不可能な状態に陥ってしまうこともしばしば。 全く心憎い。
良い問題を作るのは良い答えを得るより重要である、という数学についての言葉がある。(出展不詳) 我々はこのゲームで提示される問題を解くことができるだろう。 だが同じルールでこれよりも美しく楽しい面を作ることができるかと問われれば、 私のような凡人には大きな疑問符が付く。 どう考えればこういう面を作れるのか、どう発想しているのだろうか? 新たな面に出会う度、それを解いてそこに仕掛けられたトリックを理解する度に改めて製作者に感服する。 表100面をクリアすると裏面に挑戦できるようになるのだが、その時に現れる「クリアする必要はないよ」という親切な(?)忠告がこれまた心憎い。
なお、パズルゲームとしてのゲーム性は原作漫画とは全く関係がなく、そういう意味では『ルプ☆さらだ』がパズルゲームである必要はないとも言える。 ゲーム中の BGM はデフォルトでは面のテーマに沿った歌になっていて、全て竹本泉が作詞したもの。(だったはず) これがまた、イイカンジに電波ソングになっている。 難解な面では小一時間、あるいはそれ以上試行錯誤することがあり、そのあいだ流れ続けるこの歌がイイカンジに頭に残響する。 この歌の妙な持ち味を堪能するには、アクションやアドベンチャーではなく、やはりパズルゲームであるべきだったと考えられる。 歌が好みでない向きには BGM を音楽または OFF に変更できるが、 許容できる心の広い方は是非竹本泉ソングを堪能して欲しい。
PS版200面、DS版360面を全て自力でクリアしたのだが、私はその全ての手順を記録した。 それをとりあえず公開しておこう。
ここ一月くらい、指輪物語を読んでいる。 評論社版 瀬田貞二訳、旅の仲間4冊、二つの塔3冊、王の帰還2冊、追補編1冊の奴。 今5冊目に到達した。 ファンタジー好きな人間としてはもっと前に読んでおくべきだったんだろうとは思うのだが、学生時代は他にやるべき事ややりたい事があって読む時間が取れなかった。 しかし大学から徒歩5分とか大学敷地内に住んでいた当時とは異なり、今は通勤時間という大きな浪費時間がある。 しかも英語の原典が手に入れた今では、後に英語で読んで英語の勉強に役立てるという大義名分も立つ。 ……んだけど、最近読んでる最中の本を紛失して読み進められない。 家のどっかに転がってる筈なんだけどなあ。
瀬田貞二の訳は若干古臭い気がする。
『Fate/hollow ataraxia』開始。
休み。 箕面の山をドライブとか。 あの猿は轢いてしまいそうで怖い。
正月に車の前面を飾る風習がある。 正月飾りとか言うらしい。 あれはミカンの黄色が中央で色彩にアクセントを加えているのだが、箕面のあたりではミカンの存在しない、何とも締まらない飾りをつけた車が山から下りてくることがある。 それはミカンを猿に取られた、ということだ。
休暇を取ったので、4連休の2日目。
早起きをしよう。 6:00に起きて7:00に大学に行けば、17:30に退勤しても文句はない筈だ。
草津温泉って滋賀県草津だと思っていたよ!
Fate中。 私の脳内後藤は零観さんのような引き目キャラだったのだが、違ったようだ……。 あと鐘ちゃんすげー。おもしれー。
播州のとある片田舎。 断片的にしか見てないが、なかなかに探検心をくすぐる土地だった。
両性生殖ってよくできたシステムだよなー、とかおもった。 私みたいな一人でいることが苦でない人間は自分一人で生きていく方がラクな場面も多いわけで、 それでも結婚に憧れる要素として子供を為してみたいというのが無視できない。 もし人間に単性生殖が可能ならば、私は結婚せずに単性生殖を選ぶかもしれない。 そういう人間も少なからずいると思う。 だけれども、そういうことを種族の大多数がやってしまうと遺伝子の多様性が確保されず、種全体として脆弱になってしまう。 人間は異性と結ばれることでしか子孫を残せないため、強制的にそうされてしまうわけだ。
そういう観点で興味深いのはミジンコか。 生存に好適な環境では単性生殖でガンガン増えて、 環境が悪くなったら有性生殖で遺伝子の多様化を図る。
いろいろ議論になってない議論。
手間を惜しまないことは美徳だが、無駄な手間を払うことは悪徳だと思う。
子供のころ、ポンキッキの『ごあいさつのうた』というのが何か怖いと感じていた。 アニメに出てくるキャラクターはキバやツノの生えている獣なのだが、それ自体はそれほど怖くなかった。 彼らはきっと、人間を擬人化したキャラクターだろうから。 私が怖いと感じたのは、2番に入ってから人間の女の子が登場すること。 人間の形をしたキャラクターが出現することによって、それまでの獣が人間を擬人化したキャラクターではなく、本当の獣であったということになる。 そして女の子と獣が混在している環境で、獣が女の子に危害を加えないか、とかそんな感じ。 勿論就学前の幼児であった時分にはキチンと理由を説明できなかったが、今考えてみれば何となく説明できるなあ、と。
鳥山明的世界観との対比を考えると面白いかもしれん。
辞書をよく引くようになった。 通勤時間に本を読むようになり、知らない単語やより詳しく理解したい言葉を携帯電話から PC にメールし、家や研究室 PC 上で辞書を引く。 辞書こそ正に PC で扱うべきアイテムでありけれ。 ……ということをやっていて、元々私は日本語とかに関する興味をそこそこ強く持っていたことに気付いた。
辞書で言葉の意味を説明するのには言葉を用いなければならない。 この辺、不完全性定理に似ている気がする。
『一方、ソ連は鉛筆を使った』のジョークはなるほど面白いが、実際問題として無重力状態で鉛筆を削ると粉とかが大変になる気がする。 そうだとすれば、このジョークでアメリカが行ったように、無重力状態で書けるボールペンの開発に巨費を投じる意義は十分にあったと言えそうだ。
研究室の片付け整理作業に学生が一人も来なくて憤慨したが、呼びかけ方が良くなかったのだと反省した。 名指しあるいは欠席の理由を返答させるべきだった。
『Fate/hollow ataraxia』。 若干蘊蓄がくどいかなあ。 まあもともとそういうところが味なような気もするが。 あとライターの癖かな、ルビのセンスが他と違う人がいる。 その表現は、ちょっと鼻につく。
しかし、構成というか、話の構造が上手くできていて惚れ惚れする。 マルチエンディングゲームの後日談ならば「どのエンディングの後なのか」という問題が常について回るが、本作の設定である「彼によって望まれた、あらゆる可能性を含む世界」というのは本編の全てのエンディングを包括することができる。 どの特定のエンディングの後の世界でもあり、またどれでもないわけだ。
hollow ataraxia では彼の本体が差し変わっている。 Eclipse とはその変わった彼が翳る、すなわち本来の彼に戻っていることになる、ということだろう、たぶん。 だから Eclipse のエロシーンは本来の彼がやっているということになるのではないか。
ということで『Fate/hollow ataraxia』のシナリオ部分終了。 あとは花札。 というか Fate 始めた動機の一つが花札っぽいゲームをしたかったというのがあるのだが、 なかなか出来るようにならなかったのでついつい時間を食ってゲームを進めてしまったことだなあ。
『Fate/hollow ataraxia』は最後の遊びのつもりでやっていた。 あとは余程のことがなければ暫くアニメも見んし、ゲームも見ない。 そんなことをやるのは、「心の贅肉」だ。 うむ。いい言葉だ。 頑張ろう。
『威力棒 Vii』。 クソワロタ。
私が描きたい漫画を描くのにキチンとした絵を描くスキルは必要だったが、 しかし絵を描くより先に勉強しようとしていたのは失敗だった。 勉強するより先に沢山描いて、その壁にぶつかるとかしておかないと学習の効果が薄れるし、そういう学習の仕方をすると何より面白くない。 面白いということは、それはそれは大事なことだ。
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